3.薄氷
どうして自分がここにきたのか、細かな記憶はなくなっていた。
だけど状況だけはよく憶えている。立ちのぼる乾いた冷気に興奮し、胸がドキドキしていたことは忘れようがない想い出だった。
まだツカサは六歳で、生まれて初めてのスケートリンクだった。たぶんというか、それしかないというか……フィギュアスケートで日本の選手が活躍していた頃だったから、テレビでそれを観た子供がスケートリンクに押しかけるというのは当時よくあった光景だ。
ツカサにスケート靴を履かせてくれている男性がいた。
仏頂面で声がヘンな〝くじらおかのおじさん〟。スケート場でやってはいけないことを難しい言葉で繰り返していたものの、ツカサの耳には届いていなかった。
「いってきまぁす!」
満面の笑みで鯨岡に言った。彼は困り顔で微笑んでいた。
ツカサは生まれて初めてアイススケートを滑った。もちろん、歩く以外の機能を持った靴を履いたのはそれが初めてだ。
ツカサはいきなり三回転び、そしてそれから二度と転ばなかった。
小さな褐色の女の子がスイスイとリンクを周回し、最後にはジャンプまで決めてみせた。うまい子がツカサに対抗してくるくるスピンしはじめると、それを見て真似しようとしたがさすがにそれは無理だった。それでも彼女の天性の素質は群を抜いていて、同じくらいの歳の子がどんどん集まってきた。ツカサはたった一日でリンクのスターになっていた。
「おまえすごいな……」
鯨岡が珍しく褒めてくれたのが、ツカサには嬉しかった。
そして生まれてから十六年という歳月の中で、それ以上に嬉しかった記憶がツカサにはない。それほどまでに強烈な体験だったのだ。
三回ほどアイススケートに連れて行ってもらっただろうか。
その最後の日に、ツカサはとてもきれいな女の人に声をかけられた。なんと、ツカサをフィギュアスケートの教室にスカウトしにきた先生だった。ツカサがあまりにもうまいので、なんと無料で招待してくれるという。
そしてツカサは、そのときの鯨岡の哀しいような怒ったような、複雑で気難しい顔を忘れることができない。あとから知ったのだが、その先生はプロのスケーターが大枚をはたいて頼ってくるような、有名な振り付け師だったらしい。
鯨岡は二度とツカサをスケートリンクに連れて行ってくれなくなった。
それがあまりにも理不尽で、ツカサは養護院で大いに荒れた。あまりに手をつけられなかったので、施設の職員が鯨岡に直談判した。なんとかあの子をスケートに連れて行ってあげて、と頼み込んでいる姿をツカサは期待満面の様子で見つめていた。
それから一週間ほど過ぎたとき、いつものように鯨岡が施設を訪れた。彼は真っ黒な自動車から大きな箱を取り出し、こう言ってツカサに手渡した。
「これで我慢しろ」
箱から出てきたのは見たこともない靴だった。
それはリンクで履いた専用のスケート靴によく似たものだった。ただし細いブレードの代わりに縦に何個も車輪がついていた。なんとそれを履けば、あの寒いリンクに行かなくても、どこでもいつでもスケートが滑れてしまうのだ!
ツカサは鯨岡に抱きついて感謝した。
「ありがとー、おじら!!」
ハッと目が醒めたとき、ツカサは自分が視力を失っているのではないかと思った。
それくらい周囲が暗かったからだ。
しかし目が慣れるにつれ視界に浮かび上がってきたのは、驚くほどに濃密な星の海だった。
「うっ……く……」
全身が痛かった。特に背中は少し浮かせるだけでも激痛が走った。痛みに慣れると、足を投げ出して座って、太ももの方から徐々に触りながら怪我の有無を確かめていった。運良く骨には異常がない。立ち上がることもできそうだったが、しばらくそのまま身体を休めることにした。
ツカサは斜面に横たわっていた。吹っ飛ばされて砂防用のフェンスにぶつかったものの、金網でできたそれが変形してショックをやわらげてくれたらしい。それでも大きく頭が揺れて、脳しんとうを起こしてしまったのだろう。
今が何時かわからなかった。そこには誰もいなくて、どんな文明の気配もしない山の道路の片隅だった。ポケットに手を入れたがスマホがない。事故を起こしたときにどこかに飛んでいってしまったのだろう。それを捜す気力はとてもじゃないけど残っていなかった。
「クサナギ……? 大丈夫?」
肉体の不調はともかく、気持ちの方が問題だった。ツカサの中で保っていたものが、堤を崩してどこかに流れ出てしまった。ぼんやりとした空洞だけが胸に残っている。美しい星空の明かりがそこにどんどん流れ込んできて、その茫洋とした一体感に身を任せてしまいそうになる。
まるで大海のただ中で船を失ってしまったような感覚だった。
「クサナギ?」
あのお喋りなAIが返事をしない。ツカサは本格的な不安に襲われた。
「ちょっと、やめてよ。返事しなさいよ! ねぇ!」
ブーツをさすったり、叩いたり、ひっかいたりしても反応がない。まるで心音を確かめるようにツカサは踵の部分に手を当てた。それがクサナギの骨伝導を最も感じられる方法だからだ。
『安心しろ。オレは完璧なシステムによって維持されている』
「はぁ……びっくりするじゃん、もう!」
しかしそれはかすかな声だった。話し方はしっかりしているのに、音量がやけに小さい。
『だがたしょ……もんだ……かなりの……』
すぐに言葉が途切れ途切れになっていく。ツカサは焦った。さっきまで見えていた灯台の灯火が、みるみるうちに消えていってしまうように思えた。
『オレの中で……なにかが……。緊急……きっと……たの……む』
それを最後に声はラジオのノイズのような音に変わってしまった。どこをどう触ってもそれ以上クサナギの声は聞こえなかった。ツカサの涙腺の蓋が一気に開いた。
「や、やめてよ! なんか言ってよ! いま何時か知りたいの!! あんたなら簡単でしょ? ほら、さすがクサナギって言わせてよ!!」
それからどれくらいの時間が経っただろうか。ツカサの心の中の秒針は、ひと目盛り刻むのに一〇分もかかるように思われた。
クサナギに変化が現れたのはそのときだった。
左足のシューレースがするっと伸びて、ひょいと一方向を向いた。大きな安堵感でツカサは思わず笑ってしまった。まったく、心配させないでよと軽く小突くが、いつもの悪ぶった返しはなにもなかった。
ただ、靴ひもの先は一方向を指し示したままだ。まるでそれが、力尽きた人間の指先のようにも感じられて――。
ツカサは慌てて左足を引き寄せた。靴を脱いで調べれば、なにか解決の糸口があるかもしれない。スマホのように再起動用の電源ボタンがあるのかも。長押しすればまた元気に喋るようになるのかも。
そう思いながら姿勢を変えたとき、あることに気づいた。
靴ひもの先はどんなにツカサが向きを変えてもある一方向を指し示している。試しに頑張って真後ろを向いてみたら、それはツカサとは逆方向に回転してぴたりと狙いを定めた。
――方角を指し示してる?
だとすれば、それはまさに灯台の明かりそのものだ。もちろんクサナギがバグって方位磁石のように北を指しているだけの可能性もある。しかしツカサは賭けてみることにした。
ツカサの胸を埋め尽くしていた星の光は空に戻った。ツカサの身体を、再び勇気という名の血液がめぐりはじめていた。
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