第89話 人工知能、兄妹の会話を聞く
クオリアはただ
獣人の兄妹の、互いを見る目から疑いが消えかかっていることを。
「……アイナ。お前は本当に、あのアイナなのか」
「……うん」
アイナも、目の前の存在を兄だと信じ、近づこうとする。
騎士やスピリト達に阻まれ、それ以上進めないが、それでもリーベから目を逸らさない。
その瞳は間違いなく妹のものだった。
幼き日、兄を想った妹だ。
「またお兄ちゃんと話せるなんて思わなかった。でも、私いっぱい話出来るよ……日誌にも、毎日何があったか残してるから」
「……俺がまず知りたいことは、一つだけだ」
しかし最初から確信していたように、リーベは微笑む。
「アイナ。お前は檻から、ちゃんと生きて出られたんだな」
「……うん。お兄ちゃんと一緒に出たかった」
騎士達の壁に阻まれて進めないアイナを見て、クオリアが騎士達へ声をかける。
「守衛の解除を要請する。アイナをリーベと接触させる事は有益に繋がる」
「しかし……」
騎士達から見れば、目前の存在は未だ最凶の怨念。警戒するなという方が無理な話だった。
だがアイナを守衛する集団を見て、リーベは落胆するどころか更に安堵した。
「……人間が、まさかアイナを守っているとは、思わなかった」
人間は、いつだってアイナとリーベの敵だった。
アイナに人間が群がる時は、暴力を振るう時か、リーベと引きはがして自由を奪う時のみだった。
しかし今のリーベの視界に映っている人間はどうだろう。
アイナを守る為にリーベ自身に剣を向けている集団だった。誰一人として、アイナを傷つけようとしていない。
ましてや一番間近にいるクオリアは、アイナの為にリーベというゴーストに獅子身中の虫の如く飛び込んできた。そんな事をする人間は、間違いなくこれまで存在しなかった。
そんな人間達を見て、リーベの中で氷が融解しつつあった。
勿論、溶けきる事は無くとも。
「お兄ちゃん、体が……」
リーベの体が、段々と透き通っていく。
後ろの庭が、リーベというフィルターを通して見えるようになっていく。
「……力が抜けていく……消えるのが近いという事か」
「まさか……成仏してるって事かしら?」
カーネルの推測は、クオリアも同じところだった。
そもそもゴーストは、果てしなき憎悪の感情が突然変異を起こした歪な魔力の塊だ。リーベは妹であるアイナへの憂い、そして死したと思われる絶望をトリガーに死して尚ゴーストという幽霊に成り果てた。
その根源たる絶望が消え始めた事で、ゴーストたるリーベもその存在を弱めていく。
しかし、まだ完全にリーベの中から疑念が消えたわけではない。
絶望は潰えても、将来への憂慮はゴーストの形を維持できるほどに残っている。
「……だが、それでも俺は人間を殺す。聖戦を止める気は無い」
そこで、リーベの透明化が減速した。
不吉な言葉が、空気を少し重くする。
「俺は蒼天党のリーダーだ。散っていった獣人達の怨念も背負っている……今更俺一人、戻ることは出来ない」
「死人の魂に惹かれるは、幽霊の宿命ってワケ?」
皮肉を言い放つカーネルの隣で、スピリトの怒号が切っ先の様に投擲された。
「あんたねえ、いい加減に気付きなさいよ! そんなテロした所で、獣人の立場が悪くなるだけだって事、アイナがどれだけ苦しむのかわかってんの!?」
「それは獣人を知らない、人間の言う事だ」
苦悩するリーベの顔が、薄らと揺らめく。ゴーストとしての存在維持が不安定になり始めている。
「“げに素晴らしき晴天教会”のような奴らもいるこの世界で……俺達獣人が安心して明日を迎えられるようになるには……アイナが生きていける真の世界にするには……人間を、食物連鎖の王座から引きずり降ろさなければならない……!」
振り絞るように言い放ち、前に犇めく人間達を睨みつける。
例えアイナが生きていたからと言って、まだリーベにとっては人間とはすなわち天敵である事に相違はない。
そんな腐敗した世界に、最愛の妹を一人残せない。
「……お兄ちゃん。大丈夫だよ」
リーベ苦悶の顔に、光が差した様だった。
アイナが呼びかけるように、必死に声を伸ばす。
「私も……お兄ちゃんがいなくなって、“晴天教会”から運良く逃げれた時……お兄ちゃんときっと同じ考えだった……人間は私から何もかもを奪っていく、悪魔みたいな連中だって」
一瞬だけ、リーベの記憶にあった幼きアイナをクオリアは思い浮かべた。
げに素晴らしき晴天教会に捕まっていた時の、体中に傷と青痣を浮かび上がらせ、死人と同じような沈んだ眼を開いていたアイナが重なった。
しかし、それも一瞬だけ。朝日のような励ます笑顔で、その影は消えた。
「でも……今は、人間をもっと信じようって思える。私、お兄ちゃんと離れ離れになってから、そんな人達と会ったよ……!」
「……」
アイナとリーベの目線が、一人の人物に向けられる。
クオリアという少年に向けられる。
「……お兄ちゃん。私達、悪い人間だけ見て生きてきたんだよ……きっと」
「それでも、この世は悪い人間だらけだ。また捕まって、痛い思いをするかもしれない。今度は首を刈られるのは、アイナかもしれない」
「そうかもしれない……生きていくのは、こんなにも痛いけど……でも、私はこの人達の中で、生きてみたい」
傷を介抱する幼き日の様に、泣いていた。
けれど美味しいと言われた日の様に、笑ってもいた。
「……お兄ちゃん、こっちに来よう……? 人間皆殺そうなんて、思えなくなるよ……」
「……それは、出来ない」
一瞬だけ沈黙した後、リーベはアイナから離れていく。
ゴーストで象った肉体が、透明になっていく。
背後の暗黒物質ごと、存在が不安定になっていく。
まるでどこかへ去っていくかのように、遠くなっていく。
「お兄ちゃん……どこに行くの!?」
「……俺はそう遠くない未来に、消えるのだろう……その前に俺は結論を出す。俺の存在が消える最後の時まで、存在をかけて人間共を抹殺するか……それとも」
「リーベ、理解を要請する」
クオリアは、疑心暗鬼なリーベの表情の中に、検知していた。
中々疑念の闇から抜け出せない、“
「アイナの“美味しい”は、
「……」
「あなたが、そのような行動を取る必要はない」
クオリアの言葉に、リーベが僅かばかり安堵をした。
遂に、誰の目にもリーベが見えなくなる。それは真赤な噓ではなく、本当にその場から居なくなったかのようだった。
その時、やっと一つだけ本音を置いていくのだった。
「人間と生きていたいなんて言葉、アイナから聞けるとはな……」
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