1-19 取り戻した日常

 聖ドミニク教会の礼拝堂でニールセン神父は朝の祈りを捧げていた。正式なものは孤児院の子供たちが起きてから行うので、それは個人的な祈りであった。

 どうかテレサが無事に帰ってきますように。せめて、怖い思いをしていませんように。

 神父が捧げる祈りにしては、どうしても表情が険しくなってしまう。

 朝の鐘が鳴り、ニールセン神父は深く息をついて立ち上がった。子供たちを起こす時間だ。教会に併設した孤児院に足を向けたところで立ち止まる。

 礼拝堂の入口に少女が倒れている。

「——っテレサ!」

 ニールセン神父は少女に駆け寄った。幼い体はぐったりと力を失い、半酩酊状態にあるようだが生きている。間違いなく、生きている。

「っ……」

 宝物のように大切なテレサをしっかりと抱きしめた。本当は思いっきり、力いっぱいにそうしたかったが、弱りはてたテレサに負担をかける訳にもいかず耐える。

 胸に安堵が広がり、目の端が滲んだ。恥も外聞もなく、ただ喜びを噛み締める。

 と、テレサが身じろぎして、その目が薄く開いた。

「……テレ、サ、かえってきた……の?」

「ああ……ああ、そうだよ!」

 おかえり、と優しく頭を撫でる。

 テレサは心地よさそうに目を細めた。

「それにしても、どうやって……誰かが連れてきてくれたんですか?」

 祈りの間、物音ひとつしなかったのだが気が付くとテレサが帰ってきていた。神の御業によるものとさえ思う。けれどその御使いに心当たりはない。

「うん。でもお顔はわからないの……あと、お声もわからない……」

「ああ、いいんですよ。無事に帰ってきてくれたんですから」

 しゅん、と眉を下げたテレサに慌てて訂正した。

「……やさしいひとだったよ。おねえちゃんみたいだった」

 おねえちゃん、と聞いてマークの恋人を思い浮かべる。確かにあの人もちょっとした仕草に思いやりが感じられるひとだった。

 警察を呼んで、念のため病院で診てもらって……今日は忙しくなりそうだ。まずはベッドでゆっくり休んで貰いたくて、テレサの小さな体を抱き上げた。

 そして、その下に封筒を見つける。

「……?」

 開くと中には一枚の便箋と、パソコン用の小型メモリが封入されていた。

「それなあに?」

「うーん、なんでしょうね。あとで見てみます」

 今はテレサのほうが大事だ。

 ニールセン神父は穏やかな心地で孤児院に向かった。もう心が引き裂かれるような夜を越える必要はない。

 教会に朝の光が満ちた。



 二十五番通りの一軒家の前にパトカーが三台も停まって、早一時間程度経過した。いかにも物々しい雰囲気で、起きてきた近隣住民たちも怖いもの見たさに群がっている。

「いや、ついさっき誰か連行されてたんだよね」

「まじ?」

「まじまじ。まだ子供っぽく見えたけどな~」

 カフェの客たちはモーニングを食べながら好き勝手に噂していた。

 店内は繁盛しており、朝早い時間なのに席の八割が埋まっていた。ウェブの口コミを見てみると、どうやら有名な人気店らしい。

 確かに、この厚切りトーストは最高だ。焼き色が付いたサクサクの表面にバターが溶けて塩気がよく合う。しかも内側はふわふわで、ボリューミーなのに軽く感じる。

 イディ=キットソンはカフェの二階席でトーストに噛り付いた。他の客はイディを見ると一瞬驚いた顔をしていたが、全く気にせず作業を続ける。

 彼がほんの一瞬でも注目を集めてしまうのは、見た目のせいではない。グレージュに染めた髪は多少派手だが、ティーンズファッションの範疇である。むしろ紺色のウィンドブレーカーも、白いハーフパンツもカジュアルでカフェの客層とぴったり一致していた。

 正確には、彼らの視線はイディの手元に向けられていた。

 机の上にバラバラに分解されたパソコンと携帯のパーツが並ぶ。綺麗に整列しているので組み立て前のプラモのようだ。

 イディはその中から記憶媒体だけを取り出して、再び組み立て始める。慣れない作業だが、別に難しくはない。自分のタブレットに手順を映しておいて、それを参考に組み立てるだけだ。もうひと頑張り、集中力をかき集めて作業を進めた。

 ヘッドホンで音楽を流しながらさくさく組み立てていると、電話がかかってきた。イディは通話ボタンをクリックして、休むことなく手を動かしていく。

『よっ。こっちは順調に完了したよ』

「俺もほぼ終わり」

 ブートの軽い報告を受け取って、首を鳴らした。肩の荷が下りた気分だ。

 まずは携帯が組み立て終わった。次はパソコンの番だ。タブレットの表示ページを切り替える。

「……てか、アイツの順調が信用できねーんだけど」

 今回は処理しなければならないデータが多い。ヒーローの生体サンプルを採取されてしまったし、顔や性別が分からない服装をしているとはいえ映像も撮られた。そのすべてを消し去る必要がある。

