第93話 猫になれた、君の腕の中。寂しい夜はもう終わった①

『お兄、ちゃん……』


 兄が死んでからのせかいは、曖昧だった。


 辛うじて覚えているのは、監獄に現れた化物に兵達が集中し、無人になった脱出ルートをアイナが進んでいた事くらいだ。

 微かに残っていた生存本能による無意識の脱出行為と、千鳥足ながら歩くことが出来た残り粕の体力と、脱出ルートに番兵がいなかった偶然が重なり、奇跡的にアイナのみ脱走が出来た。

 この時"げに素晴らしき晴天教会”の外道達を虐殺していたのが、怨念と成り果てた兄である事も知らないまま、ニアミスで会えないまま、外で一人アイナは咽び泣く。


 涙はやがて、人間への憎悪と変わり果てていた。

 いつか抱いていた、“美味しい”を届ける店を建てる夢は、泡沫に消えていた。


『……あれも……私達を肥料に、いいもの、食べてるに、違いない……』


 拷問の傷もまったく癒えぬまま、気づけばサンドボックス領に流れ着いていた。

 そして、夜道を歩く白髪の少年を見つけた。同い年くらいの少年だった。纏う身形から高貴な身分である事は直ぐに嗅ぎ分ける事が出来た。


『ふーっ……ふーっ……』


 血走った眼で、憎悪を吸って吐いてしていた。

 一人でも多く“美味しい”思いをしている人間を八つ裂きにしたい。

 そして金や食べ物を引きずり出したい。


 どこまでも追い詰められた少女の顔に、"美味しさ”など微塵も存在しなかった。


『あなた、達は……私から……何もかも……、全部!! 奪っていった!!』


 他人から何もかも奪う事を、アイナはもう厭わなかった。

 激情に心を支配されたまま、どこで拾ったかも思い出せないナイフを少年に突きつけた。


『お金と! 食料を出して!! 全部持っているものを出して!! 今度は私が……全部奪ってやる……!!』


 細く短い柄。強く握りすぎて、両手から血が滴る。

 錆びた刃の向こうで、少年が冷や汗をかいている。僅かにアイナの心に迷いが生まれるも、兄を断頭した"げに素晴らしき晴天教会”の愉悦顔が蘇る。

 もう、躊躇わない。

 少女は、心の全てを本能にゆだねる事にした。


『出し……て……あっ』


 しかし檻から歩いてきた体力も、ここが限界だった。フラッとよろめいて、その場に寝転んでしまった。

 少年が駆けてくる。

 視線と同じ高さにある靴が近づく。

 殺されるのだろうか、拷問されるのだろうかと観念して目を瞑る。


『ひどい傷じゃん……ねえ、君、大丈夫!? ねえ、ねえ!』


 だが傷つけるどころか、少年はアイナを抱えた。

 抱きかかえた時の腕枕が、いやに心地よかったのを覚えている。引っかき傷を与える事さえ躊躇う優しさだった。

 それもその筈。今まで人間が獣人を見る目とかけ離れていた。

 少年は、心の底からアイナを心配していたのだ。


『あなたは一体……』


 


『……僕は。君は? っておい。おーい!!』


 それはまだ、"人工知能がインストールされていない頃の、弱くとも心優しき少年だった”。


 こうして、猫は拾われた。




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