1-9 イーストベリーの平和な邸宅

 イーストベリーはセントポール州屈指の高級住宅街だ。あちこちに楓が植えられたのどかな街で、広場の芝生を大型犬が駆け回ることもできる。それぞれの邸宅はブロックをのびのび使っており、集合住宅は駅付近にいくつかあるだけだ。馬鹿騒ぎする若者もほとんどおらず、夜明けの歩道も綺麗なものだった。

 アクセスだって抜群だ。特急電車を使えばセントポールの中心街から一時間もかからない。石畳の歩道は都会のアスファルトに慣れた足なら疲れるだろうが、お陰で美しい景観を保っている。

 イーストベリーの柔らかな朝日を浴びながら、紙袋を抱えた女性の背中で一つに編んだおさげが揺れた。紙袋には広場に面したベーカリーのロゴが印刷されており、焼きたてパンが香ばしい。美しい女性だが続服の袖を腰の高さで結び、黒い半袖のTシャツを合わせただけの飾り気のない恰好をしている。足元も合成樹脂のサンダルでイーストベリーというよりは工事現場のほうが合う。

 彼女は紛れもなくイーストベリーの住人であった。地域住民との交流はほとんどない。買い物や気晴らしで出歩くほかは、ボイセン通りの邸宅で閉鎖的な生活を送っている。

 彼女は散歩を兼ねたベーカリーでの買い物を済ませて邸宅に戻ると、郵便受けを開けて手を止めた。

 出掛けの際にはチラシやはがきが届いていたはずなのに、空になっている。

「……」

 オートロックの門をカードキーで開ける。彼女はちらりと門に取り付けた監視カメラに目線を向けた。正常に作動していれば通行者を記録しているはずである。

 門から玄関まではコンクリート舗装された小路が伸びている。その先にそびえる幾何学的なシルエットの邸宅は壁面がガラスとコンクリートで覆われており、派手な豪邸というよりは無機質な機能美を追求した近代美術館だ。

 玄関口にはガラス棚があり、トロフィーや賞状が無造作に並べられている。彼女はガラス棚を通り過ぎてリビングの机の上に紙袋を置いた。

 朝食に合わせてコーヒーでも入れようかとキッチンに足を向けたところで、彼女の背後からするりと手が伸びた。

「——ねえダーシャ、私の分もある?」

 伸びた手は紙袋を開けて、中のパンを物色する。

 朝一番の電車でイーストベリーに来ると聞いてはいたものの、思っていたより随分早い。流石GDCのニュースキャスターである。夜型のダーシャとは正反対だ。

「四つ買ったから好きに選べよ。ブラックでいいか?」

 尋ねると、アリシアの頬が緩んだ。嬉しそうにパンを選んでいる。

「ミルクを入れて欲しい」

「了解」

 ドリップ式のコーヒーメーカーに任せて、ダーシャはカップの準備をする。パンは焼きたてなのでトースターで温めなおす必要もないだろう。

 二つのカップにミルクを入れていると、すぐ隣にアリシアが並んだ。ダーシャの長いおさげをじっと見ている。

「染め直した?」

 疑問形だったが、確信を持っているようだった。ダーシャの髪は脱色してクリーム色に近く、毛先にかけて赤紫色に染めている。些細な髪色もアリシアはすぐに気付く。

「ああ、AIブルーバックの試運転がひと段落して時間もできたしな。……イーストベリーの美容院、閉店時間早すぎなんだよ」

「ダーシャが昼夜逆転してるだけでしょー」

「お互い様だろ」

 アリシアだって十分異常だ。朝三時出社なんて、ダーシャには意味が分からない。

 話している間に、音を立ててコーヒーメーカーのサーバーが満たされた。湯気と共に広がる香りに気が安らぐ。カップに注いでキッチンカウンターに乗せると、アリシアが机に並べた。

 久しぶりに他人と朝食をとる。アリシア用に買ったベーグルはちゃんとアリシアの皿に確保されていて、ダーシャは、ふ、と笑い自分のチョコクロワッサンに噛り付いた。今日もサクサクで美味しい。

 対面に座るアリシアはベーグルにもコーヒーにも手を付けず、神妙な顔をしている。そして、真正面から頭を下げた。

「……ひと段落したばかりなのにごめんなさい」

 夏空のように澄んだアリシアの青い瞳に影が落ちる。テーブルの上で揃えた指先はダーシャの許しを待っている。ダーシャは何一つ気にしてないのに。

「謝るようなことじゃないだろ。ほら、食べて元気出せよ」

「うん……」

 しゅん、としょぼくれたまま、アリシアはベーグルを口に運んだ。今日はブルーベリーのベーグルで、少し表情が明るくなる。精神を回復させるにあたって美味しい食事は非常に有効である。

