1-16 ヒーローの正体 1

 セントポールの中心街は静かだった。眠らない街と呼ばれるビクターズベイも明け方近いこの時間は人通り少なく、人影と言えば酔っぱらった市民や警備員くらいである。オフィスビルの灯は警備上の理由で点いているものの、音は少ない。運送トラックがまばらに通る夜景の上空を自由に飛ぶCT-8改の姿があった。

 街灯とヘッドライトを置き去りにして、CT-8改は高度を上げた。景観を阻害しないという目的であしらわれた迷彩柄が正しく効力を発揮し、まばらに存在する人々の目にも留まらない。例え、高さ制限を超えて高層ビルの屋上を目指していたとしても。

 空調の室外機が並ぶK&K本社ビルの屋上に無人機の脚が三つ伸びた。音もなく本体を固定して夜風の中で時を待つ。向かいのインペリアルホテルのルーフトップバーもこの時間はがらんとしてビル風の音しかしなかった。

 その時、空から影が落下した。

 華麗に着地した影はすっくと立ち上がると左右を窺い、CT-8改を呼びつける。

「はじめましょうか」

 影は声こそアリシアだったが、外見は全く別物だった。指先まで覆う伸縮性のスーツと羽織ったタクティカルベストが、夜に溶け込むウィークエンドを作り出す。美しい顔もマスクの下に隠されて一切の肌の露出を許さず、目深にかぶったフードで顔の凹凸さえ推測しにくい。

 ブートに作ってもらった仕事着は、侵入した場所に睫毛や皮膚の組織を落とさないように、そしてカメラに映ったとしても年齢性別身長を推定されないようにデザインされたものである。

「二回目ともなると慣れたものね。正気を疑う方法だけど」

 K&K本社ビル屋上に下りるため、隣のビルのさらに高層階からワイヤーを利用したのだが、映画の見過ぎとしか思えない手段だった。超人的な手法は出来るだけ使わないように設定されているはずでは無かったのか。

『計算上、屋上から侵入するのが最も効率的だ』

『カメラもないからな……こっちもサポート体制出来てるぞ』

「……はーい」

 侵入前とはいえブートもブルーバックも反応が薄い。アリシアはマスクの中で口をとがらせた。ブルーバックが弾き出した計算結果を疑うつもりはないが、実働部隊は孤独だ。

『まずはルート確認だな……ブルーバック』

 ブートの声に合わせてCT-8改の機体上部に取り付けられているモニターが構内図へと切り替わった。K&K本社ビルの内部が立体的に可視化されており、その最上部で青い点が点滅する。彼女たちの現在地である。目的地を示す赤い点は地階にあり、青い矢印が二つを繋いだ。ブルーバックが解説を加える。

『今回の目標は地階に隠された二つ目のサーバーだ。セキュリティのシステム構成は変更されているみたいだが、設備自体の変更はなし』

『アタシのスーツとCT-8改なら難なく突破できるから安心していい』

『問題はサーバーに接続してからで……——』

 ブルーバックとブートが交互に説明するのを、アリシアは必死に頭に叩き込んだ。あんまり難しいことばかり言わないでほしい。命令は、侵入して無事に帰ってこい、だけで十分だ。

『——おい、分かったか?』

「かろうじて。さっさと行きましょ」

 ブルーバックの音声を聞き流して、アリシアは腕を回した。無音で上昇したCT-8改がその後を追う。

 屋上の扉はピンシリンダーキーと警備システムが連動した形式である。アリシアには開錠方法なんてさっぱりわからないが、ブルーバックとブートにとっては児戯に等しい。CT-8改のアームが操作する横で腰に手を当てて、自宅のように簡単に鍵が開くのを、ただ待っていればいい。前回の侵入と同じである。

 しかしCT-8改のアームはぴたりと動きを止めてしまった。

『……通信を停止し、システム侵入に注力する』

『なんだブルーバックに任せてさぼろうと思ってたのに』

 コトリ、とマグカップの音が聞こえる。ブートが紅茶でも側に置いているらしい。微かなプラスチック包装らしき音は、チョコレートか何かだろうか。

 言葉通り、間もなくブルーバックの音声は消えた。

「何? トラブル?」

『いや、問題ない。今日も頼むよヒーロー』

 CT-8改のアームが屋上の扉をあけた。ホテルマンさながらの仕草である。

「ねえ、いつも言ってるけど、ヒーローじゃないってば。そんな志なんてない」

 アリシアは眉をひそめた。コードネームを指定しないまま過ごしていたらいつの間にか、ヒーロー、と軽口を叩かれるようになっていた。

 盗人猛々しい、と思う。

 自分が都市伝説上ヒーローと呼ばれていることは知っているが、事実と異なることも知っている。ヒーローは人物像に対して与えられる称号だ。大いなる力に大いなる責任が伴ってるような、己の中の恐怖に打ち勝つような、挑戦することをやめないような、そんな人物のはずだ。

『志がそんなに大事か? いつまでも窮屈なことを言うじゃないか』

「大事なことだわ」

 アリシアは顔を上げて、扉の内側に広がるリノリウムの床に足音が響かないよう静かに踏み入った。

 K&K本社ビル内は土曜も夜明け前だというのに場所によっては照明が輝く。それは警備用の灯であり、他に人影はなかった。

 アリシアを先導するようにCT-8改は飛行した。ブートが開発したセキュリティセンサ検知システムで周囲の安全を確保している。機体のモニターのグリーンライトは異常なしのシグナルだ。アリシアも安心して歩くことができた。

