しあわせにならないで

@aboutkdyla_

第1話

春になったら、僕と鴨川入水でもしよう。

 小宮の、男の子のわりに繊細な字でしたためられたその言葉を頼りに、桜が咲くまで生きてきたのに。君と死ぬことだけが私の希望だったのに。小宮からの手紙は、それを最後に途絶えてしまった。

 

 小宮透との文通が始まったのは、高校三年の夏だった。受験一色に染まったクラスに耐えかねて、夏季補習のなか私は逃げるように美術準備室に通った。現役で美術部員だったころよりも頻繁に現れる私を見て、顧問の顔に苦笑いが浮かぶ。クーラーが効かない、じっとりと蒸し暑いその部屋で絵を描き続けた。絵は自分の心の中身をさらけ出せるから好きだ。色は、自分の思いのままに何色にもなるから好きだ。死にたくても、絵はそれを昇華させてくれる。血を吐く美しい女の心臓から大きく生えた桜の木の絵。神経を注いで向き合っていた私は、開けっ放しにした入口にクラスメイトがいることに気付かなかった。

「なに、描いてるの」

 ぎょっとして振り返ると、そこには缶コーヒーと、エナジードリンクを抱えた小宮がいた。

「飲み物、どっちがいい」

「悪いけど、どっちも好きじゃない」

 わがままだな、と小宮がゆるく微笑んだ。かわいげのない、不遜な態度が受け入れられると思わず面食らっていると、丸椅子を引きずって隣に腰を下ろしてくる。慌てて筆をパレットに置く。描きかけの私の絵をじっと見つめている横顔からは何も読み取れない。どちらからしゃべるわけでもなく、窓から流れ込む生ぬるい風がカーテンを揺らすだけの時間。私の絵をまじまじと見て、気持ち悪いと思っているのだろう。私の心の中を覗き見ておいて、自分は何もさらけ出さないなんて卑怯だ。そんなことを思いつつ、耐えかねて悪態をつこうとした瞬間。

「梶井基次郎?」

 そう、小宮が口を開いた。梶井基次郎の短編をもとに絵を描いていることを、クラスメイトに言い当てられるとは思っていなかった。うん、と小さくうなずくと、満足そうにしていた。

「いい絵を描くんだなって、前から思ってたよ。タイトルは忘れちゃったけど、去年の文化祭に出してた、鎖で縛られた眼球の絵とかさ」

「怖いとか気持ち悪いとか、思わないの」

 小宮はまさか、と首を横に振った。

「なんとなく同じ感じがしたんだ、俺と」

 同じ。

 その言葉の意味を考えると、自分の眉間にしわが寄るのが分かった。どこが、どこまでが同じなのだろう。文学が好きなこと? 絵の趣味が少々気味悪いこと? それとも、もっと根幹の、世界に絶望して、死にたがっていること?

「どういう意味」

 うーん、と小宮が首をひねる。

「うまく言えないけど」

「わかんないんじゃん」

「そうじゃなくて。うまく言えないから、文章にしたい。僕は手紙で、書いてくるよ」 

 

 それから私たちは、クラスで会話はしなくとも三日に一度は手紙をお互いの机にしのばせ、文通をするようになった。思っていたより小宮はまじめで、たいていのことは卒なくこなした。でも私と同じくいつも何かに絶望しているようなところがあって、気が合った。高校を卒業して、小宮は京都の大学、私は東京の美術大学に行っても、文通は続いた。電話番号もLINEも知らなかったけれど、引っ越し先の住所だけは知っていた。私たちは友達より深く、恋人よりも淡泊な関係だった。

 大学四年になって、手紙の数は一気に少なくなった。卒論や就活で忙しいだろうと、不思議に思うこともなかった。急かす必要もなかったので気にしていないつもりだった。年末に来た手紙には、早々と卒論を終わらせたとつづってあった。春からは院に進むらしい。もしかしたら京都で恋人ができたのかもしれない。一方で私は、絶望から抜け出せない生活を続けていた。二月に届いた手紙は、寒いと不安定になる私を案じてか、春になったら、僕と鴨川入水でもしよう、という言葉で締められていた。寒いベランダで煙草を吸いながら読んだ手紙に、灰と涙が落ちた。

 あたたかくなって、桜のつぼみがほころんできたころ、私は京都にいた。小宮がいるこの土地を踏むのは、最初で最後かもしれない、と思いながら。すっかり桜を見る人もいなくなった深夜、鴨川にひとり。

 

小宮、どこにいるの。約束の鴨川に来たよ。鴨川って思ったよりきれいじゃないんだね。ねえ、桜が咲いてる。覚えてる?桜の木の下には死体が埋まってること。鴨川に二人で入ろうって言ってたのに、私だけ先に来ちゃったみたい。暖かいのに、水はまだ冷たいよ。小宮、置いていかないで。私を置いて幸せにならないで。早く迎えに来て、こっちまで。

 

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