第11話~~魔犬の遠吠え~~

 暗がりの向こう側から、醜悪しゅうあくな怪物が飛び出してくる。強烈な臭気を纏い、不快感、恐怖感、それらを同時に刺激するような怪物だ。それが大口を開いてこちら目掛けて突進してくるのが、まるで映画のスローモーション効果のように酷くゆっくりに感じられた。

 その大きく開いた口の中には、逆立った鱗のような牙らしき物がビッシリと敷き詰められている。あんな物で嚙みつかれでもしようものなら肉は裂かれ、骨が砕かれるであろう事は容易に想像できた。凄惨せいさんな最後を遂げる、そう遠くないであろう未来の自分の姿を幻視してしまう。


「クソッたれッ!!」


 それが防衛本能だったのか、恐怖による錯乱だったのかは分からない。僕は咄嗟とっさに武器を振るうでも、逃げだすでも無く、手に持った懐中電灯の電源を入れたのだ。懐中電灯から放たれた光が目の前に迫る怪物の頭部を照らすと、水泡でボツボツと膨れるただれた皮膚がまるで熱された鉄のように燃え上がるような赤色に見えた。

 僕はその行為に後悔をした。まさか、咄嗟にとった行動がこんなにも愚かで無意味な事だとは。恐怖のあまりに思わず手に力が入りその弾みで懐中電灯のスイッチが入っただけの事なのだろう。結論的に、僕はこの状況を打開できる行動を取る事はできなかったのだ。僕は死への覚悟とは程遠い、諦めから瞼を閉じた。


「ギャイン!!」


 怪物の牙が僕の皮膚を裂く事は無かった。突如、地を這う様な低く短い犬のような悲鳴が聞こえた。僕では無く、アイヴィーが奴の手に掛ったのだろうか。僕は反射的に瞼を再び開いた。

 目の前に迫った怪物がるようにして数歩後退している光景が目に飛び込んで来た。


「は、走って下さい!」


 その状況を理解する間も無く、アイヴィーの声が聞こえたかと思うと彼女の柔らかい手が僕の手を握る。次の瞬間には半場無意識に僕たちは怪物とは逆側の暗闇へと駆け出していた。通りには淡い街灯が頼りないしるべのように並んでいるだけで他に何もない。空き家と倉庫が立ち並ぶ通りなので助けを求めて駆け込むような事ができる場所も望むべくも無い。この怪物相手にはそもそも意味を成さなそうではあるが。


「警察に助けを求める時間も無さそうだね……! どこかに隠れるにしても奴に追われてる状態じゃ……」

「そ、そうですね……せめてアレを足止めできればいいんですが……!」


 走りながら後方を確かめると、すでに怪物は体勢を整え獣のようにこちらへ向かってきている。あの歪んだ肉体からは考えられないようなすばしっこさで、このままではすぐに追いつかれてしまうだろう。見ているだけでも吐き気が込み上げてくるような怪物から目を逸らすと僕はすぐに正面を振り返り、走る事に全力を注いだ。


「アンダーソン君! 懐中電灯の予備はありますか!」

「あるけれど……一体どうするつもりなんだ?」

「で、電源を入れてアレに投げつけてください!」


 懐中電灯で怪物を眩ませようとでも言うのだろうか、確かに先ほどは偶然にも一瞬怯ませる事はできたが懐中電灯を投げつけた所で、到底上手く行くとは思えない。疑問は尽きないが今はアイヴィ―の案に乗らざるを得ない、鞄の中に手を突っ込み長方の物体を掴むと確認もせずに引っ張り出す。素早く指を懐中電灯の側面を這わせるとボタンを入れ、間髪入れずに怪物に向かい投げつける。

 懐中電灯はくるくると回転し弧を描きながら怪物へと向かっていく。我ながら見事なコントロールで懐中電灯は向かってくる怪物の頭部へ接近する――が、怪物は体を進行方向の斜め前へ飛び込ませ怯む事無くそれを回避した。


「やっぱ駄目だ! これで足止めは流石に無理があるね!」

「つ、続けて適当な物を投げつけてみて下さい!」


 そう言われても一体何を投げつければ奴を足止めできるといいうのだろうか。怪物はみるみると僕たちとの距離を縮めてくる、もはや考えている時間なんてない、肩掛けの鞄を外すとそれを思い切り怪物に向けて放り出す。

 だが、当然の如く怪物はその鞄が頭部に直撃した所で意にも介さず猛スピードで迫ってきていた。無駄だ、この怪物相手に僕たちができる事など無い。こうなれば最後はいつか見た英雄譚を見習ってアイヴィーだけでも逃がせるようあの怪物に挑むべきだろうか。みるみる体中の血液が凍るように冷たくなっていく感覚に襲われる。


「街灯です! あの照明部分をその懐中電灯で叩き壊しちゃってください!」

「なんだって!? そんな事をして……」

「お願いします!! このままじゃ死んじゃいます! 後生ですからぁ!!」


 アイヴィーが悲痛な面持ちで叫ぶ。訳が分からない、そんな事をしてなんの意味があるのだろうか。分からないが、僕はその通りにするしかない。手に持ったままの懐中電灯を衣服の胸元へねじ込み、残りの体力を振り絞って通りの脇に並ぶ一番近くの街灯へ体を切り返した。通りと建物の間には石塀が並んでいる、それに向かって地面を蹴り上げる。石堀に激突する直前で石壁の側面を蹴り上げ、その頂点に手を掛ける。


「うおおおおおおおぉぉぉ!!」


 無我夢中で腕の力を振り絞り、体を上へ持ち上げる。石塀の上で立ち上がり街灯を望むべく振り返ると、もはや体力尽きてフラフラとした足取りで街灯の下へ近寄ってくるアイヴィーとその背後の僅かな距離まで迫る怪物の姿が見えた。

 その光景が見えた時には、既に石塀の上に足は着いていなかった。衣服から懐中電灯を取り出し、街灯へ向かって跳躍したのだ。

 見える世界の全てがスローモーションのように感じる。力尽き、地面に崩れるアイヴィーの姿。それに飛び掛かり宙を翔ける怪物の姿。目の前に迫りくる街灯のガラスの向こう側で煌めくガス灯の光……それに目掛けて、振りかざした懐中電灯を振り降ろす。懐中電灯がガラスに触れ、砕け散る。ガス灯の光が砕けたガラスの破片に反射してキラキラと綺麗だった。そして、電流のような火花のような光が走る。


バンッ!


 次の瞬間には破裂するような音と同時に、激しい爆発……というよりかは燃焼が発生し、一瞬間、周囲は眩い光に包まれた。腕に激しい痛みを感じたかと思うと、次は体全体が激しい痛みに襲われた。地面に叩きつけられたのだろう。

 アイヴィーに飛び掛かる怪物、あの光景の続きは一体どうなったのだろうか、それを確かめたい一心で僕は痛みを堪え体を起こした。

 視界に映ったのは、力尽きて地面に倒れぜぇぜぇと荒い呼吸をしているアイヴィーの姿と、その向こう側でうずくまって動かない怪物の姿だ。あの怪物に有効な一撃を加える事ができたのだろうか、そんな思考はすぐに早くこの場から離れなければという思考に塗りつぶされた。

 しかし、自分の体を動かすよりも先にあの怪物が再び動き出したのだ。

 もう、これまでか……そう思ったのも束の間、怪物はこちらを一瞥いちべつすると、体をひるがえし暗闇の中へと消えていった。

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