1-10 心、近付く

 日曜のセントラル駅構内は多くの利用者で賑わっている。セントポール最大の主要駅であり、週末も多くの電車が一階と二階のホームから発着する。改札前で孫と別れを惜しむ老夫婦がいるその隣には肩を寄せ合う恋人がいて、それらを見向きもせずに歩くビジネスマンの後ろを運搬用ドローンがついていく。

 まさに都会の喧騒の中、しかし頭上に高く広がる空間が行き交う人に窮屈さを与えない。セントラル駅中央に配置された名物の庭園には数々の観葉植物が枝葉をのばし、ドーム状のガラス天井から降り注ぐ夕日を受け止める。

 柱巻き広告を背もたれにマークは足を交差させた。道中のカフェでテイクアウトしたコーヒーはほとんど飲み干しており、生暖かな温度を指先に伝えた。時折向けられる好意的な視線には慣れていて、声を掛けられない限り表情一つ変えない。

 特急列車の到着時刻は把握していたが、ついつい早く家を出てしまった。時々アリシアから届くメッセージに返信する待ち時間は退屈というよりむしろ好ましい。

 マークが読んでいたネットニュースに映画の広告が流れた。土曜に行く予定だったアクション映画だ。来週にでもリベンジしたいな、と映画館付近のレストランを検索していると、アリシアから到着の連絡が届いた。

 メッセージを確認するのと同時に声をかけられた。

「素敵なお兄さん、私とデートでもしませんか」

 悪いけど、と断ろうとして、聞き馴染みのある声にさっと顔を上げる。

「……アリシア?」

 マークはぽかんと口を開けた。到着の連絡が届いたばかりなのに、アリシア=ポートレイがいたずらっぽく笑っているのだった。

「ふふっ、いいもの見れたわ」

「いいもの?」

「メッセージを読んでるときのマークの顔」

 数刻、アリシアの言葉を咀嚼して、にやっと笑みを浮かべる。

「嬉しそうな顔だったろ」

「まあ、そうね。少なくとも詐欺じゃないみたい」

「なんだ、隙をみせた甲斐がないな」

 アリシアはくすくすと笑った。

 今日はジーンズにオーバーサイズのパーカーを合わせている。足元はスポーツメーカーのスニーカーで、頭の後ろで纏められた髪の毛がスポーティで軽やかだった。

「カジュアルな服も似合うね」

「……またそんなこと言っちゃって」

「本気だって。俺、ポニーテール好きなんだ」

 可愛い、と伝えると何故か睨まれた。それは彼女の照れ隠しの一種であるらしく、マークの口元が緩んだ。話せば話すほどアリシアは可愛く、面白く、魅力的だ。

「では素敵なお姉さん、俺とデートしてくれませんか」

「はい、いいですよ」

 そっと手の平を重ねて二人は歩き出した。セントラル駅の人混みに紛れて、二人の周りだけが切り取られたように特別な時間が流れる。セントラル駅からほど近いプリメイプル州立公園まで、いつもよりスローペースで歩いた。

 プリメイプル州立公園は立地の良さや敷地の広さもさることながら、園内に博物館、美術館、植物園を保有しており、年中多くの利用客が訪れる。特別な訪問でなくてもいい。州立公園には犬を連れて散歩をする男性もいれば、ジョギングをする女性もいる。ただ家への帰り道に通り抜けるだけの夫婦も。

 公園内の楓並木が色付くにはまだ遠く、青々とした葉が夕日に透けて輝いた。公園の中で最も通行人の多い通りにキッチンカーが停まっているのを見つけて、二人は散歩のお供を選んだ。アリシアは生クリームにキャラメルソースをかけた苺クレープだ。バニラアイスが乗って、肝心の苺もたっぷりと入っている。マークはハニーマスタードのホットドックにしたようだ。

