十四、三十七計目は逃げるより良いか
月明りもない中、塀を乗り越えた。後始末はしなかった。警告のためそのままにしておく。
お嬢様はずっと話さない。道を足の感覚で探って進む
来た道をもどり、山の見晴らしのきく所まで登ったところで日が出てきた。
「ここで小休止にします」竹筒を差し出すと
「やつらは何者だ」
「わかりません」
「おまえの呼び名を知っていたぞ」
「宿が彼らの支配下なのでしょう。先着した書状は読まれていると考えるべきです」
「どうする?」
「お嬢様ならいかがしますか」
「済まない。やはりわたしは……」
「およしください。気が動転されているだけです」言葉を続ける。「強行軍で五日から七日あれば国境は越えられましょう。しかし相手の勢力がわかりません。どの程度の網を張れる連中なのか。そこを知りたい。昨夜のできごとから考えましょう」
「わたしをさらうといっていたな。なんのためだ?
「そう思っておられるのはお嬢様だけです。お父上ならかなりの条件にも応じられましょう」
「世辞をいっているひまはないぞ」
「ええ、ありません。これは事実です」
「では、
うなずく。「はい。つまり暗殺ではありません。これはわれらに有利に働きます」
「ならば、敵はそういう要求を持っている小集団か」
またうなずく。「それもはい、です。お察しの通り国ぐるみではないといえます。これも役に立ちます。
「なら、いますぐ公に出頭して保護を求めたらどうだ」
こんどはなにもいわずに首を振る。
「そうだな。敵勢力がなにかわかっていないのに出頭はできぬか」
「はい。それにどの商人が味方かもわかりませんし,関所もおなじです。むやみに書状を託せませんので、救援の要請も困難です」
「ただし、敵は素人です。こうした任務には慣れていません。昨夜も交渉に失敗し、味方をたすけもせずに逃げ去りました」
「そのことだが、
「一介の警備士です。昨夜は必死でしたので。数においてまさる敵を圧倒し、気力の闘いで優位に立つにはああするしかありませんでした」
「たしかに、やつらの腰が砕けたのはわかった。だが、愉快でも痛快でもない」
「それが闘いでございます。刃は血にまみれるのみ。栄光は貴顕のものです」
「では動こう。いつまで休んでいるつもりだ」
「まずは腹ごしらえです。山の向こう側で農家をたよりましょう」
「手配されていたら?」
「ありません。ここで様子をうかがっていましたが、山狩りがない。敵は一般の農家を巻きこみたくないか、そこまでおよぼす力を持っていないかです」
それでも用心して農家との交渉は
「あの宿のことはうわさにもなっていませんでした」
物陰で立ったまま雑穀まじりの結びをほおばる。
「どうする? どこへ行く?」
「お嬢様、ここで隠れている間、なにもお考えではなかったのですか」
「済まない」目を伏せた。
「いいえ。きびしい言い様、こちらこそ申し訳ありません。しかし、国に帰るまでは常に考える癖をつけてください。すべてを観察し、先入観なしに最善を導き出すのです。事態は急激に変化します。先ほど話したことさえ次々と移り変わるでしょう」
「わかった。努力する」
「結構です」
「では、ここから最短距離で突き抜けて行ってはどうだ。情報が表立っていきわたることがないなら、裏社会にまわる前に国を出よう」
大きくうなずく
「そういたしましょう。わたしもいまの場合は素早さが肝要と考えます。となれば隠れるのはやめにして、むしろ人目の多い中央街道を行きましょう」
水をくみ、紋を覆った荷を担いだ
冬の空は青く澄んでいた。空気は冷たいが、急ぐ二人の体をほどよく冷やした。街道を国のほうへ急ぐ。すれちがう旅人や荷馬車の商人たちは挨拶をする程度で、不審を感じさせるほどの関心を向けてくる者はいなかった。かといって道連れになったり、乗せてもらうつもりにはなれなかった。そこまで気は許せない。
ちらりとお嬢様を見る。もし事の初めからお膳立てされていた任務と知ったらなんと思われるだろう。養成所や父親など、周囲からぽんこつあつかいされていたと知ったら。
加えて、正確に現状を分析せよなどとえらそうに説教しておいて、肝心の情報を隠しておくなど公正ではない。
それにしても、人をだまし、操り、情報を持ち帰ることをなりわいとしておきながら、お嬢様相手だとこうもうしろめたいのはなぜだろうか。味方だから、というのでもない。戦いの際は味方であっても無用の情報を与えないのは基本中の基本だ。ある情報にかかわる人数が多いほど、その情報は漏洩しやすくなる。知らないことは漏れようがない。
奥歯をかみしめる。
「
「隠しようがありません。移動中は目を引かぬため、このように紋を覆っていますが、宿の届け出はさすがにごまかしきれません。露呈したらかえって目を引きます」
「敵の支配下にない宿を見分けられるか」
「困難です。敵の正体がわかっていませんので。しかし、そろそろわれらは見つかっていると考えておくべきでしょう。手を出す機会をうかがっているだけと思っておいたほうがいい」
「農家などに世話になれないかな」
「かえって危険です。人目がないのはまずい。これからわれらはふつうの商人や旅人のごとく町をたどり、常に周囲に他人がいるようにしたほうがいいでしょう」
「それから、もしもの時のために信用のおけそうな者を見つけて書状を託さねば」
「お願いできますか。おっしゃるようにわれらにはたすけが必要です。それに、
いつもより慎重に吟味して今夜の宿は確保できた。客層は近辺から買い付けに来た商人などが主だった。食事をし、風呂に入り、書状を認める。平文ではお嬢様と異なる記載はしないように起こった事実のみ書き並べ、救援を要請した。しかし、その下層の暗号文では
ひととおり書き終わると数通おなじ書状を作り、風呂場で知り合った商人と旅人に託した。お嬢様は、もしもの時のため、とおっしゃったが、もしも、ではなくほぼ確実に無事帰還は望めないだろうと考えていた。特に自分は生かしておく理由がない。
だが、と
あくまで希望的な観測だが、あの男が指揮していた点が
実際のところ、考えていたような大げさなものではないのかもしれない。大きな組織の中のちょっとした裏切りと小競り合いに巻きこまれただけなのだろうか。ならば国のために利用できる。
さらに悪魔的な計画を立てている自分に気づく。お嬢様を餌に……。
首を振って打ち消した。だめだ。受けた任務を放棄した上に独自行動などあり得ない。それに、これには
だが、一度浮かんだ計画は勝手に形を取り始めた。
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