 イディが作った自己破壊プログラムを作動させ、物理的にも壊さなければならない。いつものように情報を抜き取るだけではない。

『ははっ。大丈夫、アタシが確認した。マンションの方も作業完了だ』

「ならいい。アイツいつになったらデータ関係覚えんの」

『そこが可愛いとこだろ』

「へーへー」

 とたん、イディは胡乱な目になった。女の馴れ合いにはうんざりだ。

 ふとイディの手が止まる。忘れる前に記憶媒体を処理した方がいい。パソコンはまだ組み立てている途中だが、善は急げだ。

 リュックから小型のハンマーを取り出して、記憶媒体を軽くたたく。力を込めなくても簡単に割れたので、そのままクリアケースに入れてハンマーごとリュックに戻した。

『あ? 何か割ってるか?』

「おー。ハッカーのパソコンと携帯な」

『! ……マンションだけじゃなかったんだ。徹底してんな』

「徹底しなけりゃ何もしてねえのと同じなんだよ」

 イディは吐き捨てるように言うと、再びパソコンの組み立て作業に戻った。記憶媒体を失ったそれらは情報を扱う技術者にとってただの鉄の板である。

 少年相手のスリは容易いことだった。人通りのない往来でぶつかる相手を疑いもせず、そもそもリュックが半開きで隙だらけだ。良くも悪くも世間知らずまるだしで気もそぞろに歩いているのだから、イディの敵ではない。

『今回は危なかったんじゃないか? あれ、天才ってやつだったろ。少なくともアタシじゃ太刀打ちできなかったし』

「はっ、冗談」

 最後の部品がパソコンに収まった。どうせあとはスクラップ行きだと思えば気楽でいい。組み立てたパソコンと携帯をチャック付きのポリ袋に入れて、作業用の手袋と共にリュックに放り込む。

「天才だとしても、俺よりザコだったね」

 簡潔に言えば、肩すかしをくらったという印象である。

 合成映像を追いかけるなんて未熟もいいところだ。こっちは衛星データへのハッキングさえ想定して待ち構えていたのに、監視カメラの操作で満足しやがった。せめて警察管轄のカメラにアクセスする気概くらいは見せてほしいところだ。

『ふはっ、年下相手に手厳しいな』

「っ……」

 痛いところを突かれて、言葉に詰まる。たしかに、年齢のわりに、独学でやったにしては、よくやっていたと、言えなくも、ない。

「……でも俺はあれよりマシだったろ」

『どうだかな〜』

 冗談めかしてブートは笑った。

 不貞腐れたままコーヒーに手を付け、さらに険しい顔になる。苦みが口に広がって、舌をだした。ミルクを入れ忘れている。

『じゃ、おつかれさま』

 おつかれ、と返事してイディは通話を切った。夜型人間のブートはこれから寝るところだろう。イディも自分の時間を過ごせる。

 ミルク入りの完璧なコーヒーとトーストで、やっと落ち着いて朝食をとる。一仕事終えた後のモーニングは格別だった。



 インペリアルホテルの警備員は朝からきっちりと制服を着こなし、誇りをもってエントランスの警備にあたっていた。ホテルの品格に相応しい佇まいで、屈強ながらもエントランスを通過していく宿泊客を不快にすることはない。

 警備員が目を光らせる中、紺色のウィンドブレーカーに白いハーフパンツの少年がエントランスを通過した。客層から程遠いラフな格好の少年は、たちまち警備員にマークされる。褐色の肌色や、グレージュに染めた髪も警戒を助長したのかもしれない。

 警備員は顔を動かすことなく視線だけで少年を追う。少年は客室側のエレベーターホールに向かっていた。客室側のエレベーターはカードキーが無ければ使えない仕様だ。つまり少年が宿泊客でなければ——。

「……」

 注視していた警備員の前で、少年はカードキーを取り出しエレベーターに乗り込んだ。宿泊客だったようだ。外見で判断するべきではないな、と心を新たに警備員は背筋を伸ばした。

 イディは退屈なエレベーターの中で大きな欠伸をする。早朝から働いて美味しいモーニングも済ませた後だ。ちょうど眠気が襲ってくる時間である。

 エレベーターが到着すると、何人かの宿泊客とすれ違った。朝食に向かう老夫婦と、早めにチェックアウトするビジネスマンだ。イディを横目にエレベーターへと乗り込んでいく。

 廊下を歩きながら癖で監視カメラを探した。高級ホテルなだけあって悪くない配置だ。多少死角はあるものの、何か事件があった時に参照するデータとしては十分だろう——そんなことを考えながら、手元のカードキーでとある客室に入る。