「食事には中途半端な時間なんじゃない?」

「これくらいはおやつだろ。アリシアのクレープと重さはさして変わらないよ」

「クレープは別腹なの」

 アリシアは歩きながらアイスをスプーンですくって食べた。求めていた甘さに、にっこりと笑顔になる。

 公園の湖のほとりにベンチが並び、その中の一つに二人は腰を下ろした。湖にはボートが浮かんで、穏やかな夕日の中で日曜の終わりを満喫できる。

 ちょっと待ってて、と言ってマークはアリシアにホットドックと荷物をあずけた。そしてアリシアをベンチで休ませている間に飲み物を買ってきてくれる。コーヒーと紅茶、好きな方を選んでいいと言われたので、アリシアはコーヒーにしてみた。食べ合わせの問題である。

 会えるのは精々一時間程度だと、事前に伝えている。月曜も早朝からGDCで、夜八時前にベッドに入らなければ体がもたない。アリシアの時間はマークと根本的にすれ違っていた。ほんのわずかな会える機会を探して、二人の時間を重ねるほかないのだ。何気ない公園でのワンシーンは二人にとって貴重なひとときだった。

 どこからかアコーディオンの音色が響いた。プリメイプル州立公園ではいつだって路上パフォーマーが楽曲を披露している。秋風を浴びて、甘いクレープを頬張って。得も言えぬ幸福感を大切に味わう。

 並んだ二人の肩が触れた。マークが体を寄せたのだと気付いて、アリシアもそっと寄りかかった。頭上で笑ったような気配があった。

「女性なんてよりどりみどりでしょう」

 ぽつりとアリシアは口にした。

 マークは素晴らしい人だ。整った顔立ちや、若くして企業役員に昇り詰める実力とそれによって得られる高い収入。しかしそれよりも魅力的なのは、物腰は柔らかだがデートではリードしてくれる男らしさと、聖ドミニク教会の孤児院に寄付を行うような思いやりである。どんなに高望みしても、それ以上の女性が現れるような男性だ。

 だから卑屈になっているのではなく、純粋に疑問なのである。アリシアにマークを惹きつけるような魅力はないしこちらから口説いたわけでもないのに、肩を並べて座っている。

「……そうでもない。忙しいしな」

「そこは即答しないと」

 ふ、とアリシアは笑った。

 そもそもマークは距離感の詰め方が非常に上手い。指先から始まり、手の平、腕と不快ではない距離を保ちながら今は肩まで許している。連れて行ってくれるレストランは毎度お洒落で予約が難しいところだし、会話の引き出しも多くてアリシアを決して退屈させない。気遣い上手で済ますには出来すぎであり、女慣れしているといった方が正しい。

 マークはうーん、と唸った。

「まいったな、遊びだと思われてるらしい」

「あ、咎めたいわけじゃないの。何ならそれでいいし」

 マークがアリシアを好ましいと思ってくれているのは事実だ。それくらい分かる。そして遊び人とのライトな恋愛だって、アリシアは十分楽しい。

 肩がそっと離れ、マークはアリシアに向き直った。真正面から見える瞳が、存外真剣な色をしている。

「いや、俺が困る」

「本命みたいな言い方するじゃない」

「少なくとも俺は真剣に、誠実にデートしてるつもりだった」

 マークはまっすぐにアリシアを見つめる。

 口の中に残っていたクレープを、ごくりと嚥下した。流石に次の一口を食べるのはためらわれて、手元に視線を落とす。

 女慣れした男のこういった言葉は嘘か本気か分かりにくくて困る。

「可愛いと思ったから、じゃだめか? 画面の中では理知的なアリシアが、慌てたり、笑ったりしてくれるのが、なんかいいなって思ったんだよ。もっと見たくなったんだ」

「……だから、別に怒ってるんじゃないってば」

「俺は、俺がちゃんと本気だって分かっててほしい」

「……」

「顔、赤くなってる」

 マークの手の平がアリシアの頬に伸びた。拒否するどころか言葉も失って、アリシアは眉間に力をいれる。指摘された熱なんて無視して、緩みそうな口を引き締めて、少しでも翻弄されないように。

