1-18 夜明けの逃走劇

 暗い部屋の中で少年は舌打ちした。マークからの応答は見込めない。

 こちらのペースで交渉を運んでいたはずなのに、次の瞬間には騒々しい音が鳴り響き通信が途切れた。マークはしくじったのだ。

 即座にK&K本社ビルのセキュリティシステムおよびエレベーター制御システムにアクセスを開始する。K&Kはどちらも外部委託しており、今夜はヒーローのサポートに制御を差し出して、敵意がないことを示していたのだがもう終わりだ。

 少年はキーボードの上で素早く指を滑らせた。次々入力したコードとその実行で画面がスクロールされていく。コード実行にかかる時間を利用して、隣のキーボードに移り、二台目のパソコンにもコードを入力していった。

「……くそ」

 状況は芳しくない。ヒーロー側のサポートも確かな実力を持っていて、一度渡した制御が中々奪い返せなかった。時間をかければ出来るだろうが、それでは遅い。

 地階への入り口はエレベーターのみである。よって早々にエレベーターの制御を奪いヒーローを地階に閉じ込めたいところだ。

 ALEXを頼ることもできない。彼らはK&K社が失墜したところで痛くもかゆくもないだろう。元々ブラックリスト入りの指定組織であり、そもそもK&K社との取引に使っていた会社は架空会社である。

「くそ……くそっ……!」

 三つ目のモニターでエレベーターの上昇を観測する。ヒーローが移動を始めたのだ。

 次善策はせめてK&K社に留めること、あるいはヒーローを仕留めてデータを奪い返すこと——なのだが。

「……」

 はた、と手を止める。

 それは本当に次善の策なのだろうか。

 相手は被検体0番ミッシングゼロだ。警備ドローンに搭載した銃での無力化は難しい。物騒な方の警備員だって太刀打ちできるとは思えない。

 警察を利用するか? いや、彼らはずっとヒーローを取り逃がしてきた無能な集団だ。少年が協力してやったところで捕まえることは難しく、成功したとしてもK&K社のすべては明るみに出る。

 K&K社はもう詰んでいるのではないか——疑念が首をもたげてくる。

 それから時間を置くことなく、少年の優秀な頭はクリアになった。

 最善策はK&K社を捨てることだ。その後は独立をしてもいいし、ALEXのような団体に拾ってもらってもいい。K&K社が潰れても、ヒーローの正体は高く売れる。解析情報と共に自分を売り込む材料にもなる。

 つまり、取り組むべきは情報漏洩の防止ではなく、ヒーローの情報入手だ。

 少年は実行中のコードをすべて中止し、別のプログラムを起動した。パソコンが熱を持ち、冷却ファンの音が大きくなる。

 思い出すのはダズリン埠頭の一件だ。現場のありとあらゆるカメラ画像へのアクセスと解析によってヒーローの逃走経路を算出している。結果、ヒーローは職員が多く待機している事務棟で行方を眩ませたことが分かった。変装して職員に紛れ込んだのだと考えられる。

 彼らは超人的な力を持っているにしても、物理法則を無視できるわけではない。

 そして。

「セントポールに隠れる場所なんてねえだろ」

 ハッキング対象となるカメラは街中に存在している。

 少年は運搬用ドローンに搭載されたカメラや周辺ビルの監視カメラへのアクセスを開始した。ドローン情報があれば基本的に網羅できるので、市警管轄の道路カメラは後回しだ。

 社内監視カメラの映像によれば、ヒーローはちょうど屋上にたどり着いたところだった。

 同時に周辺の運搬用ドローンへのアクセスを完了する。

 少年の口元に笑みが浮かんだ。

 理想的な状態だ。開始地点を押さえていて、駒となるドローンの制御も手元にある。

 ——ヒーローは左右を確認すると、ビルの屋上から裏手側に飛び降りた。

「っ!」

 被検体0番。頭で分かっていても、目の当たりにすると驚愕せざるを得ない。

 すかさずビルの定点カメラに切り替えて、軽やかに宙を舞うヒーローの姿をとらえる。ヒーローは本社ビルの裏手にある、K&K本社ビルより低いビルの屋上へと飛び移った。着地の瞬間、隣を飛行しているCT-8型ドローンに手をかけ、衝撃を逃がしている。

