第88話 人工知能、対話する
ゴーストとしての歪んだ暗黒物質に変換された、リーベの意志。
クオリアは、リーベの意志の目前にいた。
幽々たる拷問と血のみの檻の中、クオリアはようやくリーベと正対する。
「どうしてだ」
最早、妹想いの少年だった面影は存在しない。
すっかり色褪せた顔つきで、空しくクオリアを睨んだ。
「どうして、お前はここまで、俺にそんな嘘をつく。アイナが死んでいないなんて嘘を、どうしてつける?」
乾いた笑いが、檻の中で響く。
「あの枢機卿の様に、人の心を弄ぶのがそんなに嬉しいか。俺だけの世界に入ってきてまで、物好きな奴だ。死んでしまえ」
荒々しく言葉を吐き捨てると、リーベの意志が暗黒へと回帰し始める。
世界を覆い始めた漆黒を見渡すクオリアに震えはない。
ただ、リーベをラーニングしようという澄んだ眼があるだけだ。
「説明を要請する。あなたはアイナが出す食事で、何が美味しかったか」
「……何だと」
ぴくりと、光無き空気が止まった。
「
そのロールパンは、クオリアがこの異世界で再起動した直後に食べたものだ。
クオリアに、"美味しい”をインプットさせた小麦の料理。クオリアはその味を脳内で反芻する。
「……」
リーベの世界に、幼き兄妹が映し出される。
『アイナ、そのロールパン作ったのか?』
『えへへ……うん。良かったら、食べて』
『……美味しい、美味しいぞ』
『本当? 美味しいって言われるの、嬉しい……いっぱい、私これから、美味しいの作りたい!』
あどけないアイナの笑顔と、元気づけられたリーベの姿が遠く褪せていく。
「俺も……ロールパンが好きだった。アイナのロールパンが、世界で一番好きだった」
「その"美味しい”を、
「……!」
「"美味しい”を創れるのは、生命活動を維持している存在だけだ」
再び敵意が蘇る。
暗黒に輪郭を揺らめかせながら、リーベはクオリアを睨みつけた。
「……お前も見ただろう。この檻には、沢山のアイナの血がついている。こんな中で、アイナが生きている訳が無い!」
「
土の壁に、アイナの血が付着している。でも関係ない。
"げに素晴らしき晴天教会”の連中が見張っていたはずだ。でも関係ない。
どう考えてもアイナは生きていない状況だ。でも関係ない。
「しかし、アイナは現時点で生きている。あなたはそれをラーニングするべきだ」
そう言うと、クオリアは魔力を書き換え始めた。暗黒物質という檻の中に、光となる魔力を注いで、世界を書き換え始めた。リーベが暴走しない様、リーベが消えない様、特定の魔力を注入し続けていく。
既にリーベの暗黒物質は、魔石の様にラーニング済みだ。
そうなればディードスの指示を断ち切ったように、ブラックホールを無力化した様に、ハッキングが出来る。
リーベの闇を晴らす設計図は、頭の中にある。
それはさながら、リーベの手を引いて檻の外へと引っ張り出すかのようだった。
「お前、何をする気だ……!」
「あなたは誤っている。
クオリアがリーベを連れ出した先、映し出されていたのはロベリア邸だった。
クワイエットゴーストの視界が、そのままリーベの意識に映し出される。
黒衣の騎士達が、剣を構えてこちらを見上げている。カーネルも細い目を更に細め、射止めるように睨んでくる。
クオリアがハッキングしたことによって心中にリーベの意識が行った結果、
スピリトという剣士の少女も、エスという魔術人形も一人の少女を庇う様にその前に佇んでいる。
けれど、その後ろから進もうとしている猫耳の少女がいた。
必死に誰かの名前を叫びながら、泣きそうな目でこちらを見ていた。
「アイナの……真似をする、奴……」
「記録の検索を要請する。あなたは、アイナのあの顔を、記録している筈だ」
図星を突かれたようにリーベが真顔をクオリアに向ける。
連想された記憶の景色が、クオリアの後ろに出現する。
手傷を負った少年リーベに、幼きアイナが寄り添っていた。
『お兄ちゃん、お兄ちゃん……あ、ああ……』
『死にはしないよ……っておい、そんな服を破いてまで治療なんて……』
『駄目! お兄ちゃん……死んじゃ、やだから……』
瞼一杯に涙をためて、涙腺を作ったときのくしゃくしゃな泣き顔。
記憶のアイナと、今のアイナはそっくりだった。
真似と呼ぶには、あまりにも真っすぐに心配し想う眼は、似すぎていた。
「あれは……いつも、俺にしていた、泣き顔」
「アイナはあなたの話をするたびに、"美味しくない”表情を選択する」
リーベの隣に立って、クオリアはアイナを語る。
「アイナは今でも、あなたの死を想起している。あなたと同行する事を望んでいた。あなたと一緒に生命活動を維持する事を望んでいた」
「……」
「そのような事は、生命活動を維持している個体でなければ不可能だ。そのような事は……あなたの記録の中に多く存在するアイナ本人でなければ、不可能だ」
「アイナ……俺は……」
クワイエットゴーストの向こう側で、必死に叫ぶアイナの姿があった。
俯くリーベの頭を、後ろから両手で持ち上げる。否が応でも視線を逸らさせない。
アイナを止めようとするクリアランスや、スピリトやエスの姿が見えた。
三年前と違ってアイナを傷つけるために集まった人間達ではない。
アイナを守る為に必死に戦っている、そんな集団だ。
「アイナ……そうか、そうか、そうか、お前は……」
『クオリア様……!』
アイナの声も、リーベの暗黒物質に響いた。
誰かを心配することが得意な、か細く、しかししっかりと届いた声だった。
その声で、アイナは口にした。
『お兄ちゃん……!』
その声は、暗黒に差した一条の光のようだった。
フォトンウェポンの
それを聞いて、一瞬だけリーベの動きが止まる。
「……人は光を見ると、目が眩む仕様になっている。光を見れば、一時的に目へ不利益な影響を及ぼす」
「……」
「しかし、あなたにはアイナを見ることが必要だ。目が眩む不利益を受けたとしても」
リーベの唇が震える。
もう、クオリアが頭を支える必要はない。
何故ならリーベはようやく、アイナを見る事が出来たのだから。
「もう一度あなたの眼から、今の情報を取得する事を要請する!」
「……アイナ」
世界を覆っていた暗黒が、少しずつ、少しずつ晴れていく。
しかしそんなゴーストの中身をラーニングしなくとも、クオリアには分かる。
やっと妹に会えた、リーベの“
「ハッキング完了。タスクを終了する」
クオリアが目を開けた時、水面に映る満月の様に揺れて、そして消えていくクワイエットゴーストが浮かんでいた。
魔物は透明になっていき、そして獣人の姿に戻っていく。
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