第52話 人工知能、兵器から人間へ戻ろうとする

「大変です! は、早く手当てを!」

「否決する。生命活動の維持には問題ない」

「そ、そんな風には見えません!」


 アイナは慌てて血を拭おうと、クオリアの隣にしゃがみ込む。

 一方で、クオリアはアイナの両手を見る。女店主を助けた時に張り付いた火傷の跡は、包帯に巻かれて隠されていた。


「あなたは両手の修復に集中をするべきだ。自分クオリア以外の損傷は、遺伝子や免疫によるリスクが大きく、5Dプリントによるメンテナンスでの修復は推奨されない」

「5Dプリントによるメンテナンス……? いや、私の火傷なんかより、どう見てもクオリア様の方が重傷でしょう!」

「5Dプリントによるメンテナンス作動」


 アイナへの不安を解消せんと、クオリアは全身へ右手から全てを生成し上書きする光を放射する。破れた皮膚や血管が時間を巻き戻したように塞がっていく。

 血を拭い、傷口のない腕を見せる。

 

 しかしアイナの顔から心配の色が消えていない理由を、クオリアは理解できなかった。


「じゃあどうして……こんなに血塗れになっていたんですか。さっきの戦闘では、大きな怪我は無かったって聞いてます……」

「PROJECT RETURN TO SHUTDOWNを実行しており、シャットダウンへの兵器回帰リターン機構をインストールしていた事を理由とする」

「……?」


 アイナは事情が呑み込めていないといった様子だった。

 だが理解できていなくとも、人間としてやってはならない領分を冒していることは察知したようだ。アイナの素早い瞬きが、それを示している。


自分クオリアは、マインドの“美味しい笑顔”を創る事に失敗した。他にも多くの生命活動が停止した。これらの結果をフィードバックした結果、早急にクオリアの肉体ハードウェアを改造する必要があると判断した。人間の“肉体”では、役割の遂行範囲に限界が――」


 淡々と連ねていたクオリアの言葉が、止まった。

 クオリアの手を握って見上げてくるアイナの悲痛な瞳が、視界に入ったからだ。

 最初にアロウズを排除しようとした時と同じく、『もう戻れない場所』へ行かないように留めようとしている。

 

 不思議だった。また振り払えない。

 このままアイナに理解を要請すればいいだけの話なのに。

 シャットダウンという兵器に戻ってしまえばいいだけの話なのに。

 人工知能としての役割を果たせばいいだけの話なのに。


 最適解を、実行できない。


「人間じゃ、無くなるという事ですよね……?」

「肯定する」

「……クオリア様は今、心が死んでいます」


 視界いっぱいに広がった泣き顔から、そんな事を言われた。


「話は聞きました。あのマインドさんを殺した獣人を許せなくて、殺めたのだと」

「それが自分クオリアが心が死んでいると推測する理由か」

「いいえ。仕方なかったと思います……でも、クオリア様はマインドさんを守れなかったことや、獣人を殺めたこと、それをずっと後悔して人間であることを捨てようとしています……!」

「それが最適解と判断している」

「クオリア様が人間じゃなくなった時、本当に“美味しい”って言えるんですか!?」


 言えない。人型自律戦闘用アンドロイド“シャットダウン”に味覚を感じるセンサーは存在しない。


「人間じゃなくなることが……美味しいと感じる心さえ無くすのが……本当に最適解なのですか?」

「肯……」


 肯定。とさえ、真っすぐに深く心配してくるアイナの言葉に返答することが出来ないまま、すっと全身を暖かさが包んだ。

 アイナに、正面から抱きしめられていた。


「こうやって、暖かさを感じることも、出来なくなるんじゃないんですか……?」

「……」

「クオリア様の鼓動、いっぱいとくんとくんって、伝わってきます……よかった、ちゃんと人間です」


 綺麗に整った二つの双乳。心臓同士が近くなるように、二人の体の間で潰れる。

 一瞬、クオリアは昨日風呂場で味わったものと同じ感情に襲われた。

 けれど同じテンポの鼓動を検知して、思考速度が遅くなった。

 蝶々結びの様にアイナの手や腕を検知して、思考精度が低くなった。


 左肩に乗るアイナの頬が、自分の頬にぴとりと密着していた。

 ふわり羽根のように軽かった髪が、少しだけ鼻にかかった。

 いい匂いだった。美味しいとは別ジャンルの、美味しいだった。


 凍るような宇宙の隙間で、手を差し伸べられたような気分だった。


「お願いです。クオリア様。人間であることを捨てないで下さい。世界中の誰もそんな事、望んでません」


 アイナは紅潮しきっていた。

 しかし恥じらいながらも、夢中でクオリアから目を逸らさない。


「じゃあ私が、獣人である事を捨てて、鉄の塊になったらどうします?」

「……自分クオリアは、あなたにそうならない事を要請する」

「私だって同じです」


 少女の小さな手が、純白の後頭部を撫でた。


「誰も、“美味しい”と思うことがなくなると思います。クオリア様が、人を辞めてしまったら」

「……しかし、“ハローワールド”の役割を果たすには、スペックが足りない」

「……人は、一人じゃ戦えないと思います」


 アイナは、抱擁をほどきクオリアに提案する。


「人は協力して歴史を作ってきました。ロベリア様も、ハローワールドって“守衛騎士”である以上、クオリア様一人にさせるつもりもないと思います」


 その解は、クオリアの中にあった。

 ただ、ずっと一人で世界と戦ってきたシャットダウンであるクオリアにとって、戦力としての仲間の存在は計算しない傾向があった。

 事実これまでの最適解に、仲間の存在はなかった。


「大丈夫、きっといい人が現れます。だって笑顔になりたいって、心ある人なら全世界全人類共通の考えですから。きっと」


 優しく微笑んで、そして瞬きした後真っすぐにアイナは口にした。


「だからどうかお願いです。約束してください。人間であることを捨てないで下さい。“美味しい”を守るために、“美味しい”から一番遠い存在になっては駄目です」

「……」

「クオリア様は、もう“シャットダウン”という兵器ではないんです。人工知能でもないんです」


 クオリアの別解が、解け始める。

 0と1では示せない、血の通った解答を探し始める。


「提案を受託する。自分クオリアは、人間の肉体であり続ける」

「はい」



 思えば、アイナはどうしてこんなにクオリアへ優しいのか、クオリアは分からない。シャットダウンが転生する前のクオリアとアイナの間に、何があったのかクオリアには分からない。

 ただ、この約束は解いてはいけない。自身の生命活動の停止と同じくらいの強さを持つものであることに違いはない。

 勿論、シャットダウンに回帰する事もまだ選択肢としては残っている。それでも。


「いっぱい色々あって、お腹空きましたよね。今、作りますね」


 振り返りながら渾身の優しさを向けて包み込むアイナという少女の“美味しい”がある限りは、この選択肢は選ぶわけにはいかない。クオリアの判断指針は、そうやって変更された。


「美味しい……美味しい……」


 食事をしながらそう言えるのも、人間だから。

 アイナの笑顔を見れるのも、人間だから。


「“ありが、とう”」


 まだ、たどたどしい『ありがとう』を言った。

 アイナは真っ赤な顔で、こう返してくれた。


「私達、“家族”ですから」


 家族なんて心がつながっているのも、人間だから。

 


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