1-15 二人の夜 2

 ぬるま湯がアリシアの肌の上を滑って落ちた。髪の毛をお団子に纏めて、濡らさないようにシャワーヘッドを調整する。昼間の汗を軽く流したら、ボディーソープの出番だ。完璧にメンテナンスされた美しい体を磨く。焦らすタイミングでもないし、時間はかけない。インペリアルホテル備え付けのソープはアーモンドミルクの香りがした。

 全ての泡が排水口に吸い込まれて、バルブを閉じる音が響いた。柔らかなバスタオルは吸水性が高く、軽く肌に当てるだけで水滴を取り除いてくれる。バスタオルの側に置かれた紺色のポーチはアリシアの宿泊用ポーチだ。ディナーの間はボストンバックごとクロークに預けていた。

 期待と言うべきか、用意周到か。ホテルのディナーに誘われたら準備くらいする。結果として今まさに役立っているのだから、不謹慎だとは思わない。

 ナイトウェアを身に着けて、鏡の前で笑顔を作った。一般的な女性の、優しさに裏打ちされた明るい笑顔である。よし、と小さく呟いて、アリシアはバスルームの扉を開けた。

 ベッドルームでは暖色系の間接照明がぼんやりと室内を照らしている。クイーンサイズのベッドは皺ひとつなく、サイドテーブルにアリシアのボストンバックが置かれたままだ。ガラスやステンレスを多用した幾何学的なデザインのインテリアは、インペリアルホテルの創業年数を考えれば意外なほど近代的だ。

 続き部屋のリビングから明かりがさしこむ。仕事の電話をしているらしいマークの声がベッドルームにまで聞こえた。盗み聞きにならないように扉をノックしてリビングルームに入ったところで、丁度通話が終わる。

「……邪魔しちゃったかしら」

「まさか」

 炭酸水のボトルを開けるアリシアにマークは微笑んだ。ジャケットもネクタイも脱ぎブルーのYシャツ姿で寛いでいる。体に合わせたシャツは、その下の逞しい胸板を感じられて魅力的だ。同じシャツでも同僚が着用しているものとは大違いである。

 舌の上ではじけた炭酸が緊張感ごと喉の奥に流れ込む。

 ソファに座るとマークの腕が背中に回った。アリシアの肩にもたれるようにして体が寄せられる。苦しくないように配慮された甘え方が愛おしく、アリシアも体重を預けた。心の弱いところもさらけ出せる存在になれただろうか。少しは気を緩めてくれたように見えるものの、確証はない。

 沈黙が落ちた。触れた肌は熱く焦れったいように感じられるのに、マークがバスルームに向かう気配はない。疲れて眠ってしまいたいのならそれでいい。しかしうつらうつらとするでもなくむしろ意識は冴えているようだ。

「……マーク?」

「……」

 言葉を探している。直感的に理解した。

 体を離して正面から向き合うと、マークの疲れた顔がよく見えた。ディナーの時よりも複雑な表情だ。

「さっきの電話、もしかしてテレサの話だったの……?」

「あ、いや、そういうわけじゃ」

「いいのよ、私。ここを離れたいんでしょう」

「アリシア、待ってくれ」

 マークはアリシアの両肩を手で押さえた。

「違うんだ……本当に」

「でも、じゃあ、何なの?」

 マークの様子が明らかにおかしい。

 眉間にしわを寄せ、諦めたように息を吐いた。

「今のは上司からの電話だよ。アジア支店の責任者が倒れて……来週から俺に交代だってさ」

「えっ!」

「だから数日で支度して……多分、一年以上セントポールを離れることになる。しかも一時間後にアジア支店のメンバーと打ち合わせだ。いくら時差があるからって、ひっどい話だよな」