 アリシアが落ち込んでいる原因は、床に置かれた鞄の中身にある。

 行儀が悪いのは重々承知の上で、ダーシャは鞄のジッパーを開けた。

「おーおー、ひどい傷だねえ」

 鞄の中身は、昨晩破損したCT-8改である。機体の外面は割れて中の配線や回路がむき出しになっている。7・62mmの弾丸がどこまで食い込んでいるのかは分解しないと分からない。

「CPU付近もバキバキに割れてるし……復旧は厳しいだろうな」

「私をね、庇ったの。撤収ルートを先回りされてたんだと思う。銃声がして、振り向いたら……」

 概要はダーシャも知っている。ダズリン埠頭への侵入時、ダーシャはブートとしてアリシアと通信を繋げていた。ALEXの取引情報を手に入れ、商品が保管されている二十七番倉庫に向かったのだが、アリシアが到着したとき倉庫はすでにもぬけの殻だった。そして、おびき寄せられた可能性に思い至った瞬間、銃声と共に通信が途切れたのである。

 指先が凍り、生きた心地がしなかった。アリシアから連絡をもらったとき、どれほど安心したことか。

「庇った、か……AIにしちゃ上出来だ」

「撃たれてよかったみたいな言い方するじゃない」

「そう言ってる。撃たれたのがアリシアじゃなくてよかった」

「……でも、この子頑張ってたの」

「……」

 ダーシャは驚いてパチパチと瞬きをした。

 もう情を移したのか。

 AIはAIだ。間違っても人間ではない。アリシアをサポートするように教育し、だからこそ射線に躍り出た。そもそもCT-8改は予備品含めて三台を交代で使用しているのであって、代替可能である時点で、その辺の家電と何も変わらない。

「馬鹿だな。アタシがちゃんと直してやるよ」

「そう……そう、よね! さすが私のブートだわ!」

 アリシアの顔がパッと輝いたのをみて、僅かな優越感を抱く。やっと元気が出てきたようで、ベーグルをもぐもぐと食べ始めた。アリシアはこうでなくては。

 この広い邸宅のダイニングテーブルは、アリシアが帰ってくると華やぐ。姿勢を正して食事をしているアリシアは邸宅によく調和していた。対してダーシャは態度が悪く、膝を立てて座っている。作業服も、機械を触るには丁度いいが片面ガラス張りの広々としたダイニングには合わない。

 ポートレイ家の邸宅は居候のダーシャ一人で暮らすには広すぎる。主人が不在だからなのかどこか侘しく、こうしてアリシアが帰省した時だけ本来の明るい邸宅の姿を取り戻すのだ。

 ダーシャは片手でチョコクロワッサンを頬張りながら、もう片方の手でテーブルのタブレット端末を操作した。邸宅内のあらゆる機械がタブレットからアクセスできるようになっており、いくつかの項目を開いたのちにポップアップが立ち上がった。

「……何してるの?」

 不思議そうにタブレットを覗き込んだアリシアの目の前で、あるプログラムを起動ブートする。指先一つでできる楽な作業だ。

「なに、また何か作ったの?」

「いやこれはただの動作確認」

 呟くと同時にアリシアの携帯が震える。二回、一回。そして三回、一回。通信上の安全が確保された場合にのみ起動する通信システムだ。

 間もなく、リビングに一台のドローンが姿を現した。ホバー走行は滑らかかつ静かで、楕円形のフォルムは内側に荷物やアームを搭載可能な人気のモデルだ。汎用ドローンを改造して制作したCT-8改の予備品である。

「AIブルーバックは搭載してないけど走行は問題なさそうだな。まあ使えるだろ」

 地下の作業場からリビングまでではあるが、エラーもなかった。先日のK&K本社ビル侵入の際に使用していた機体で、走行が不安定になっていたのを修理したばかりだ。

「修理が間に合わなかったら、こいつを稼働しよう」

 ぺしぺしとCT-8改の機体を軽く叩く。過激な活動において予備品はいつでも大活躍だ。

 アリシアはベーグルをくわえたまま、目を丸くした。

「もう次の予定があるの?」

「来週末にな」

「……」

 口を引き結ぶ姿に、微かな不満を感じ取る。AIブルーバックからの報告によれば、フリーマーケットではデートの邪魔をされて任務を渋ったらしい。

 プライベートとの両立は結構。ダーシャからは上手くやってくれとしか言えない。ただ、熱を上げているマークがどんないい男だろうと、最優先事項になることは叶わない。

 ——これまでの恋人と同じように。

「普通の恋愛は諦めな。ヒーローの宿命ってやつだよ」

「わかってる……あと、私はヒーローじゃない」

「じゃあ、犯罪者ウィークエンドでもいいけど」

 む、とアリシアが口を尖らせた。

 ダーシャにとって悪を挫くアリシアはヒーローそのものである。都市伝説は事実であり、正義を貫く様を美しいとさえ感じる。しかしアリシアはヒーローと呼ばれることを好まない。かといって、警察における呼称“ウィークエンド”もお気に召さないらしい。では何者なのかという問いに正答はなく、ダーシャならばヒーローだと答える。