 屋上の階段から侵入した最上階のだだっ広い役員室はガラス張りで、大企業らしい洗練されたデザインである。この中にマークの使っている執務室もあるのだろうか、と横目に見て足を早めた。

 前回と同じく北側階段を使うと思っていたのだが、CT-8改は非常階段の入口を素通りした。ルート確認を怠っていた事がバレるので、唇を閉じてついていく。

 高級感のある黒いカーペットが足音を吸収し、周囲は静かだった。エレベーターホールに至り、横一列に三基並んだエレベーターの前でアリシアは目を見開いた。

「……これ、ブルーバックの仕業?」

 中央エレベーターの扉はすでに開いており、アリシアが乗り込むのを待っていた。

 エレベーター内部の照明が暗闇のホールをぼんやりと明るくする。

「さっきシステム侵入に注力するって言ってたわよね」

『いや……やっぱり侵入がバレてるな』

「やっぱり、って」

 アリシアは何も聞いていない。

『屋上の鍵が初めから開いてたんだよな……警備システムも切れてたし……』

 ブートはぶつぶつと呟いた。

 そういえば、前回はわざわざ社員が残っている時間に侵入した。たしか全員退社すると赤外センサーが起動して、手間が増えるとかなんとか。けれど今回起動しているはずの赤外センサーに対して、CT-8改のセンサ検知システムは作動していない。

 警備システムが侵入前にすでに切られていた。そして今、エレベーターがアリシアを待ち構えている。

「……歓迎されてるみたい?」

 罠にかけるつもりなのだとしたら騙し打ちが下手すぎる。

『マジで怪しいな……まあ、行くしかないわけだが』

「私は階段でもいいけど」

『例の存在しない地階にはこのエレベーターがないと入れない』

「じゃあ乗りましょう」

 悩む余地がない。

 判断するとすぐにアリシアはエレベーターに乗り込み、CT-8改が続いた。

『軽いんだよ……』

 ブートは呆れたような声をあげた。

 操作パネルで目的階のボタンを探して、アリシアは指を止めた。ボタンは一階までしかない。考えてみれば、存在しないはずの地階なのだから当然だ。

 ならばどうするべきかと指を彷徨わせるうち、ポーン、と機械音と共に扉が閉じた。

「……えっと」

 振り返るとCT-8改はエレベーターの床に脚を伸ばして落ち着いている。間もなくエレベーターは降下を始めた。

『大丈夫、こっちで動かしてる』

 ブートが軽く答えたが、簡単な作業ではないことが伺えた。その証拠にキーボードを叩く音は断続的に聞こえているし、ブルーバックだって通話機能を切って容量をセキュリティシステムへの侵入に費やしている。

「……」

 アリシアは手のひらを握りしめて、気合を入れ直した。手伝えない分、自分にできる事をすればいい。

 エレベーターはみるみる高度を下げた。窓のない密室でも、浮遊感と気圧の変化を感じる。空調は最適な温度に設定されていた。CT-8改のグリーンライトは点灯したままで、監視カメラのハッキング成功を示している。

 これが歓迎なのだとしたら、理由が分からない。例えば目の前でテレサを人質に脅迫されたなら交渉に応じる余地はあるものの、そんなピンポイントで弱点をつけるほどこちらの情報セキュリティは甘くない。

 ポーン。

 機械音がエレベーターの終着を告げた。

 開いた扉の先に広がる、三十人は入りそうなガラス張りの会議室だとか、そのガラスの向こう側に並ぶ目的のサーバーやパソコン機器だとか、会議室のガラス壁のうち一面を覆うスクリーンに映った“ヒーロー”の資料だとか——。

 ——そのすべてを差し置いてアリシアの目を奪ったのは、会議室の一番奥で仕事をしていたらしいマークの姿だった。アリシアを見つけて顔を上げると、ああ、と当然のように手を上げた。

「やあヒーロー、会えてうれしいよ」

「……っ」

「案外遅かったな。システムに侵入するから慌てて待機したんだが」

 待ちくたびれたよ、と冗談交じりに笑う。

 会議室の中はマークと二人きりだ。O字に並べた長机の対面で向かい合い、アリシアには次の言葉を発せない。声を出すなよ、と小声でブートに注意されたがいらない心配だった。

『どういうつもりなのか、魂胆を聞かせてもらおうか』

 ブートは声を男性の機械音へと変えていた。冷静で抜け目ない。

 侵入者ではなく、その隣を浮遊するドローンが話し始めたので、マークは片眉を上げた。

「あー……、マイクの向こうにいる君がサポートかな? うちのプログラム担当が手腕に感心してたよ」

『それはどうも。いやに友好的じゃないか』

「ははっ、入った時から分かってただろ。こちらに攻撃の意志はないよ」

『……』

「たいした歓迎もないけど、まあ座ってくれ」

 マークはあくまでにこやかに椅子をすすめた。入口付近の机にはミネラルウォーターのボトルが未開封で置かれている。まずはCT-8改が机の上に着地し、その後アリシアも椅子に座った。さすがにボトルには手を付けない。

「さて、交渉をはじめようか……——いい話だ」

『胡散臭いな』

 馬鹿にしたように鼻を鳴らす。マークの話を無視してさっさと仕事を終えたいと考えているのが丸わかりだ。余計な口を挟まないようにアリシアは指を組んで、じっと正面を見つめる。

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