第95話 猫になれた、君の腕の中。寂しい夜はもう終わった③
ビーフシチューを食べる瞬間の、若干不安げなクオリアの表情。
アイナから見れば昔のクオリアと変わらなかった。
美味しいかどうか見守る気持ち。クオリアは気付かないが、それもまた一つの調味料であったりする。
だから当然、アイナから返ってくる本音は一つだけだった。
「美味しい、です」
「……」
「こんな料理を作れるなんて……わ、私の料理よりも、物凄いプロみたいに作れてる……」
心が満足を示すように、純粋な少年らしくクオリアの目が一瞬見開く。
だが直後、人工知能としてで無粋にも問うのだった。
「……説明を要請する。あなたが作った食事より、美味しさを下回っていると推測される。それにも関わらず、あなたは何故“美味しい”と発言したのか」
全ての食材の鮮度に異常はない。
設計図から一ミリもズレることなく食材は切り揃えた。
一秒の誤差も無く、一ジュールの誤差も無く煮込んだ。
しかし結論として、クオリアが求める水準の美味しさに至っていない。
この異世界に来て“美味しい”を教えてくれたアイナのロールパンには及ばない。
だからクオリアは、そんなものをアイナに食べてほしくなかった。
一方のアイナは、その理由を敢えて言葉にする。
「きっと、クオリア様が心を込めて作ってくれたから、私には更に美味しく感じられたのだと思います」
「心」
『心とは何か』。
クオリアの演算が一瞬停止した。
その問いが、さらに難しくなった。
「エラー。
アイナは一瞬顔を真っ赤にして躊躇ったものの、勇気を出してもう一度言葉にする。
「はい……クオリア様の心、気持ち、いっぱいこのシチューから伝わってきました」
「……エラー。本調理工程に、
「大丈夫です。きっといつか、それが何なのかクオリア様が思い出す日が来ますよ」
「説明を要請する。転移する前のクオリアは、食事に心を投入していたのか」
懐古する様にアイナが微笑んで目を伏せる。
「……クオリア様は、もう覚えていないかもしれないですが……最初にクオリア様と会った時、同じように、私の心を癒してくれたんですよ」
もう一度伏せた目を、クオリアに向ける。
アイナには二つの、同じ顔が見えた。
一見淡々としながらも、その裏では人間よりも考えている
不安げそうに、アイナの口に合うかだけを考えていた
「あの時も、クオリア様が持ってきてくれたのはビーフシチューでした」
本当に異世界転移してきたのかもしれないし、性格としては真反対かもしれない。
12歳のクオリアは、料理に不慣れだったのか粗があった。
15歳のクオリアは、最適解通りのどこか人間味を感じさせない作りだった。
この二人は、あまりに違い過ぎている。
それでもアイナからすればどちらも同じだった。
その根底は同じ、獣人の自分を救い、守ってくれたクオリアだった。
優しい心が、ビーフシチューに現れている。
「もう一回言います……とても、美味しいです……ありがとうございます」
「……」
「はいクオリア君、怒らないから正直に言ってみ? アイナちゃんが嘘言ってるように見える?」
「クオリア。これは美味しいです。アイナは嘘を言っていません」
ずっと見守っていたロベリアが、固まっていたクオリアの背中を軽く押しながら口を挟んだ。一方エスは自分の皿にビーフシチューをよそって、口にべったりシチューを付けつつ含んでいた。
その二人を見た後、クオリアは泣きそうになりつつも、笑顔を絶やさないアイナにたどたどしく人らしく口にするのだった。
「“あり、がとう”、“うれし、い”」
「私も……すごく、嬉しいです」
クオリアにもわかるくらいの本音を口にしたアイナは、後ろにいたロベリアとエスにも声をかける。
「良かったら、ここで皆で食べませんか?」
「……体調とか、お兄さんの事とか大丈夫?」
「はい。一人でいるよりは……出来る事なら、皆の前で泣きたいです」
「……よし! 乗った」
アイナの涙と笑窪を見たロベリアは、最大限の笑顔で励ますように頷いた。
「あ、でも……テーブルとか持ってこなきゃ、今持ってき……」
「その必要は無いと判断する。
「いや、クオリア様とロベリア様を差し置いて、私がベッドの上だなんて……」
「アイナちゃんお姉さん悲しいぞ。未だにそんな風に距離を置かれているなんて」
こうなってしまえばロベリアのペースで、クオリアもロベリアもその場に座るのだった。一人先にビーフシチューを食べていたエスはロベリアに袖をぐいぐいと引っ張られ、ようやく座る。
「あっ、スピリトも呼んでこようか」
「その必要は無いと判断する。スピリトの到着を確認した」
クオリアが入口を見た時と、引き裂かれた脚を引きずってスピリトが通りかかったのは同時だった。
全員の視線にぎょっとしながらも、場を見て全てを察する。
「スピリト様、脚は大丈夫ですか……?」
「大丈夫大丈夫。あと半日ありゃ治るから。私も修行不足ね」
「スピリト。あなたもここで、ビーフシチューを食事する事を推奨する」
「……私の分あるの?」
「あなたが食事する事も想定して、量は計算してある」
「……弟子に世話になりっぱなしだと師匠の面目が立たないけど……じゃ頂こうかしら……ってうまああああああ!?」
そして美味しさに驚愕するスピリトにまた声をかける。
そこから会話が始まる。
食器を両手に、ふわりとそそる濃厚な香りを堪能しながら、生き生きとした個性ある言葉が飛び交う。
“美味しい”が部屋を回り回って、染み渡っていく。
「……」
話題はリーベとアイナの話になった。
過去、何があったかも惜しみなく話した。拷問の事も、断頭の事も話した。
だけどそれまでにあった兄の優しさの事も話した。
兄妹で生きてきた十年の事も話した。
一瞬だけ、アイナは寂しくなった。
隣に兄がいるような気がして、見たら居なかったからだ。
でも、すぐに気付く。
「でも、私、大丈夫です」
アイナはもう一人ぼっちじゃなかった。
手にあるビーフシチューが、その証左だ。
寂しい夜は、どこにもない。世界は広がるばかりだ。
他でもない、クオリアの手に導かれながら。
「クオリア様」
『クオリアさん』
と、声をかけた時、ある幻聴が聞こえた。
遠くの過去で、しかしすぐ近くで聞こえた。
自分に重なって、クオリアと出会った時のアイナ自身がいた。
あの頃のアイナも布団の上で、ビーフシチューを持っていた。
少しだけ懐かしい思いをしながら、ビーフシチューの容器を空にして、嬉しくて涙を流して、腕の中に飛び込みたい気持ちを抑えて、同じ感謝を口にする。
「本当に、ありがとうございます」
『本当に、ありがとう』
クオリアはというと、三年前ほどに感情表現が豊かではなかった。
それでも照れて笑っているか、鉄仮面に本人も気づかない程の笑みが浮かんでいるか程度の違いでしかない。
「“どう、いたし、まして”」
『どういたしまして』
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