第37話嵐山討ち入り

宗泰君にリバーシーで惨敗しふて寝した翌日、生越を出発し嵐山へ兵を進める。


どうやら生越から嵐山までの土地を領する国人領主達の多くは上杉定正に従って川越城へ向かっているようで小競り合いすら起きなかった。

とは言え敵対している国人の領土なので容赦無く領主とその家臣の館を襲い目ぼしい物や兵糧などを奪い家屋に火を放つ。

今後の統治をスムーズに進める為に領民へは乱暴老狼藉を禁止しているが、8000人以上の兵が通過するとあって農民も商人も山に避難したのか町を通り過ぎる際も老人ぐらいしか人を見かけなかった。


う~ん、やっぱり乱暴狼藉や乱取りが普通の世の中だから殆どの人は持ち出せる物だけ持って逃げるもんなんだな…。

確か、生け捕った人を戦利品として売ったりしてたって聞いたことあるし。


その後、人の気配の無い村などを通過し嵐山へと雪崩れ込む。

どうやら嵐山の国人領主も川越へ出払っていたようで、残った一部の家臣などが領主の妻子などを連れて金子主水の居城である杉山城へ籠り籠城の姿勢を見せている為、これまで通り国人領主とその家臣の家屋敷から目ぼしい物を奪い火をかける。


地図を見る限り、現代の武蔵嵐山駅辺りに陣を敷き、兵を分散させて領主館への略奪をさせていると、流石にあらに据えかねたのか杉山城から1000人程の兵が出て来たがすぐさま宗泰君と板橋さんに2000人の兵を率いさせて向かわせたら即座に城へ逃げ込んでしまった。


夜、本陣で杉山城と松山城へ向かう途中にある青鳥城をどうするかの議論になった。

一門衆を始め多くの諸将は杉山城を無視して青鳥城を攻め落としそこを拠点として松山城攻略をするべきと口を揃えて言うものの、杉山城には最低でも1000人程の兵が居る事が今日判明したし無視するのもどうかと思うが青鳥城を攻め落として拠点にすれば杉山城の抑えにもなるので明日には陣を引き払い青鳥城へ向けて進軍をするよう諸将に命じた。


青鳥城には自分が生越を抜けて嵐山へ兵を進め松山城を攻めると情報を流していたにも関わらず川越城からの援軍は来ていないようで城を包囲し降伏勧告の使者を出したら城に籠っている城主の家族や家臣の家族等の安全保障と財産の持ち出し自由と言う条件なら城を明け渡すと言う回答があった。


財産の持ち出し自由って…、なんか自分が略奪者のような感じの目で見られている気が…。

確かにここに至るまで敵対する国人領主の館から目ぼしい物を奪って屋敷に火を放って来たからあながち間違ってはいないんだけど、なんか微妙な感じがする。


ただ無血で城が手に入るに越した事は無いので条件を受け入れ、2日後には城を明け渡すように約束をした。

荷物を運び出す為の荷車を手に入れる為に包囲を解いた場所を青鳥城にいた留守居の人達が慌ただしく行き来し城下から荷車を集め城に運び込んでいる。

領民には手を出さなかったから城下町の商人などが所有する荷車は手つかずだったんだよね…。

先にこっちで買い取っておいて倍の値段で売れば良かった。

失敗した…。


そして2日後、青鳥城に籠っていた兵と城主や家臣の家族が大量の荷車を押しながら城を出て行く。

見た限り農兵が300人に武者が100人、あとは女子供が1000人程かな?

荷車の半分は兵糧みたいだけど、半分は家財のような感じだ。

本来なら兵糧を少しでも多く持ち出すんだろうけど冬だからなのか城主の私物を多く持ち出したのか…。

まあ城に入ればすぐ判明するんだけど。


そう思いつつ城を出る人の列が松山城方面に向かって行くのを眺めつつ、代わりに城に入り城内に異常が無いか調べている宮城さんの報告を待つ。

11月だから肌寒いを通り越して寒いんだよね。

江古田原沼袋に作っている館には大浴場も作って貰ってるけど温泉が欲しいよね…。

ただ確か現代でも大手町で温泉を掘った際は1500メートル程掘ったらしいし、この時代で1500メートルも掘るのは流石に無理だから関東を統一したら何処か温泉が湧く処に本拠地を移そうかな…。


そんな事を考えていると城内を調べていた宮城さんが戻って来て特に異常も無く、潜んでいる兵も居ないとの事だったので兵を率いて城に入る。

って8000人も入れるほど城が広くなかった…。


うん、兵士には城下の家々に分散して止まって貰おう。

城下の人にはお金を払えば特に拒絶はされないだろうし。


それにしても城内の蔵に兵糧がかなり残ってたのには驚きだった。

それだけ持ち出す術が無かったとも言えるんだけど金目の物や城主が普段生活する館にはロクに物が無かったから恐らく城主の奥さん辺りがガメツイ人なんだろうと思っていたら城主である石橋実朝さんからの書状を持った人が城の主殿で待っていた。


書状には近隣の国人領主も上杉定正に従った為、致し方なく敵対する事にはなったけど本当は敵対では無く傘下に加わりたかったと書かれ、せめてもの助けと兵糧を出来るだけ残して城を出るように指示したので城にある兵糧を役立ててほしいとの事だった。


書状を持っていた人に、城主である石橋実朝さんの気持ちはありがたく受け取り、戦後所領を安堵すると伝え川越に向かって貰った。


わざと兵糧を運び出せないように城主の私物を多く運び出させたのか…。

ある意味策士だな。

まあ勝っても負けても家を残す為の苦肉の策ともいえるけど。


さて、では本腰を入れて松山城攻めの軍議をしましょうかね。

そろそろ川越城攻めに加わっている忍城城主の成田正等が松山城を救援する為に川越からやって来るだろうし。


それにしても最近…、と言うか飯能に到着した辺りから思ってたんだけど、女の子成分が足りない!!!!

いや、照姫さん、椿姫さん、桔梗姫さんが恋しい訳じゃないんだよ。

まあ恋しくないと言ったらウソになるけど。

ただ石神井城を出発してから女の子と話すらしていないってどうなの?


泰経さんは「遊女を連れて参りましょうか?」

とか言ってくれてたけど、遊女相手って、この時代ではなんか病気とか怖いじゃん?

梅毒が記録に残る最古の梅毒は1512年だったらしいし、既にチラホラ広まってる恐れあるし。


う~ん、何より帰ったら3人に顔向け出来ないような気がする…。

でも女の子成分が欲しい!!!!!!


補足-------------------------------------------------------

梅毒

日本に梅毒が広まったのは一説によると1512年頃に中国から倭寇(外国の沿岸で略奪暴行をする海賊)を通じて伝わったとされています。

江戸時代初期には徳川家康の次男結城秀康や加藤清正なども梅毒に罹患していたと言われています。

現代では余程長期間放置せず病院に行けば重篤化はしませんが、治療薬がない時代では梅毒により命を落とす人も多く居たそうです。

※因みに私は梅毒などを始め性病にかかった事はありません。多分運が良いのだと思います。

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