1-17 ヒーローの正体 2
「データはすべて閲覧してもらって構わない。その代わりに見逃してほしいんだ」
『……はあ?』
ブートの声が一段低くなる。マークは涼しい顔をして両腕を広げていた。データを見たいならどうぞご自由に、という態度だ。
ガラスの向こうにはサーバーやパソコン機器が並んでいる。各機体の小さなランプが点灯、あるいは点滅していて、稼働していることが見て取れた。
『めでたい頭しやがって。そんな理屈、“ヒーロー”相手に成立するわけないだろ』
「だからこそ君たち相手には成立するとみた」
「……っ」
アリシアは息を詰まらせた。態度で明白にならないよう、身じろぎ一つせずマークの言葉に耳を傾ける。背中を嫌な汗がつたった。
クリック音と共に壁一面のスクリーンが切り替わる。映し出されたのは市警察の資料だ。過去三年間の不法侵入事件のうち、BIU案件——すなわち市警察がウィークエンドによる犯行だと分類した事件のみがリスト化されている。
「君たちのことを調べさせてもらった。不法侵入された団体の共通点は、被害者にも関わらず検挙されている事だ……恐ろしいね。まあ、だからこそヒーローなんて呼ばれるんだろうけど」
リストの団体はどれも知っている会社や機関ばかりだった。
アリシアは侵入した先々で痕跡の一つも残していない。それなのにBIU案件と断定されているのは、悪事の証拠を盗み出し何らかの形で暴露しているからである。
「ここで疑問が生まれる。彼らは疑惑の団体だったから侵入されたのか。——おそらくイエスだ。うちのプログラム担当いわく、これらの団体は外部アクセスで黒い噂に辿り着けるような団体だったことが分かった」
『他人事かよ』
「他人事だったはずなんだよ。うちは明らかに毛色が違う。人身売買の話を掴んでいたなら実験場の方に侵入したほうが効率よく証拠を集められるだろ。それにどのルートで掴んだ情報なのか全く分からない。ALEXがうちを売るわけないしな」
『無能なだけだろ。事実ここに辿り着いたんだから』
「……ふーん? じゃあ、別ベクトルの話をしようか」
マークはスクリーンを切り替えた。
今度は血液が付着した弾丸の写真とその報告書が映し出される。ブートの舌打ちが聞こえた。
乾いた拍手が会議室に響く。
「流石、察しがいい——これは前回採取したヒーローの血液データだ」
インペリアルホテルの屋上で被弾した際、アリシアに弾丸を回収する余裕はなかった。ブートとブルーバックは善処してくれたのだが警察による捜査の手が早く、むざむざ血液を渡してしまったのだ。
「解析班からの報告では、君は姿かたちこそ人間だが遺伝子レベルで違う生き物らしいじゃないか」
マークの視線がまっすぐアリシアに向けられる。
デートの時とは異なる視線だ。冷たくて、強い意思を持っている。
アリシアには目を合わせることができなかった。少しでも動けばすべて暴かれてしまう気がした。
「それが超人的な力を持っているって意味なら、これまでの活躍も頷ける」
『そんな馬鹿みたいな話、信じてるのかよ』
「ああ。セントポールはかつてポートレイ博士がいた都市だ」
「……」
アリシアの指先が微かに動いた。ブートほどうまく誤魔化せない。幸いにもマークに気付かれた様子はなかった。
再びスクリーンが変わり、今度はポートレイ博士の写真や新聞記事が映った。彼の生前の輝かしい栄光だ。受賞式の写真なんて、朗らかないい笑顔で写っている。
「宙鉄物理学の父、ポートレイ博士は知ってるよな。若くしてベルンハルド賞を受賞し、莫大な資産を気付いた偉人だ」
『名前くらいは知ってるよ』
「うーん、あくまでしらばっくれる気らしい」
マークは穏やかな口ぶりだった。嫌味なところが一つもなくて、爽やかですらある。
眩暈がしそうだ。