「まずい」

 思わず呟いた。

 このままビルの屋上を使って移動するとなると、定点カメラはほとんど使えない。上空を監視するカメラなんて存在しないからだ。しかも上空にはこちらの隠れ場所がない。

 制御を奪ったドローンの高さ制限を解除し、高度を上げる。

 二つ目のビルに飛び移ったところでヒーローがこちらに気付いた。上空で見かけるはずのないドローンが浮かんでいるのだから当然だ。迎撃される覚悟だったが、ヒーローは背を向けて逃げるだけだった。手駒が無数にあるのだと察したのかもしれない。

 ここからはあからさまな追跡に切り替える。そのためのプログラムはもう完成し、少年の手を離れている。

 このまま続けていれば、必ずヒーローが姿を消して通行人になるタイミングがある。そしてビクターズベイのビル群から長距離移動すればするほど不利になるのはヒーローの方だ。

 一手先を読み、少しでも多くの情報を手に入れてやる。

 少年はリュックに軽量パソコンと携帯を投げ込んでマンションの一室を飛び出した。玄関を開けた瞬間の風が生温く、日の出直後のやわらかい光すら少年の目には眩しく刺さる。久しぶりの外の空気に顔をしかめたが、時間もないので急いでエントランスに向かった。

 少年が過ごしていた部屋はマークと同じ高級マンションで、エントランスには常にタクシーが待機している。教育されたコンシェルジュは切羽詰まった様子の少年に無駄な問いかけの一つもしなかった。おかげでエレベーターホールからロスタイムなくタクシーに辿り着ける。

「ひとまず、二十八……いや、二十五番道路へ!」

 少年はタクシーへ乗り込むなり、怒鳴りつけるような口調で指示した。明け方の気怠そうな運転手も面食らって眉を上げ、慌ててエンジンをかける。タクシーはすぐにマンションを発った。

 この時間、ビクターズベイの交通量は少ない。運送トラックの他、自家用車の数となるとさらに減る。晴れやかな土曜の朝、どこかに出かける家族連れの車を横目に、少年は冷めた目でパソコンを取り出した。

 膝の上でパソコンを広げ、カメラ情報をアップデートする。

 出かける直前に構成したプログラムは正常に作動していた。モニターのマップ上にヒーローの現在地が表示され、周辺の映像も確認できる。ヒーローはK&K本社ビルから二キロほど離れた場所で三階建てのカフェの屋上に舞い下りた所だった。

 ビクターズベイの外れにあり、民家が混在するエリアだ。入り組んだ路地は姿を隠すのにちょうどいいと考えたのだろう——少年の読み通りである。

「ホームセンター方向に六ブロック進んでくれ」

 画面から目を離すことなく少年は告げた。運転手の怪訝そうな顔をまったく気にかけずにヒーローの姿を追い続ける。遂に地面に足を着けた所まで順調に追っていたが、次の瞬間、ヒーローは軽やかに加速した。

「ちっ」

 実際、狭い路地は映像で追うには不向きだ。いくつかのドローンをマニュアル操作に切り替え、多方面から包囲網を敷く。

 ヒーローが角を曲がると、追いかけて曲がる。塀を超えると、塀の向こう側にドローンを配置する。はじめははっきりと全体を捉えていたヒーローの姿は、たちまち一部しか映らなくなった。

 そして最後は影が一瞬見える程度になり、少年が操作していたすべてのカメラから姿を消した。

「……」

 数秒間、脳がフリーズする。

 そして数回深呼吸を挟み、酸素を体に供給した。

 途方に暮れるにはまだ早い。

 姿を消した前後一分間のデータ解析に手を付けた。加速度、最終地点、周辺カメラの可視範囲から考えて遠くない場所にいる。幸いにも通行人はおらず、小さな路地なので車もない。対象カメラを絞り込み、高解像度で解析すればあるいは——。

「!」

 ——見つけた。

 少年は体を乗り出した。

 それは二十五番通りに面した古びた一軒家のガレージである。路地裏側からガレージに体を滑り込ませるヒーローの微かな影が高解像度版の画像には映っていた。丁度タクシーが走っている場所からほど近い。