 客室はリビングとベッドルームで構成されている。心なしかいい香りがするのも、スイートルームならではなのだろうか。疑問に思ったがそこまで興味もなかったので流した。

 イディが入口からベッドルームにまで入ると、その奥にあるシャワールームから水温が聞こえた。

 二回、一回、三回、一回。

 シャワールームのドアを独特のリズムでノックする。

「えっ⁈」

 中から素っ頓狂な声が響いた。どたばたとシャワールームが騒々しくなる。イディはくっくっと笑いながらリビングに戻った。

 飲み物でも貰おうと、壁際のデスクを物色する。コーヒーメーカーと電気ケトルが並び、その隣にウィスキー、ウォッカ、ワインがあった。紅茶は高級そうな箱に五種類も入っている。引き戸の中ではマグカップだけでなくロックグラスとワイングラスも収納されていた。手元の電源でグラスをライトアップできたが、心の底から要らない機能なので節電しておく。

「う~ん」

 正直、微妙なラインナップだ。

 次に冷蔵庫を開けて上の段からチェックしていく。ミネラルウォーター、炭酸水、アップルジュース、オレンジジュース……。

「——コーラは一番下の段」

「おっ、さんきゅー」

 お目当ての瓶を手に取って、すぐに開けた。よく冷えていて美味しい。

「うま~」

「……よかったわね」

「あ、ピスタチオもあんじゃん」

「好きに食べていいわよ……じゃ、なくて!」

 両手にピスタチオとコーラを持ったイディに、アリシアは声を荒げた。

 ネイビーのバスローブの下から素肌がのぞいている。濡れそぼったブロンドが額に張りついていて、よほど慌てて出てきたのだと分かった。顔いっぱいに困惑が浮かんでおり、面白い。

「なんでイディが……どっから入ってきたのよ」

「このホテルのドアはカードキーで開けんだよ。しらねえの?」

 イディはポケットからカードキーを取り出すと、アリシアに見せつけるようにしてひらひらと振った。

 見る見るうちにアリシアの目が丸く見開かれた。ようやく気付いたらしい。

「っ昨日のブルーバックってAIじゃなかったの⁈」

「AIは修理中だって」

「それは聞いた、けど……」

 ごにょごにょと語尾を濁す。

 言いたいことは分からんでもない。イディは半ば確信犯的にAIらしい言動を楽しんでいた。それはそれは楽しい時間だった。

「新学期で忙しいって言ってたじゃない! だからAIを作ったんだと思ってたのに……」

「でも壊れたんだから仕方ねえだろ。忙しいのに睡眠時間削ってやったんじゃん」

「~~っそれはありがとう!」

 やけくそみたいなお礼を言われた。眉間にしわが寄っていて、とても知的な朝のニュースキャスターには見えない。

 イディは笑いながらソファに背中をあずけた。サイドテーブルにコーラの瓶を置いてピスタチオを開ければ、快適な空間が出来上がる。

「で、AIの俺はどうだった? 結構いい出来だと思うんだよなー。実際の会話ログ使って教育してて、違和感ない口調になってるはず」

「なに。あれダーシャが作ったんじゃないの」

「いや、俺」

 ピスタチオを割って、口に投げ入れる。ほど良い塩気で舌の上に満足感が広がった。

 ダーシャの専門は機械工学だといつになったら覚えるのだろうか。自分の努力の結晶がダーシャの手柄になるのは遺憾である。

「で、感想は?」

「そうね……。まず、ややこしいから名前を変えましょ。ブルーバックはイディだけ、AIはAI。あと……口調を変えてくれない? イディと話してるみたいで混乱するわ」

「……、……りょーかい」

 想像を絶する阿呆だ。口調はともかく音声には多少合成らしさが残っていたのに。

「あ! ちょっと! 今、こいつ馬鹿じゃねえのって顔したでしょ」

「してない」

 イディは誤魔化すためにコーラをあおった。炭酸がキツめでとても美味しい。よって口元がにやついているのは仕方のないことだ。

 じと、とアリシアは睨んでいたが、諦めたように息をつく。冷蔵庫からミネラルウォーターを持ってきて、イディの隣で口を潤した。

「ところでイディはどうしてここに来たの? やり残しでもあったかしら」

「いや、せっかくビクターズベイまで来たから映画見に行こうと思ってさ。シークレットエージェントってやつ」

 タイトルを聞いて、アリシアの顔がぱっと輝く。気になっていた映画なのだから当然の反応だろう。

「え、それ私も行きたい」

「じゃあ行こうぜ」

 アリシアは嬉しそうに何度も頷いた。うきうきとベッドルームに向かって、髪の毛を乾かすところから始める。

 ドライヤーの音を聞きながら、イディは携帯で近くの映画館を調べた。ノーメイクでバスローブ、ドライヤーもまだということは準備に時間がかかるはずだ——と言い訳して、午後の映画を予約する。ハイスクールでは寮生活なので、久しぶりのビクターズベイだ。映画まで買い物でも楽しんで、雑誌で見かけた店で昼食なんてどうだろう。

 イディは鼻歌交じりにピスタチオを割った。いい週末になりそうだ。

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