「彼は晩年、生理学にも手を伸ばしていくつか論文を出している。でも、華やかな成果を上げることはなく例の事件で研究人生を閉じた。——というのが一般的な評価だ」
スクリーンは新聞記事とニュース映像の切り抜きに変わった。
イーストベリーの家とその前に待ち構える大量の記者たち。近隣住民の声。そして淡々と述べられるポートレイ博士の最期。セントポールの代表的な未解決事件だ。
「こんな噂がある。実はポートレイ博士は生理学分野でも大いなる発見をしていて、だからこそ研究データを狙う人間に殺された——」
『都市伝説だよな。聞いたことはある』
「ALEXから聞いてなければ、俺もそう思ってたよ。あるいは君と出会ってなければ」
マークは足を組んで、にや、と笑った。
「奪われたデータ——通称APPLEは相当ヤバい代物らしくてね。人類をもう一段階上の存在に改良できると言われている。ALEXみたいな裏社会はもちろん、俺たち医薬品メーカーや、各国の軍部にとっても垂涎物のデータだ」
知っている。だからこうして、日夜。
緩く噛んだ唇はいつの間にか乾いていた。
「そしてここには超人的な力を持った君がいる。結びつけない方がおかしい」
マークはもう、辿り着いてしまったのだ。
「君の正体はAPPLEの
「……」
アリシアは沈黙を守った。ブートだって笑い飛ばせない。
なぜならすべて正しかったからだ。
かつてアリシアは、父の手によってその力を手に入れた——。
「で、話を戻そう。K&K社は生理学分野で目覚ましい成果を上げている。APPLEを保有しているかもしれないって思われても仕方ないよな。実際には非認可の臨床試験のおかげだが」
『……想像力豊かだな』
「たしかに裏付ける証拠は何一つない。サポートが優秀なんだね」
『そりゃどうも』
ブートはちっとも嬉しくなさそうに答えた。
証拠がなくたって、その仮説に出回られると困る。流布される前に処理したいのが本音だ。彼女なら物騒な口止めすら選択肢に入れてそうである。
マークは口元に微笑みをたたえたまま、指を組む。
「協力するよ。だから今回は見逃してくれって言うのが本題。ALEXの情報網、欲しいだろ?」
『裏切るのか』
「だってこっちは窮地だ。何なら今後は人身売買から手を引いてもいい」
冗談めかした口調で、しかしその美しい深緑の瞳に真剣な色が混ざった。無条件で信頼してしまうような、求心力やカリスマ性と呼ぶべきものをマークは持っているのだろう。二面性があるのではなく、アリシアが心惹かれた姿と地続きだ。
はっ、とブートは小馬鹿にしたように笑った。
『それでアリシア=ポートレイに近付いた、と』
若干、声が苛ついている。
マークは怪訝そうに片眉を上げた。よく調べてるな、と小さく呟く。
「今その話は関係ないだろ。彼女がAPPLEの情報を握ってるなら今まで無事に生きてたわけがない。巻き込まないでくれ」
『へえ、非道な事してる割に、まともに恋愛してんだ?』
「そこまで非道な使い方はしてないよ、調べてるだろうけど」
うんざりとした様子を隠そうともしない。
まるで。
まるで、アリシアとの付き合いは、真実だったかのように。
「……」
人体を用いた試験の詳細は分からないが、事前調査で判明したこともある。
K&K社の試験において使用済みの人間全員が、数か月後には買値に近い値で再び売却されていた——すなわち、K&K社の試験において死んだ人間はいないのだ。これは同時にK&K社ではあくまで効率的な医薬品の臨床試験に用いていたことを示している。毒物の開発であれば、被毒した人間の売値が大きく下落しているはずである。
『確かに、悪くない話ではある』
ブートの雰囲気がいくらか和らいだ。
手を組む価値あり、と判断されたのだろう。
『——ヒーロー、どうする?』
「……」
視線が向けられているのを感じた。会議室は静かだ。ガラス向こうのサーバーや空調の音は深く吐いた息の音をかき消した。
