第19話~~見せしめ~~
エバンズ警部の案内で階段を上り切ったその直後、不快な臭いがまるで神経を逆なでするかのようだった。それにも加えて飛び込んで来た光景は、まさに身の毛がよだつものだ。
部屋の作りは下の部屋と似たようなものだったが、部屋と部屋を区切る壁は骨組みの状態で、この階の全貌がこの位置から見渡せる程にスカスカの状態だ。家具の代わりと言わんばかりに所々に建築資材がそのまま放置されている。まさに建築途中といった様だ。電気だけは既に引かれていたようで、爛々と輝く照明がこのこざっぱりとした空間を照らしている。
目に映ったのは赤い床。まだ絨毯は惹かれていない筈のその床が真っ赤に染まっていた。
僕たちはそんな異様な光景に思わず視線を床に奪われてしまう。アイヴィーがすっとしゃがみ込んでそんな床をまじまじと見つめていたかと思うと、そっと指で床を擦った。彼女が指を床から話してみると、その赤色はまるで塗料のように彼女の指に付着したかと思うと糸を引き、とろみのある液体なのだろうかポタポタと彼女の指から滴り落ちた。
「血液のようですね……」
アイヴィーが緊張した声色で、ハッキリとそう告げた。
身震いがする。この真っ赤に染まった床、これらは全て血液で染められているというのだろうか。覚悟はしていたものの、そのあまりにも現実味の無い状況に声もあげる事ができない。
アイヴィーは立ち上がったのを見て、僕も視線を床から離し、更に部屋の様子を伺おうと顔を上げる。この行為によって僕は更なる惨状を目の当たりにすることになってしまった。
奥に続く床も真っ赤に染まっており、その所々が盛り上がっている。いや、盛り上がっているのではなく、物体らしきものが無造作に床に転がっているのだ。それは床と同じく赤黒く、テカテカと照明に照らされてまるで蠢いているようにさえ見てた。
警部達がゆっくりと前へと進み始めたの見て、僕も恐る恐る血液で染まった床を一歩づつ進んでいく。数歩進んだ所で、早くも床に転がった赤黒い物体の正体は明らかになった。
捻じ曲がった足、引きちぎられた腕、両断された胴体、潰れた頭部。元の面影などまるで残っていないが、それらがかつて人間のものだったのだという事は本能的に理解できた。一人分ではない、複数人分の残骸があちこちに散らばってどす黒く照明の灯りを反射する血の池に沈んでいた。
現実味が薄く、まるで不格好なオブジェにさえ見えていたが、憎悪を搔き立てるような独特な臭気、肌に纏わりつくような異様な感覚、それらが徐々に目の前の光景が現実である事を実感させてくるのだ。
吐き気が込み上げてくる。できる事なら今抱いているこの感覚、感情、それらも全て吐きだしてしまいたくなる。それでも僕は口を手で塞ぎ、寸前で嘔吐する事を耐えた。
「ひぃやぁぁぁぁぁぁぁぁ……!!」
アイヴィーが素っ頓狂な悲鳴を上げた。その顔色はすっかり青ざめており、今にも泣きだしそうにさえ見えた。職業上、一般人に比べればこういった刺激の強い光景には慣れている筈ではあるが、本来気が弱い質である彼女がこのような常識を逸脱した光景に耐えられる筈もない。
「あああああああ!! アンダーソン君!! やば……やばい!! 流石にこれはやばすきですよアンダーソン君!! やばいにも程がありますって!!」
彼女は僕の腕を折るつもりなのだろうかという力で締め上げ、必死に僕の方へ顔を向けながらぴょんぴょんと悶えるように跳ねている。普通に痛い。
なんだか思っていた反応とは違い、彼女にかけるべき言葉が思い浮かばない。尤も、このような状況では僕自身、彼女を落ち着かせられるような余裕がないのも事実ではあったが。
「酷いもんでしょう? 凄惨な現場には慣れていたつもりでしたが、流石に限度ってもんがありますわな。こりゃ、当分は飯が喉を通らなそうですな······ま、こんなんうちのトニー以外に直視できる奴なんているわきゃないな」