「そこの角で止めてくれ」

 鋭く言い放ち、会計を終えると同時にタクシーを飛び出した。

 ふらふらと足が縺れそうになりながら、二十五番通りを件の一軒家まで進む。ランニング中の通行人にぶつかって舌打ちをされたが、頭の中は別のものでいっぱいだった。オーバーヒートしそうなほど回転している一方で、冷静そのものの自分も存在している。

 ヒーローがガレージに逃げ込んでから、ガレージはおろか一軒家にも人の出入りはない。今のガレージにはヒーローの仮面を脱ぎ捨てた、彼の正体があると見ていいだろう。ドローンによる追跡は範囲を広げながら継続して実施している。ヒーローは追手を巻いたと確信しているはずだ。

 ——ならば、親切な通行人として接触を試みてもいいのではないか。

 悪魔的な発想は少年にとって非常に魅力的だった。リスクとメリットを頭の中で弾きだし、前者を取ることに決める。

 少年は二十五番通りからガレージの呼び鈴を鳴らした。ポケットからキーケースを取り出し、マンションのポスト用の鍵だけを外す。中から住人のふりをしたヒーローが出てきたら、ガレージの前で拾った鍵を親切にも届けてやるのだ。

「……、……?」

 呼び鈴の音は外にも響いている。しかし反応はなく、物音ひとつしない。親切な通行人としては何度も呼び鈴を鳴らし続けるのもおかしい。

 少年は路地裏に回り込んだ。ヒーローが侵入する余地があることは映像で分かっている。

 路地裏は静かで人通りがない。木々のさざめきが爽やかな朝を感じさせ、そこに生活音が混ざった。住人が目覚める時間だ。

 映像でヒーローが侵入していた辺りに向かうと、ガレージの裏手には古くて壊れかけの扉がついていた。

 試しにドアノブを捻ると、いとも簡単に扉は開いた。

 ——悩んだのは一瞬で、少年はガレージに歩を進める。

「……あ?」

 ガレージの中には誰もいなかった。

 あり得ない。だとしたらヒーローはどこに消えたというのだ。

 すでにガレージを脱出していた? いや、ガレージ付近を通ったのはランニングしていた通行人だけだし、彼は数キロ先から走っている姿をカメラで確認している。文字通り、消えてしまったのか……——。

 そこで少年はガレージの異常な光景に気付いた。

「なん……だ、これ……」

 小さなガレージに車はなく、作業スペースになっている。そしてその壁には身に覚えのあるK&K社のデータが並べられていた。しかも懇切丁寧に、ALEXとの取引に関連した情報ばかりだ。よく見れば綺麗に纏められたファイルもあった。開くとこれまで取引してきた人間の顔写真と個人情報がファイリングされている。

 このまま警察に提出できそうなほど完成度の高い証拠品だ。

 脳内が混乱の渦にのまれる最中、ガレージの呼び鈴が鳴った。

「っ⁈」

 つい先ほど全く同じ行為を自分がしたばかりなのに、される側になると一瞬で肌が粟立った。耳の奥で心臓の鼓動が聞こえる。息を殺して過ぎ去るのを待っても、無駄だった。

 ガチャリ。

 二十五番通り側のドアノブが回転した。そちらも鍵はかかっていなかったのだ。

 無慈悲にもドアが開き、二人の男が少年の前に現れた。

「うお、まじでいるじゃないっすか」

 初めにガレージへ入った若い男が目を丸くした。もう一人のくたびれた中年は眉を寄せて、いかつい印象だ。男たちは二人とも市警察の制服を着ていた。

「署まで同行願おうか」

 中年の男は少年に警察手帳を突きつけた。バートン警部と記載されている。

 BIUの腕章を目ざとく発見して、少年はすべてを悟った。

 ——嵌められた。

 このガレージはK&K社の秘密の拠点として捜査され、大量の証拠品と共に少年は逮捕される。

「俺は……」

「うん?」

 少年はじりじりと後ずさり、その場に崩れ落ちた。

 今も頭は混乱の中にある。

「俺は、一体……何を相手にしたんだ……?」

 何が起きたのか、全く分からない。得体のしれない恐怖に、身震いする。

 間違いなく言えることは一つ。

 ——ヒーロー側の技術は、天才と呼ばれた少年のそれよりも遥か高みにあるということだ。

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