 頬に触れる指先は優しく、心の表面を直接撫でられているようだ。気持ちが解れると同時に、心地よく思考が鈍った。

 柔らかく細められた目に見惚れているうち、気が付けばその目がすぐそばにあった。

 かわいい、と囁いた声が、アリシアの呼吸さえ止める。

 ——手が早い。

 けれど、アリシアも同じことを望んでいた。

 物足りないくらいの僅かな時間、唇を重ねる。

 頭の奥がどろりと溶けて、美しい湖面も気持ちのいい秋風も世界から消え去った。離れた唇が名残惜しいだなんて惚けていたアリシアを現実に引き戻したのは、マークの笑い声だった。

「……な、何?」

「ごめんごめん、甘かったからさ。はい、これ返すよ」

「甘……?」

 マークはにこにこと笑いながらアリシアの手にクレープを握らせた。いつの間に手から落としていたのだろうか。

「え……あれ……?」

「そんなに頭一杯だったんだ」

 マークは少し意地の悪い笑みを向け、アリシアが黙り込んだのを見て機嫌よさそうに紅茶を口にした。

 何やら余裕が感じられて癪だ。アリシアは頬にクレープの残りを詰め込んで気を紛らわせる。そしてコーラでも飲むみたいにコーヒーをごくごくと喉に流し込んだ。甘いと評された口もこれで苦みが優勢になるはずだ。マークは楽しそうに笑っていた。

 路上パフォーマーが曲を進めるたび、湖面は一層赤く染まった。日が沈む前の空が一番赤く、アコーディオンの音色によく映える。

「来週も会える? 映画のリベンジなんてどうだろう」

「……週末ならね。予定確認しとくわ」

 アリシアは前回と同じ回答を返した。平日は生活時間が違いすぎて会えないし、週末はK&K本社へ侵入する予定だ。でもどうにか時間を作って会わないと、マークとの関係は一歩も進めることができない。

「無理しないでくれよ。今日も予定があったんだろ?」

 マークは心配そうに眉を下げた。多忙なことも、少し無理をして時間を作っていることも察しているらしい。マークだって忙しいのに、当たり前に体調を気遣ってくれる。

「大丈夫。今日は予定っていうか実家に帰ってたのよ」

 アリシアはマークを安心させるためにも、明るい声で告げた。実際、イーストベリーでダーシャにCT-8改を渡しただけだ。予定というほどでもない。

「……今は無人なのか?」

「知人に管理を頼んでるわ。……知ってるのね」

「そりゃ、あれだけ話題になれば」

 マークは肩をすくめて、目をそらした。空気が僅かに重くなる。

 ああ、善人なのだな、とどうしようもない心地に陥る。アリシアにとってもう過去になったそれらに、マークは心を砕いているのだ。

「えーっと、そうね。テレサはフルーツサンドを気に入ってくれたかしら?」

 気まずい雰囲気を払拭するために、アリシアはやや強引に話題を変えた。

 フリーマーケットではフルーツサンドを差し入れしてすぐに別れたため、孤児院の子供たちが食べるところは見れなかったのだ。有名店の物で味は間違いないはずだが、子供たちの口にあったのかは気になるところだ。

「ああ、そうだね。テレサは……」

 マークは微かに言い淀んだ。

「テレサはまた会いたいって言ってたよ。フルーツサンドも気に入ってた。よかったら今度遊んであげてほしい」

「もちろん! ……聖ドミニク教会だったわよね。一緒に行きましょう」

 アリシアが即答すると、マークも目を細めた。

 そもそも子供は好きだ。話した時間は短かったがテレサは愛らしい少女で、単純に再び会えることが嬉しい。ついでに、マークとの次の予定があることもアリシアの胸を浮き立たせた。

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