「私をなんだと思ってるんですか。私だって業務でなければこんなもの遠慮願いますよ」
「なにっ!? お前にもそんな感情が残っていたのか!!」
「警部、業務中の過度な私語について後程報告しておきます」
警部とロックウェル氏の二人がそんな軽快なコントのようなやり取りを繰り広げている。こんな状況下ではあるが、つい微笑ましく思えてしまった。
前々から思っていたが、やっぱりこの二人は良いコンビなのだと確信する。お互いを信用しているからこそ、このような精神的消耗が著しい状況でもいつもと変わらない会話ができるのだろう。
しかし、彼らの表情には陰りが見えた。
一歩間違えれば、発狂しかねない程の壮絶な光景を目の当たりにし、その上、連日の事件のおかげでろくに休息を摂れていないのであれば尚更、いつも通りにいられる訳など無かったのだろう。
それでも、彼らがいつも通りでいようとしたその理由はきっと僕たちだ。僕たちが若いから、いっぱしの探偵とは言っても彼らと比べるとまだまだ未熟な僕ら。
そんな僕たちの心労を和らげる為にも、彼らはそのような行動をとったのだろう。エバンズ警部はともかく、ロックウェル氏までもがそう考えて行動したのかは信じがたくはあるが……。
そんな風に考えていた事を感じとられたのだろうか。彼らのやり取りを見ているうちにロックウェル氏と目が合ってしまった。
僕はその事にどう対処するべきか考えかね、苦肉の策として苦笑いを浮かべるだけだった。それに対して、ロックウェル氏は「しまった……」とでも言いたげに珍しく困惑した表情を浮かべたかと思うと、こちらにも聞こえるぐらいの大きな音を鳴らし舌打ちをすると目を背けてしまった。
それを見て僕が思うことは、ロックウェル氏、彼はきっと信用に値する人物だと言う事だ。ただし、この事は本人の前で口にすることは恐らくないであろうが。
「見ての通り、現場はメチャクチャな訳ですが、所感は如何なもんです?」
警部が相変わらず気の抜けたような口振りで質問を投げ掛けてくる。
質問を飛ばされたアイヴィーはというと、まだ僕の腕にしがみついたままだった。とはいえ、先ほどに比べると少しは落ち着いてきており、挙動不審具合はまだいつもよりあるものの、キョロキョロと現場の観察を始めていた。
「えーとですね……正直に一言だけ言わせて貰うとですね……」
この惨状を前に、どのような表情を浮かべていいのか分からなくなったのだろうか、彼女はいつものようにオドオドとした苦笑いを浮かべながら言葉を続ける。
「人間の仕業には到底思えませんね」
人間の仕業とは思えない、この惨状を見ればそう思うのも当然だ。比喩的な言い回しとしてこれほどこの現場に相応しい言葉は無いだろう。
「ごもっともだ。こんな事をできる人間がいるなんて信じたくもない」
「現場に残された肉片の量からして、現状分かっているだけでも、少なくとも10人以上は犠牲になっているであろう事は間違いありません。そんな大勢の人間を原形も残らない程に破壊するなんて、確かに常識を逸脱しています」
顎を右手で擦るエバンズ警部の隣で、ロックウェル氏が開いた手帳に視線を落としながら警察の調査報告を述べる。
「――ですが」
手帳から視線をあげたロックウェル氏は、その鋭い眼光でアイヴィーに視線を注いでいる。
すると彼女は、以外にもすんなりとロックウェル氏が望んでいたであろう言葉を口にした。
「はい、あくまでこれは人間の仕業なのは間違いありません」
彼女が珍しく、彼女を見つめるロックウェル氏の視線と正面から対峙している……かと思われたが、やはり彼の圧には勝てなかったのだろう慌てて視線を逸らすと再び現場観察へと戻っていった。
「当然です」
そう言い放ち、バチンと手帳を閉じたロックウェル氏の表情は、僅かに口角が上がりどことなく満足気に見えた。
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