第144話 こんなに、いたい世界だから
二人きりになった頃、太陽は地平線を超えていなかった。
しかし早朝の空は、もうどこまでも青く色づいていた。
「……覚えてるか? 太陽が山を越えてくるんなら、朝になる前に俺達が山を越えれば、夜の太陽が見られるんじゃないかとか。今思うとくだらないけど、ふと思い出したよ」
アイナの横で思い出語りを続けるリーベに残された時間はもうない。
全身のほとんどが光へと置換されては、シャボン玉のように消えていく。
アイナの寝室は、最後のイルミネーションで満ち溢れていた。
祝いの席のような雰囲気にも関わらず、祝福すべきことは起きない。
妹は意識の淵から這い上がることは無い。
兄はあと数分先に存在することは無い。
悲劇の兄妹は、それでも最後の時間を共に過ごし続ける。
「それにしても寂しいな。昔はお兄ちゃんと結婚するとか言ってたのにな。あんないい男見つけてくるとはな」
「……」
「しかも妹みたいなのまで出来ているし。それも魔術人形って。けど、めっちゃ懐いてたじゃねえか」
「……」
「後聞いたぜ。まだ自分の店を持つって夢、持ってたんだな。アイナは料理が旨いからな。お兄ちゃん応援するよ。応援、したかったが……」
「……」
「本当にごめんな。お兄ちゃん、アイナがずっと死んだと思ってて、もう何もかもがどうでも良かった。生きているって知ってても、俺は止まれなかった。だってこの世界はこんなに、残酷だから……怖かった」
「……」
「そして今でも怖いんだ。こうやってアイナは傷ついている。散々苦しんで、もしかしたら今から死ぬかもしれない。俺の危惧は間違いじゃなかった。心配していた通りだったから……」
「……」
「……でもそうやって、恐れていたから……結果的に、アイナを傷つけた。俺がやってきたことは、俺達の様な獣人を追い込んだだけだった……俺のやってきたことは、結局裏目に出ただけだった」
「……」
「ごめんな……本当に、ごめんな……」
「……」
「お兄ちゃんは……お前の為にも……獣人の為にも……寧ろ、いけない事をしたよ」
次第に自身の重圧に沈んでいき、俯く。
不安と後悔。それらを全て吐き出しながら、ただ消えゆく流れに身を任せていた――。
ぴく、と。
僅かに、振動があった。
(泣……ない……で……兄……ちゃ……)
その声も、振動も、リーベの弱さが生んだ気のせいだったのかもしれない。
実際この後、アイナが反応を示すことは無い。相変わらず昏睡状態のままだ。
神が気紛れに見せた幻か、それとも意識の蓋が僅かに取れたのだろうか。
「アイナ……お前……」
だけど、その声は遠く色褪せた思い出と同じだった。
自分のせいでアイナが傷ついた時、それを後悔していた時も、同じように慰めてくれた。
アイナは昔から、自分が傷ついた時には泣かない。
代わりに、誰かが傷ついた時には命一杯泣く。
アイナが心配するのは、いつだって兄が傷ついた時だった。
「はっ……あははっ……」
沈みかけていた表情に、生気が戻った。
まばゆい光の中で、リーベは確かに笑った。
泣きながら、ほんの僅かに生気が戻ったように感じたアイナの寝顔を見つめていた。
「ごめんな。お兄ちゃんはもう、心配は必要ない」
零した涙さえ、光になって蒸発していく。
「いい加減、妹離れしなきゃな。こんなにも痛い世界だけど、それでもアイナ、お前は生きて、みんなと一緒に居たいんだよな」
差し込んだ陽光が、一つの終焉を抱きしめる。
鮮やかな光の中で、ありったけの笑顔で、最後の言葉を紡いでいた。
「アイナ朝だぞ、早く起きろ。皆お前の事を待ってるぞ」
――外で待つクオリアの左目から、一つの反応が消失した。
アイナの隣で“クワイエット”の特殊な魔石をエスが拾うのは、それからすぐの事だった。
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