第10話~~狂気の追跡者~~

 不気味な鳥のき声が暗闇の向こうから響き渡る、今にも物陰から夜の妖気に誘われた怪物が飛び出してくるのではないだろうか、そんな不安を呼び起こさせる暗闇の中を、アイヴィーと僕はほのかな街灯の灯りと、もうすぐ満ちるであろう白く妖しく光り輝く月の光だけを頼りに並んで歩いていた。


「……さっきの話だけれど、本気でそう考えてるのかい?」

「犬、もしくはその飼い主が犯人説ですか?」

「そうだね、キミにしては中々面白い冗談だとは思ったけど」

「でも、彼の話を聞く限りではその可能性が一番高いと思いますよ」

「彼の話が全て真実ならね、でも本人も言ってた通り信憑性はかなり薄そうだよ」


 彼方かなたで犬の遠吠えが響く。それに反応したのか、まるでぎこちない輪唱のようにあちこちから遠吠えが続く。それらが反響するよう段々と僕たちの方に近づいて来るようにも感じられた。

 

「ひゅい!?」


 アイヴィーの肩がビクッと跳ねあがる。それから周囲をきょろきょろと見渡したかと思うと、何もない事を確認して安心したのか胸を撫でおろしている。不気味な夜の雰囲気にすっかり飲まれている彼女だが、僕の問いには健気にも答えてくれる。


「可能性は0では無いですからね。ならば、犯人が犬だという事を否定する証拠が必要です。ですから、それを詳しく調べてみる必要があるんです」


 彼女の口調は真摯しんし以外の何物でも無かった。その時の彼女の瞳は、真実を、正しき道を見定めているようだった。神聖で清らかな、そんな雰囲気すら感じられる。彼女の言う突拍子も無いような事さえ、何故だか信じてみたくなるのだ。


「……まぁ、キミの勘には目を見張る物があるからね。試してみるのも悪くはなさそうだ、ともかく、今度トーマス氏と例の場所に……」


 悪寒が走る。


 足首をつかまれでもしたかのように歩む足が止まる。まるで得体の知れない何かが背中を這い上がってくるような感覚に襲われ、額に玉のような汗が浮かんでは地面へと落ち砕ける。

 背後に何かいる……その異様な気配は確かに感じるのだが、滾々こんこんと体の中から湧き上がる恐怖心によって体が動かない。視線を横に向けると、アイヴィーも硬直したまま突っ立っている。恐らく、僕と同じ状況なのだろう。怖がりな彼女は僕よりも深刻な状況の可能性も否定はできないが、とにかく、このままではいけないと恐る恐る口を開く事にした。


「……ねぇ、なんだか途轍とてつもない危機に瀕してる気がするんだけどキミはどう思う?」

「き、奇遇ですね……わ、私もなんだかそん、そんな気がするん……で、ですよね」


 ベタ……ベタ……ベタ……ベタ……


 僕たちの会話を遮るように、まるで粘土が地面に叩きつけられるような粘着性のある音が近づいて来る。これは追跡者の足音なのか? そんな疑問が浮かぶが、果たしてこんな音を出すものだろうか。

 思考の整理が追いつかないうちに、更に激しい腐敗臭まで漂ってくる。辺り一帯に臓器でもばら撒かれたかのような生臭く不快な臭いだ。


「この臭い……どこかで……」


 アイヴィーが絞り出すように震える声で呟くが、その意味について今は考えている時間などない。兎に角、その音の正体を確かめて見なければ、その一心で僕は気力を振り絞り背後を振り返った。

 人気の無い、寂しい通りが古い街灯の淡い灯りで照らされている。その灯りが届かない暗闇の向こう、その先へ目を凝らしてみるとうっすらと影が浮かび上がってくる。それは、音と臭気が近づくにつれて滲みだすようにこの世界に姿を現し始める。


(……人間じゃないのか?)


 酷くゆっくり近づいて来るその朧げな輪郭は不格好な物で、背は僕の腰下までしか無い。いや、背が低いのでは無い、そいつは四足歩行で近づいてきているのだ。

 くびを絞められた鶏のような、聞いているだけでも息苦しいうなり声のような音が鼓膜を震わせる。


「い、犬でしょうか……?」


 いつの間にかアイヴィーも振り返っていたのか、そう呟く。彼女の言う通りにその追跡者の朧げな輪郭は犬に近いものだ。しかし、仮に野犬だとしてこのような激しい臭気を放つものだろうか。はたまた、これほどまでに不格好な足音を立てるのだろうか。様々な疑問が止めどなく浮かび上がってくる。

 僕は静かにかばんに手を伸ばし、懐中電灯を取り出した。この懐中電灯をこの相手に向けて電源を入れる。そうして、かの追跡者の姿を映し出すのだ。懇々こんこんと湧き出し続ける恐怖心を押さえ、手に持った懐中電灯を暗闇の中へ向けたその瞬間。


「アンダーソン君!」

「くそっ!!」


 アイヴィーが叫ぶように僕の名前を呼んだ時には、既に追跡者は闇の中から飛び出し僕らに迫ろうとしていた。急に走り出したそいつは街灯の灯りの下にその姿を現し、醜悪なる正体を僕たちに見せつけた。

 暗闇の中では犬のように思えた姿とは打って変わり、灯りに照らされたそれは犬とは程遠い異形を成していたのだ。全身は焼けただれた赤黒い皮膚に覆われ、おびただしい水泡で着飾っている。四肢はブヨブヨとした肉塊のようで、その肉の塔の周囲に突き出すように鋭い爪が剣山の如く並んでいた。その頭部は人間と馬とを掛け合わせたかのように歪んでいて、本来目があるべき場所には深淵を覗かせる穴が穿うがたれていた。

 その、禍々しい狂気の姿を目にした僕たちは悲鳴も上げる事ができず、ただその異形に目を奪われていた。

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