第140話 人工知能、止まらない
クリアランスと手分けし、クオリアを探していたエスは立ち止まる。
明らかに人の流れがおかしい場所に出くわした。魔石に登録されていた人間心理の一つとして、恐怖をそそる存在が出現した場合に逆方向に逃げる習性がある。
「人間の挙動パターンに異常を感じました。この付近で大きな問題が発生している可能性があります。それはクオリアとゲボカス野郎が関連している可能性が高いです」
そう判断しながら人の流れに逆らって上流に向かっていると、しゃがみこんでいる獣人の少女を発見した。
「説明をお願いいたします。この付近で何か問題が発生していますか」
ガタガタと震えていた少女は、恐る恐る指を差した。
その方向では、鈍い不協和音が何度も連続していた。
馬乗りになっていたクオリアから、暴力の音が聞こえた。
■ ■
「ぶ、ば、ぶ、ばば、ばべ、
もうバックドアに残っていた歯は無かった。辛うじて三本ぶら下がっている状態だった。しかし構わず足で固定したまま、バックドアの顔面を目掛けてクオリアは拳を振り下ろす。
薙ぎ降ろす度に、骨とぶつかった手の甲が軋む。異常はない。
手に痛みが蓄積して、激痛が走る。異常はない。
何度も殴りつけていると、遂に手の骨にヒビが入った。異常はない。
5Dプリントによる緊急メンテナンスを起動する。両の手を直す。殴り直す。
「……排除する。排除する。[N/A]、排除する」
そもそもクオリアの肉体は、サンドボックス領では落ちこぼれとされていた。
だからこそ気絶も狙わず、ただ殴りつけるだけの拳に大きな攻撃力は無い。
「ぼ、ぼぼぼ、やべ、やべっで、ぼ、ぼ、ぼぼ」
しかしそれでも蓄積すれば骨は折れ、肉が潰れる。
一発で死ねない分、バックドアにとっては地獄が長引くだけだった。
バックドアの右眼球が潰れた。異常はない。
バックドアの顔が腫れて認識不可能になってきた。異常はない。
口から鼻から血が噴き出た。異常はない。
返り血で塗れてきた。異常はない。
バックドアの生命活動が停止しそう。異常はない。
捕縛ではなく、排除になりそう。異常は無い。
何か大事なことを消去してしまった気がする。異常はない。
しかしクオリアは構わず、怒りを注ぎ続ける。異常はない。
異常はない。異常はない。異常はない。異常はない。
異常はない。
異常はない。
異常はない。
異常はない。
異常はない。
異常は――
『心は、死という概念を持っているのか』
真っ赤な火花。
破壊を知らせる残響。
両手から走る信号。
溜まった液体は、鋼鉄の臭いがした。
舐めてみると、鋼鉄の味がした。
美味しくなかった。
『はい。心が死ぬと、痛みの概念が分からなくなって……いっぱい、人を傷つけます。誰が死のうとも、自分が生きていく為なら……なんだってやるようになります』
クオリアは一つの会話を思い出していた。
アイナをアロウズから庇った後、“心が死ぬ”という事についてアイナから教えてもらった時の、心配そうな彼女の表情とと共に思い出していた。
殴る度にこの会話が鮮明になる。
傷つける度にアイナの悲しい顔が鮮明になる。
アイナの擬態はもう解いている筈なのに、妙なバグがサブリミナルとして視界を覆う。
それでも、クオリアは突き出す拳を止められない。
今また、頬骨を砕いた。
肉が圧縮し、骨同士が割れる。
アイナを思い出す度に、アイナの悲しい顔を見る度に、クオリアの体は復讐に向かって動く。
アイナを見る度に、目前で傷ついていくバックドアへぶつけてしまう。
“許せない”という、心を。
(アイナ、説明を要請する)
(アイナ、あなたの説明を要請する。あなたの声を、要求する)
結果、クオリアは一人だった。
一人、真っ暗な世界で、真っ暗な相手に殴打を繰り返していた。
(
クオリアは繰り返す。
排除と、排除と、排除と排除と排除を。
(しかし、
クオリアは止まれない。
星も希望も無い漆黒に、心が沈んでいく。
(
クオリアの右手がまた割れた。
その時、クオリアの中で何かが更に割れた気がした。
(だからアイナ、あなたの声を要求する)
一生覚めないかもしれない眠りから、覚めない。
もうアイナの記憶だけの声も、届かない。
(アイナ、クオリアの心の確認を、要求する――)
ただ後ろから、そっと近づく。
“綺麗”で“可愛く”て“好き”で、人間へと引き戻す抱擁をふと思い出した。
「クオリア。お前の行動は誤っています。停止を要請します」
振り上げた右腕を、抱きしめた小さな影があった。
エスだった。
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