アリシアはゆっくりと立ち上がる。動作を遅くすることで、少しでも心と脳を平静にしたかった。一歩一歩、歩み寄る足取りは決して軽やかではない。相手は夜中まで心の中を占めていた人だ。裏のある人だったが、嘘をついていたわけではない。いい人ではないけれど、嫌な人というのも違和感がある。
何も知らずにマークは背筋を伸ばして手の平を差し出した。握手が交わされると信じて疑わない顔だ。取引材料の価値に裏付けされた自信を持っている。ブートの言う通り、悪くない話なのだろう。
躊躇う要素は何処にもなかった。
アリシアは最小限の動きで重心を移動させ——愛おしいと思っていた顔面に、拳を叩き込む。
「なしに決まってるでしょ!」
身構えていなかったマークの体は綺麗な放物線を描いた。どんな表情をしているのか、もはや興味はない。
派手な音と共にガラスが砕け散った。アクリルだったならマークの体を受け止めたかも知れないが、二枚分の壁が粉々だ。
すかさずCT-8改が近寄って、マークが意識を失っていることを確認する。
『おいおい。人間の馬鹿力で誤魔化せる範囲にしとけよ』
「これくらいなら誰だってできるわよ」
鉄に穴を開けたわけではないし、ガラスはそもそも脆いものだ。道具を使えばもとより、素手でだって難しくない。証拠も残らないはずだ。はいはい、とブートには呆れたように流されてしまった。
忘れないうちにマークの携帯とパソコンだけは処理しなければならない。CT-8改が持ち歩いている記憶媒体から適当なものを選び、端末に接続して自己破壊プログラムを展開させた。あとは待ち時間だ。
『……心が揺らいだかと思ったんだがな』
ぽそりとひとりごちたブートに、アリシアは首を傾ける。
「? 揺らぐ要素なんてあった?」
交渉の内容がどうであれ、K&K社の行いが白日に晒されるべきだということに変わりはない。そもそも他人の権利と合理性を天秤にかけるなという話だ。ヒーロー活動はAPPLE探しの目くらましとはいえ、人並の正義感くらい持ち合わせている。
王子様のように素敵だったマークも今は床でガラスまみれだ。ぐったりとのびている姿はダサくて、あんなにかっこよかったのに残念だ。
ふ、とブートの声が緩む。
『くっくっく……いいねえ、ヒーロー。大好きだよ』
「もう、ヒーローじゃないってマークにも突っ込まれてたじゃない」
やっぱり何かしらの呼称を考えた方がいいのだろうか。第三者から呼ばれることを前提とした呼称なんてBIUのウィークエンドで十分だと思っていたのだが——。
「……手を引いてもいいって言ってたわね」
『ああ。それがどうかしたか』
CT-8改はサーバーにケーブルを接続して、作業を開始していた。マークが警備システムを切ってくれていたお陰で余裕がある。思い返せば警備システムを切っていたのは交渉において信頼を得るためだったのだろう。
悪人というのは、悪事に手を染めずにはいられない人間なのだと思っていた。これまでだってそういうどうしようもない人間を相手してきたし、これからもそうだ。
しかし、冷静に判断を下した結果思いとどまる人間もいる。
この事実はアリシアの心にさざ波をたてた。
「さんざん嫌がっておいてなんだけど、ヒーローって抑止力になるんだなって思って」
『そりゃそうだ。誰だってリスクが大きけりゃやらな、い……』
ブートが息をのむのが分かった。本当に察しのいい相棒だ。
「……さっさと終わらせちゃいましょ」
アリシアはすっきりとした顔で微笑む。
マークの端末に仕掛けた自己破壊プログラムは完了していた。仕上げとばかりに拳を振り上げて、迷いなく叩き折る。
夜明けの時間が迫っていた。
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