 マークは乾いた笑いを浮かべた。

 流石のアリシアも言葉を失う。言っていることは理解できたし、取り乱すほどではないのに、いくつもの考えが浮かんで頭を占領していく。

 マークはテレサの事が気がかりなまま出発する事になるのだろうか。

 それまでにアリシアの手で解決できるだろうか。

 恋人のようなそれ未満のようなアリシアとマークの関係はどうなるのだろうか——。

「だから今夜は申し訳ないけど、アリシアを置いていくことになる」

「それは勿論、いいんだけど……」

 問題はそこではない。

 マークも分かっていて、困ったように笑った。

「先に俺の意見を言っていい?」

「……い、いいわ」

 急激に緊張感が沸き上がって、アリシアは身をこわばらせた。

 どうせ選択肢は多くない。

「愛してる。俺はついてきてほしい。付き合いも浅いのに馬鹿げてるのは分かってるけど、結婚も視野に入れてるし後悔させない」

「……っ」

 急に言われても困る。ぎくりと体を引いたアリシアを、マークの腕は逃さない。真正面から見つめ合う真剣な目が言葉を奪った。マークは本気だ。

「私……私は……、……数日で決めないと駄目なのよね」

「そうなるね」

「でも、そんなの、プロポーズみたいなものじゃない……!」

 アリシアはほとんど悲鳴に近い声をあげた。そんな覚悟、まだまだ先だと思っていたし、妄想すらした事がない。

「困らせてごめん。俺も必死なんだよ。アリシアみたいな素敵な人にはもう出会えない気がしてるんだ。……でもアリシアの意志は尊重したい」

 大事な人だから、と優しい声で付け加える。そこにはアリシアへの思いやりと愛情があった。

 なんてたちの悪い人なのだろう。

 即答なんて出来る訳もなく、二人で過ごす未来にただ思いを馳せる。アジア支店の高層マンションでマークを支える日々。CNC社での経験は、新しい環境でも活きるのだろうか。ニュースキャスターは倍率の高い職業だ。再就職には不安がある。

 それは穏やかな幸福に満ちた日々になるだろう。

「私……」

 上手く言葉が出ない。

 締め付けられるような思いで顔を上げると、その優しい瞳と視線が絡んだ。うっとりする理想的な顔立ちに、くらくらするような素敵な表情を浮かべている。言葉はないのに愛を囁かれていると感じた。

 意思が、思考が、感情が、それ以上動くことを拒んだ。

 マークの唇が近付くのに合わせて、アリシアもそっと目を閉じる。しかし、求めていた感触は与えられなかった。

「……?」

 わずかに目を開けると、マークは眉間にしわを寄せている。何かを耐えているようで、そのままアリシアから離れた。

「いま口説くのはフェアじゃないな」

 苦笑したマークを見ていると胸が苦しくなる。

 近寄ったとき、マークの目の下にうっすらと隈があることに気付いた。一緒にフリーマーケットに行った日にはなかったはずだ。

「……あまり寝てないの?」

「あー……最近、仕事が忙しくて」

「そう……」

 たまらなくなって、アリシアは隣に座るマークの首に手を回した。

 腰を浮かせ、頭を包み込むようにして抱きしめる。マークは力を抜いてアリシアを受け入れているのに、抱き返すことはなかった。こんなことさえ“フェアじゃない”のだろうか。

「……ホテルは明日の昼まで使って。ルームサービスも付けてるから好きに頼んでくれ」

「ええ」

「じゃあ、いってくる」

 それだけを言い残して、マークは身支度を整えた。といってもジャケットを羽織って荷物を纏めるだけだ。今夜これ以上話し合う余地はない。

 あとはアリシアの決意を伝えるだけである。そうしてマークはあっという間に部屋を出て行ってしまった。最後まで思いやりに満ちた笑顔だった。

「いってらっしゃい」

 マークを見送って、アリシアはベッドに倒れ込む。高級な柔らかいマットレスが体を包み込んでくれるのに、幸福感が全くない。

「……さようなら」

 ぽつりと呟き、目を閉じる。

 マークの提案に即答できないのは、答えが決まっていてその伝え方が分からなかったからだ。

 セントポールを離れることはない。アリシアにはやるべきことがある。

 その時、携帯端末が特殊なパターンで振動した。二回、一回、三回、一回の振動だ。

 目を開けると、天井とベッドの間にキャリーケースサイズで迷彩柄の楕円が浮いていた。生活を邪魔しない静かな飛行はCTー8の素晴らしい性能の一つだ。CTー8改はブートの手でさらに磨きがかかっている。

『よおヒーロー。いい夜だな』

 ブルーバックが、アリシアの感傷を邪魔する。いい夜だなんて皮肉たっぷりに言われて目つきを鋭くしながら、アリシアは体を起こした。CTー8改は広いベッドの上に着地する。

