第8話 庭師
――こんなところ来るんじゃなかった。
唯一の所持品として残った鍵をぎゅっと握り締めて、少女は心の中で呟く。
この未踏の迷宮に逃げ込んでしまったことがどれほど一時の感情に流された行動であったのかを身をもって知って彼女は酷く悔やんでいた。
どれほどの時間が経ったのか、どれほど奥地まで進んでしまったのかもう分からない。
少女にとってあの居心地が悪かった家や学校が今では恋しく思えるほど、彼女の身も心も憔悴しきっていた。
「やだ、また来た……」
近づいてくる何者かの気配を感じ取って、少女――
こうしてやり過ごすのも何度繰り返しただろうか。この奇妙な世界の中で点在する歪な建造物の影が彼女の居場所だった。
荻野美郷、十六歳。
天生村の荻野家の一人娘として生を受け、今日までこの村で育つ。
村立の小中学校を卒業後、隣町の高校へと進学。天生村の子供としては特に珍しくもない経歴だ。
特筆すべきなのは彼女が持つ特殊な能力であろうか。
「少し前までは村の子らしい元気な子だった」とは近所の住人の談。
「ちょっと変わってるけど悪いやつじゃない」とは村の幼馴染たちの弁明。
「気持ち悪い」という高校の同級生の無情な一言。
容姿が醜いというわけではない。生まれ育った故郷を出て、ちょうど多感な時期であった彼女はむしろ他人の内面に蔓延る醜悪さに触れてしまったのだ。
きっかけはなんでもない一言だった。
高校の友達が裏でしていることを『読み取って』注意した。これまで村の幼馴染の喧嘩の間に入って止めてきたように、彼女にとってはただそれだけのことだった。
その時初めて、「気持ち悪い」と言われた。そうして初めて、ドロドロした人の心の中に深く入り込めることに気付いてしまった。
故郷の人々とは家族同然に接してきたからこそ、人にはこんなにもひたむきに隠したいことがあること、そしてその心の『禁域』とも言える場所に踏み込めることを彼女は初めて知ってしまったのだ。
それからというもの、少女の『心を読む能力』は暴走し始めた。
心を読もうとしなくても周囲にいる人の考えが頭の中に流れ込んでくるようになった。
時には読み取った事実と被虐的な妄想の区別がつかないことさえあった。
高校にも行かなくなり、家に引きこもるようになり、たまに訪れる幼馴染たちにさえも怯える日々。
そんな少女がこの場所に逃げ込んだのは、決して越えてはならないと抑えていた一線を越えてしまったから――唯一の居場所で接さざるを得ない家族の心の奥底を読んでしまったからであった。
「捨ててしまえ」という祖父の無情な言葉。
これが耳で聞いた声か心から読んだ思念か、はたまた真実なのか空想なのか、今となっては少女にも分からない。
幼い頃に人のいない場所と聞いていた少女にとって、【禁域】は理想郷にも思えた。
実際に立ち入って引き返す道を閉ざされたとき、彼女はより残酷な現実を目にすることとなったのだが。
「どうして……なんで私だけ……」
膝を抱えて、眼前のステータス表示に目を伏せる。
固有スキルに表示される〈読心〉と『歩き巫女』の職業スキルにある〈敵意察知〉。
忌まわしい自身の能力によって、皮肉にも彼女は此処まで生き残ることが出来ていた。
〈読心〉によって近くの魔物の行動を読み、〈敵意察知〉で〈読心〉の範囲外の敵をも避けていく。
彼女が同じの場所で隠れ続けないのは、そうしていると敵の数が増えすぎていずれ見つかってしまうからだ。階に留まり続けられないことを冒険者ではない彼女が理解出来ていたのは、ダンジョンの中で発現した〈敵意察知〉のおかげであった。
とはいえ、ダンジョンの中を進むなど引率者付きの修学旅行以来の荻野。
まさかスキルによって察知できない存在がダンジョンにいるとは考えもしなかった。
「そこの方、そこの方」