 残念ながら、ヒーローが楽しく自由にデートできるほどセントポールは平和な場所ではないのだ。侵入した二十七番倉庫を利用していたALEXは大規模な密輸業者で、脱税で莫大な利益を上げるほか薬物にも手を出している。警察の手を逃れ続け、今や人身売買も行う業者に成長した。

「やっとつかんだALEXの尻尾だ。逃せない」

「……そうね」

「それに今回、K&Kの時と手口が同じだっただろ」

 どちらも有益なデータを保有しておらず、撤退の際に狙撃されている。使用していた警備ドローンの誤作動として処理されたところも同じだ。

「それよそれ。ねえ、私ALEXとK&Kは別の案件だと思ってたんだけど」

「元々は、な。今は違う」

 ダーシャが呟くと、アリシアはヒーローの顔に切り替わっていた。

「アリシアがK&Kから持ち帰ったデータのおかげだよ」

 ダーシャは食べ終えたチョコクロワッサンの包み紙を丸めてゴミ箱に投げ入れた。

 K&Kの複製データに不審な点はなかった。しかし解析を進めていく中で、取引先に例えばチャーリーシューズのようなK&K社と関連が低い業種の社名がいくつか含まれていることが明らかになったのだ。

 また、K&K社の削除データを復旧すると、復旧したデータにはそれらの会社との取引データが含まれていた——つまり、取引データが削除されていたことになる。一連の会社の共通点はALEXが関わる架空の会社だということと、ダズリン埠頭の二十七番倉庫を利用しているということだった。

「でもK&Kって製薬会社でしょ? 順当に考えれば密売して関税を利益にするんだろうけど、製薬会社なんて絶対足がつくじゃない。密輸業者と組む利益があるとは思えないわ」

 実際、K&K社の経営関係は前回の侵入の際に一通り洗ったが、特に問題はなかった。次々開発される新製品で順当に売り上げを伸ばしている企業だ。

「だからK&K本社ビルにもう一回侵入すんだよ」

「それが来週ってこと」

 返事の代わりにダーシャは指を鳴らした。

 ALEXが隠れ蓑にしていた架空会社とK&K社との取引データを復旧することはできたが、その中に違法な物品は含まれていなかった。まだK&K社の悪事を暴くこともALEXの本体に辿り着くこともできていないのだ。

 データ解析によってK&K本社ビルにはもう一つセキュリティルームが存在することが明らかになっている。次回の侵入ではそちらを狙う。

 でも、とアリシアは眉を寄せた。

「そんな場所どこにあるのよ。前回侵入したときはなかったわよね」

「事前に入手した資料ではなかったな。セキュリティルームがあるのはK&K本社ビルの地下……基礎構造物があるはずの場所だ」

「……あやしいって教えてくれてるようなものね」

「ああ、いずれは警察も辿り着く」

 優秀なBIUの面々は、こちらがある程度材料を揃えてやれば必ず検挙に持ち込むだろう。その点でダーシャは彼らを信頼していると言っていい。

 ダーシャが口に残るチョコの甘さをコーヒーで喉に流し込むと、アリシアの携帯端末が鳴った。短い通知音はメールかSNSのメッセージだ。アリシアは画面を確認すると、ぱっと顔を明るくした。

「マークからだわ……っうそ、デートのお誘いよ! 今日、この後!」

「げえ、毎日連絡してくんのかよ。だっる……」

 昨日もデートだったのではなかったのか。

 ダーシャは鼻にしわを寄せた。わざわざ都合を合わせて折角の空き時間をデートで埋めるなんて胸やけがしそうだ。深い仲でもないのだし、疲れるだけのように思える。

 そんなうんざりした反応もアリシアの目には映っていなかった。根本的にダーシャとは価値観が違うのである。

 アリシアは眉を下げて、ダーシャに縋った。

「どうしよう!」

「行けばいいんじゃないか」

 何を迷うことがあるのだろうか。

 ダーシャの淡々とした反応に、アリシアは頬を膨らませる。

「今日の服はデート用じゃないの!」

「……く、……」

 くだらねえ、と呟きたかったがぐっと我慢した。

 結局のところ、ダーシャは彼女が素直に感情を表す様も好ましいのだった。

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