「どっから入ってきたのよ」

『このホテルのドアはカードキーで開けんだよ。しらねえの?』

 CTー8改の機体からアームが伸びて、ヒラヒラとカードキーを揺らした。

「……監視カメラでバレるわよ」

『カメラ映像を書き換えてっから問題なし。非常階段使ったから人もいねーし』

 堂々とした完全犯罪と言うわけだ。

 唸るアリシアにブルーバックは追い打ちをかける。

『高跳びする気満々じゃん』

 アリシアは気まずさのあまり両手で顔を覆った。マークとのやり取りが何故かバレている。身内に知られるほど恥ずかしい事はない。

「……真実かもしれないじゃない」

『本気だったなんて言わねえよな。ハニトラ仕掛けてたんじゃねえの?』

 悔し紛れの反論も一蹴される。

 別にハニートラップを仕掛けた訳じゃないが、本質はそこではないわけでアリシアは黙るしかない。

『よく分かってるはずだぜヒーロー』

 ブルーバックの言葉が刺さる。

 アリシアだって最初から分かっていた。だってマーク=キャンベルはK&K社の若き経営メンバーである。どう考えても怪しい立場の人間だ。

 それでも運命の出会いをした王子様で、K&K社の悪事には関わってなくて、善良ないい人な可能性だってあるではないか。

『いいか。そもそもアジア支店の責任者は倒れてない。高跳びするためにポストを空けただけだ』

「だとしたらタイミングがおかしいんじゃないの。突然すぎるわ。どうして今夜その連絡が来るのよ」

 アジア支店の責任者が倒れたと言う方が理にかなっている。

『奴らが人事異動について打ち合わせを始めたのはお前がディナーにいた頃だ。正確に言うぞ。俺とブートがハッキングを開始した途端、だ。分かるか? 二回目の侵入を察知して逃げる準備をしてんだよ』

「ハッキングしても相手は検知できないんじゃなかったの」

『そこについてはこっちの落ち度だ。前回からまたセキュリティシステムを変えてやがった。今ブートが対応してる』

 道理でブートの声が聞こえないわけだ。ブートなら傷心のアリシアを慰めてくれるだろうに。

「じゃあ……じゃあ、あんなに優しくて素敵でかっこいい人が敵だっていうの?」

『見る目ねーんじゃん?』

 ブルーバックは冷たかった。口調は人間のように生意気なのに、心は機械である。

『あと、テレサの調査も終了した。ALEXからK&Kが買い取ったようだな。そもそもALEXの搬送ルートの一つに孤児院からの誘拐があるんだが、内通者がいたなら誘拐も楽勝だ』

「……順当に利益を上げてるK&Kが人身売買なんてリスクを負うのはおかしいって話だったじゃない」

 アリシアの声は尻すぼみになっていく。

『いや? 逆だったんだ』

「どういうこと」

『非合法の臨床試験によって医療機器や医薬品の開発を加速してたってことだよ。ま、どっちにしろ優秀な開発チームが居るのは間違いねーけど』

 嫌味なくらいにブルーバックの声は明るい。あるいはただの機械音で、聞き取ったアリシアの問題なのだろうが。

『ぜーんぶ繋がったな』

「運命の出会いが台無しだわ!」

 アリシアはヤケになって再びベッドに転がった。振動でCTー8改も傾く。

 もう逃げ場はない。いい加減、理解するしかなかった。

 マークはアリシアを好きじゃない。愛してない。惹かれてなんか、ない。

 ポートレイ博士の娘が彼の事業分野において魅力的な存在だっただけだ。デートもキスもプロポーズもポートレイ博士の娘に用意されたものである。この、完璧なスイートルームさえ!

 思い返せば心当たりは沢山ある。

 初めて出会ったベイサイドパークで、マークは仕事帰りだった。つまり直前までK&K本社ビルにいたことになる。警察の捜査が行われる中、悠々と帰宅していたのだ。運命の出会いというより、偶然と必然が重なったと表現するべきである。

 寝ていたアリシアを介抱してくれたのだって親切心ではない。無防備なポートレイ博士の娘に出会って、さぞ天に感謝したことだろう。それに充電を口実にバッグから携帯端末を抜き取っておけば、返却するためにまた会うことが出来る。

 そもそもベイサイドパークでの出会いがなくても、アリシアとマークは出会う予定だった。KJが教えてくれたところによると、マークへのインタビューで先方からアリシアが指名されていたらしい。ニュースキャスターとして、いや、インタビュアーとしての実力を買ってもらえたと思っていたのに、蓋を開けてみればポートレイ博士の娘とお近付きになりたかっただけである。

 アリシアは事実から目を背けていただけだ。それでも、素敵な人だった。胸のときめきも本物だった。

 男を見る目がない。

 アリシア=ポートレイがよく言われる言葉である。うるさい、やかましいと暴れる気力も今はなく、ずっしりと気が重くなる。

「うぅ……泣きたい」

『泣けば?』

 ブルーバックは軽口を叩いた。あからさまにアリシアを煽っている。空気が読めない、冷たい、ポンコツAIめ、と恨み節が止まらない。

「最悪……口の悪さはプログラムでどうにかならないの」

『教師データが口悪いんだから無理がある』

「ブートに頼んでそんな口きけなくしてやるから」

『楽しみだ』

 機械のくせにからからとブルーバックは笑った。

 歯噛みしながら、アリシアはCTー8改の機体を開いて準備を進める。感傷に浸る間もなく激動の夜の幕開けだった。

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