と、低い声が掛かって向いた方には老いた小人。足音も気配もなく、それはいつの間にか荻野の傍らに立っていた。
その身丈は幼い子供ほどで、身に纏う小汚い白装束の合間からは皺が深々と刻まれた肌が覗いている。
「ひっ――――!」
「どうかお静かに。周りの鬼どもに気付かれてしまいますが故」
取り乱す少女を宥めるように優しい口調で語る小人。
荻野から見れば小人の容姿こそ魔物だったが、その言動は人のようだった。
「だ、だれ……?」
「わたくしは此処で庭師をしておる者です。貴女は旅のお方ですかな?」
「私は……その……出られなくて……」
「ああ、迷い人でしたか。この尊きお方の御庭を出られない、と」
小人はにっこりと荻野に笑いかける。
「良いでしょう。貴女が此処から出られるよう手引きいたしましょう」
「……えっ、本当ですか?」
「ええ。ですがその前に、少しお手をお借りしたいのです。仔細は歩きながらお話いたしましょう。ご同行願えますかな?」
「わっ、わかりました」
と、二つ返事で了承する荻野。
蜘蛛の糸に縋るような今の彼女には小人の提案を断ることなど出来なかった。
「よろしい。では、参りましょう」
小人が歩み始めると、その足元の周りが泥のように沈んでゆく。
かの者が一歩、また一歩と進むたびにそれは段となり、歩みは階段となり、下へ下へと続く道となった。
辺りの建造物や木々が捻じれては歪み、屋根は足場となり、木の幹は壁面を支える根となり、段々と形成されていく螺旋状の下り階段。
眼前の異常な光景に荻野は言葉を失う。
――この人は人間じゃない。
荻野は今更になって確信に至る。
「そこの方、どうされましたか?」
よく透る声が地下から響き、荻野は正気に戻る。
気付けば小人は随分下の方を歩いていて、荻野は慌てて階段を下っていく。
「……あの、何者……なんですか?」
息も切れ切れになりながらもようやく追いつき、荻野は呼吸を整えたあと訊いた。
「先程申し上げた通りでございます。わたくしは一介の庭師――その昔は『スクナ』などと呼ばれておりました」
その時、ずんと辺り一帯に鳴る鈍い音。荻野も度々感じていた地鳴りだった。
「――近頃は御庭を荒らさんとする不届き者が多い故、大変困っておりますな」
「えっと……私がやらなくちゃいけないことって……」
「御庭の御手入れではございません。前栽に宿りし御魂をお守りするのはわたくしの使命です。他方で人にしか為せぬこともあります」
小人がそう言ったとき、目の前がぱっと明るくなる。
一帯に広がるのは広大な庭。これまでの階と違うのはそこに橋はなく全てがひと繋ぎの大部屋のような形となっていたことだった。
「おや、もう着いてしまいました。あちらをご覧いただけますかな?」
と促されて、荻野がそちらを見やればちょうど庭の中央に巨大な本殿が建っているのが確認できた。
本殿の入り口にはこれまで散々と見た木々が絡みついており、それは人の何倍もの体躯はあろう人型を形作っているように見える。
「さて、お願いしたいことというのは、他でもない御庭に巣食うこの『鬼』のこと。あれを殺していただきたいのです」
「……えっ?」
殺す。荻野はその言葉に耳を疑う。
彼女はそこでようやく気付く。この場所を出たいという一心でついて来てしまったばかり、これまで抱きもしなかった違和感。
――心が読めるはずの自分が、どうして他者からの言葉に驚いてしまうのだろうか、と。
意識して小人の心を覗き込んでも、荻野に見えるものも聞こえるものもなにもなく、まるでがらんどうのよう。
「あれの名は『
一切の淀みなく、小人は告げる。
「――討って、いただけませぬかな。七儺を」
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