2.ジュリア

 糸居家の玄関チャイムを鳴らして、ツカサはしばらくその場で待った。礼儀のためにヘルメットは脱いで、首の後ろに回している。

 糸居家はごくごくありふれた一戸建ての住宅だった。二階建てで戸口周辺の掃除も行き届いている。実を言うと、ツカサはペット探しでこの周囲を何度も訪れていたから、見慣れていない景色ではなかった。

「はい、どうも」

 紘太の母親らしき人物がドアの向こうから顔を出した。ツカサは簡単に用件を伝えて冊子を手渡した。

「あら、わざわざありがとうね。本当は紘太に直接渡してあげたいんだけど」

「糸居くん、高校なんですよね。大丈夫です。帰ってきたら渡してあげてください」

「ええ、はい。ありがとうね」

 母親はそそくさと玄関の中に入ってしまった。なんだかちょっと様子がおかしかったが気にすることでもないだろう。するとクサナギが〝声〟でツカサに話しかけた。

「妙な言い方をするな、あの女」

「女って……お母さんでしょ。黙ってなさい」

「っせーな。あの女が『渡してあげたいんだけど』って言ったのが気になるんだよ。渡せねぇ理由でもあんのか?」

 そういえば妙かも、とツカサは思ったが言い間違えることもあるだろうと思ってあまり気にしなかった。『渡してあげてほしいんだけど』と言いたかったのかもしれない。

「はい、これハンコね。ご苦労様でした」

 お辞儀をして帰路につこうと思ったツカサは、ハッと立ち止まった。一匹の猫が糸居家の二階ベランダの手すりを歩いていたのだ。それも堂々と、いかにも自分のテリトリーだと言わんばかりに。

「あの猫……」

「どうかしたのか?」

 クサナギが好奇心を露わにする。

「あれって飯田さんちで飼ってるジュリアなんだけど、すごく警戒心が強くて、この家にはまったく寄りつかなかったはずなんだよ。ここって、なんでか知らないけど猫にとっては誰の縄張りでもないスポットなんだよね。前に探してたよるちゃんって子もここに一度は入ったけどすぐに追い出されちゃって」

「犬でも飼ってんのか?」

「ううん、そうでもない。たぶん家の人が猫嫌いなんだと思う。猫がくるたびに音を立てたりして追い払ってたんじゃないかな」

「今は留守ってことか」

 ツカサは急に胸のあたりがモヤモヤしてきた。猫探しでかなりの間周囲をパトロールしたものだが、ジュリアが糸居家のバルコニーを歩いていた記憶は全くなかった。朝から夕方まで、一度も――。

 ピンときたのはツカサの勘のようなものだったのかもしれない。つまり二階には、昼夜を問わず猫を追い払い続けている誰かが、住んでいたことになるのだが……。

「おい、どこ行くんだよ!」

 ツカサはもう一度糸居家のチャイムを押した。さすがに不審そうな顔をした母親が対応した。

「あの、まだなにか……?」

「紘太くんって本当に学校ですか?」

「え、ええ……」

 母親が咄嗟に眼を泳がせたのをツカサは見逃さなかった。

『あの女、嘘ついてるぜ』

 不意の骨伝導にびっくりするが、ツカサは構わず続けた。

「紘太くんの部屋のベランダに、猫がいるんですけど……あれってこのうちで飼ってる子ですか? いや、あの……あたしペット探しの仕事もしてまして、ちょっと気になる猫ちゃんがいたもので……」

 すると母親の瞳孔がみるみるすぼまっていった。これはなにかあるに違いない、とツカサは直感した。単なる野次馬根性ではない。中学時代、隣の席で計算問題に没頭していた紘太の寂しい横顔が、妙にはっきりとフラッシュバックした。

「いや、そんなはずはないんですけど――」

 なにかを言い淀んでいる様子だったのでツカサは核心を突くことにした。

「紘太くん、普段からずっと家にいるんじゃ……」

 紘太の母はどぎまぎしながらもじっくり考えたあとで頷いた。とても小さな動きだった。

 実は紘太が猫嫌いなのをツカサは知っていたのだ。中学時代からインラインスケートで街中を走っていたツカサは、ある日たまたま紘太が道端で子猫を追い払っている姿を眼にした。それも足蹴にしてたのでツカサは思わず注意したのだ。


「ダメじゃん、そんな乱暴にしたら」

「……だけどおれ喘息ぜんそくだから。猫の毛がいやなんだ」


 それは極めて神経質そうな反応だった。相当猫が嫌いなんだろうな、という印象がツカサに強く残っていた。

「……あなた紘太のお友達なの?」

 紘太の母は申し訳なさそうな顔で訊いた。

「あ、はい。元同じクラスで。でも同窓会にも出てなかったから心配だったんです」

 紘太の母がツカサの顔をまじまじと見る。その異邦人を検分するような眼差しには慣れているつもりだった。しかし彼女は、「この子なら、もしかしたら」という反応のようなものを瞳の色に宿していた。時にツカサのアイデンティティーは、特殊で孤独な人間と奇妙な関係性を結ぶことがある。

「実はね、紘太はいま学校に行ってないの。入学して一ヶ月で不登校になってしまって。それからずっと部屋に引きこもりで……」

『社会問題だな』

「ちょ、黙ってて。……お母さん、申し訳ないんですけど確認してもらっていいですか? いまベランダにいる猫ちゃんって、猫嫌いの人には絶対近づかない子なんですよ。紘太くん、本当に部屋にいます?」

 母親の顔色がみるみる変わっていく。それと同時にツカサの額にも不穏な汗が浮かんできた。

「あの、入ってもらっていいですか? わたしではどうしようもなくて……。お友達ならもしかしたら――」

 紘太の母は早口で急かすような口調になっていった。いままでため込んでいたものが溢れ出たような感じだった。

 靴を脱ごうと玄関口でツカサが腰を下ろす。するとクサナギが急に口を開いた。

「オレも連れて行けよツカサ。なんか面白そうなことになったからな」

 ツカサはムッとしてブーツの爪先を床石にぶつけた。

「なんてこと言うのよ。あたし本当に心配して――」

「おまえたちニンゲンはまどろっこしいんだよ。オレにははじめからわかってたぜ。こいつはいわゆる〝失踪事件〟なんだってな――」

 ツカサはごくりと息を呑んだ。それからしぶしぶ背中のデイパックを降ろして、中に左のブーツだけを詰め込み、紘太の母の後を追った。

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