4-5
外の海とは対照的に、こちらの〈海〉はいつもと同じで静かだった。
先輩の発火体は、わたしの前を泳いでいく。わたしは彼女を追う形となる。
「船が完全に嵐に入ったら、行動開始だ」ルカ先輩が言った。「全ての通信を遮断して、船を軍のネットワークから独立させる」
「嵐なら捜索隊も来ない」
「そういうこと。その間に、周囲の武装イルカたちにもコンタクトを取り、蜂起を促す。そうして仲間を増やしながら本土を目指す」
「それで軍に勝てるんでしょうか?」
「勝つことは目的じゃない。驚かせて、こちらの言い分を呑ませられればいいんだ」
「はあ……」
「それで、そろそろ答えを聞かせてもらえるかな?」
「その前に、一つ訊いてもいいですか?」
「答えられることなら」
先輩が泳ぐのをやめ、こちらを振り返る。わたしも止まる。わたしたちは向かい合う。
「これからしようとしていることは、イルカたちの望んだことなんですよね?」
「そうだよ」
「それは彼らの総意ですか?」
先輩は答えない。じっと見つめてくるだけだ。
「総意、ではないですよね?」
「質問は一つだけじゃないの?」
「逃げ出したイルカ――先輩は、あの子は怒りに駆られてたって言ってましたけど、あの子はどうだったんですか?」
「情緒不安定な個体なんだ。たぶん、精神の調整が上手くいってない。それでいきなり暴れ出した。そこに言葉なんてなかったよ」
「さっき、デッキで会いました。わたしの方には寄ってきて、手に嘴をくっつけていきました」
「君は好かれたんだ。あたしは嫌われてしまった」
「何か理由があるとは思いませんか?」わたしは言った。「情緒不安定以外の理由が」
「ナギ」先輩が静かに、しかし制するような強さのこもった声で言った。「それが、君の答え?」
「今ならまだ引き返せます、ルカ先輩。弁解は十分可能です。わたしもできる限りのことは何でもします」
先輩は微笑んだ。心を許した後輩に、差し伸べた手を振り払われたような寂しさは――そこにはなかった。
「残念だよ、ナギ・タマキ」先輩の声なのに、そうは聞こえなかった。
その途端、わたしの周りに水が満ちた。イメージだけではない、本当の水。いや、情報空間内であることに変わりはないからあくまでイメージではあるのだが、今まで免除されていた〈窒息〉という概念が、突如として発生したのだ。
わたしは溺れる。仮想の体内へ水が流れ込んでくる。幼い頃に溺れた記憶と重なって、思考が混乱する。
『戻るんだ、ナギ!』クラウスの叫びが響く。『端末がクラッキングを受けている。誰かが君の脳を狙ってる』
誰か。
何かをする意思を持った〈誰か〉なんて、この船にはわたし以外、一人しかいない。
いや、違う。
わたしたちの他にもいる。
この船には他に、十一の意思が乗っている。
『ナギ、ナギ?』
薄れていく意識の中で、ルカ先輩の発火体が解けていくのが見える。先輩は泡のように消えていくのではなく、いくつかの発火体に分裂する。
それらは流線型をしている。嘴や背びれ、尾びれが付いている。
数はおそらく、十一。
十一の発火体が、ルカ先輩を形作っていたのだ。
「おやすみ、ナギ・タマキ」ルカ先輩の声が言った。「君はそこで、ゆっくり眠るといい」
「おやすみ」「眠れ」と、発火体の群れが口々に言った。
わたしはもう、もがくこともできない。四肢を維持できず、それどころか、自我を保っていることも難しくなる。
発火体が崩れる。非損耗率が急激に下がっていく。
わたしが〈わたし〉でなくなっていく。
〈わたし〉は、〈ナギ・タマキ〉という人間の発火体――そういうことになっている。根拠はない。
明滅。断続的な。
蛍たちが瞬くような。
それを見ている〈わたし〉は、誰なのだろうか。
明滅。段々と、弱まっていく。暗くなっていく。光の瞬きが減っていく。
明滅――点滅――単調な、光の信号――
0、1、0、0、0――
信号は、弱まっていく。
非損耗率四十一パーセント。
火が、消えようとしている。
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