第3話

「だって、呼ばれ慣れておいた方がいいでしょ。だから、センセ」

 武永はそう言い切って、また体を突っ伏した。

「センセ、翻訳」

「……貴方に先生と呼ばれる筋合いはない、せめて主人と呼びなさい」

「じゃあご主人様、お願い」

「彼女にまともな説明を期待しても無駄です。武永には武永新にしかない哲学があります」

「自分で聞けって言ったのあんたじゃん」

 呆れたように首を落とす彼にも、教室の面々は漸く慣れ始めたようだった。成績はともかく態度は優等生、強いて言えば体育だけさぼり気味。よくいる生徒そのものであり、不良の王だのなんだのからは日々遠ざかっていた。非日常であれ、人間は慣れる生き物である。

「そういや、高柳は喧嘩しなくていいの。不良のトップなんでしょ」

 いつの間にか顔を上げて、武永が不思議そうに高い位置にある頭を見る。

「何だよそれ、いつの話だよ。別に他の奴らと親しいわけでもないし、そもそも最近喧嘩もしてないから他校の奴らももう忘れてると思うぜ。とっくに違う奴が台頭してるんじゃねえの」

「へえ、情報古いんだ」

「この学校に本気で不良やるような奴なんて居ないからな。一人歩きしてるんだよ、噂が」

「普通の人しかいないからね」

「お前は普通のやつじゃないだろ?」

 眠たげな目が、ぱちりと瞬く。

「見てりゃわかる。敵に回したくないタイプだ」

「体格違いすぎるでしょ、まともにやれば負けるよ」

 一瞬、視線が交錯する。

「……まあ、喧嘩辞めたんなら関係ないか」

「そうだな。売られた喧嘩は買う主義だが、売るような奴もいなくなっちまった」

 唇の片端が僅かに上げて、高柳はそう言った。

「ならさ、何腑抜けてるんだ積年の恨みだーって押しかけてくる人いないの?」

「いないだろ。世代交代ばっかだぜこんなん。古い奴なんてすぐ忘れられる」

「まあね。人間は忘れやすいよね」

 そんな調子でにこにこと交わされる会話を聞き流しながら、今日も平凡な一日だと息を吐いていた朝。授業が終わって、少し高柳の質問に答えて、のんびりと雲ひとつない青空の下の帰っていた筈だった。

「お前、高柳圭の連れだって?」

 ないない、と笑いながら呑気手を振っていた様を思い起こしながら、嘘つきだと脳内で罵った。学校中に噂が広がるのはまあ心情はどうあれ想定内、他校まで影響が及ぶとは聞いていない。見覚えのない制服を雑に着こなした三人の男は、高柳とそう変わらない身長をして私を取り囲んだ。檻に入れられた鶏の気分である。広い肩幅とワイシャツの上からでもわかる鍛え上げられた筋肉。捲られた腕など自分の足程はあるのではないかと言うくらいに太い。あれで掴まれれば折れてしまいそうだ。

 違う、と言えば解放されるかもしれないが、実際は確信を持ちながら声をかけてきた場合が始末に負えない。それに、彼に手を貸すと決めたのも、それによって生じた責任を取ると決めたのも自分自身だ。他の誰がどう考えようとも、自分の意思に嘘をつくわけにはいかない。

 一度、息を吐く。中央にいる険しい顔をした男の、目をしっかり見つめる。

「はい。高柳圭に、何か用ですか」

 私のもの。私が助けた彼を、傷つけることは許さない。その力が無くても、去勢くらいいくらでも張ってやる。

「そうか。なら面貸せよ」


 そんな剣呑な始まりから、まさか連れてこられたのがチェーン店のファミレスだとは思いもしなかったし、そこで存在すら知らなかった人とあった。

 柄の悪い三人の男が腰を九十度下げて挨拶を始めた時、この日これ以上驚くことはないと呑気に思っていた。

 彼らと別れ、来た道を戻る。夕焼けはまだ沈みきっておらず、赤い夕闇が不気味に道にかかっていた。

 肝試しをするには早いだろうか。いや、丑三つ時より逢魔時の方が恐ろしいと人は感じるのかもしれない。センセはどっちも怖くなさそうだよね、といつか武永は言っていた。攻撃が通じるなら怖くないのにな、と笑っていたことを思い出す。

 旧校舎は静まりかえっていたが、ある種の確信を持って足を進める。ぎしりぎしりと床が軋む音だけが響く。建物の電気はとうの昔に止まっているから、窓からの赤い光だけが頼りだ。それでも何度も来た道だ、迷うことはなかった。

 真っ直ぐと、躊躇いなく、がらがらと扉を開けた。

「よお、ご主人様」

 まるで自分が此処に来るのを知っていたように、高柳圭はそこにいた。窓際に寄りかかって座り込み、長い足を投げ出している。少し長い黒髪は赤い光を反射して光り、逆光になって表情は見えない。ただ、油断なく細められた眼の鋭さだけがわかった。

「……高柳瑠衣さんに会いました」

「へえ」

 声の調子は変わらない。影になった顔は、何を映しているのだろうか。

「私は、臆病だった。貴方の全ての責任を取ろうと、その難しさを知らなかった。だから、貴方の口から聞くべきだったと、後悔しました」

 ファミレスが似合わない少女だった。所謂お嬢様学校のセーラー服、綺麗に整えられた艶のある黒髪。名前を聞かなければ類似点すら見つけられないほど、宝物のような存在感があった。

 目尻が少し上がった猫目であることだけ、名を聞いて漸く気がついたのだった。

 兄のことを教えて欲しいと。

「良い子でしたね。兄弟はいないものと思っていました」

 兄弟のいない自分では感覚がわからないが、誰か自分を気にかけてくれる身内なんて存在だけでも珍しい。ましては、ここ数年話していないと語ったことが真実なら、尚更。

「血繋がってないみたいだろ。優秀なんだよ、あいつは」

「いや、顔は似てましたよ」

「あんたわかってて言ってるな?」

 黙秘で答えると、かか、と彼は笑った。

「じゃあ、中身はまるっきり逆だっただろ? 可愛がられて育ったからなあ」

 手入れの行き届きた髪も、皺ひとつない制服も、目をかけられていると悟るには十分だった。少なくとも見える限りでは、大切にされている。

「貴方は可愛がられなかったんですか」

「さあな。愛の反対は無関心って奴、知ってる?」

「そして人生の反対は死ではなく、生と死のともつかないそれである」

 これどう訳すの、と武永が聞いてきたことを思い出す。無関心、無感情、なら私は生きているのかな、死んでいるのかな。そう淡々と言って、彼女はいつものように机で寝に行った。あの時の表情が、妙に印象に残っている。

「貴方も、そうですね。私と同じだ」

「同じじゃねえよ」

 唸るように彼はそう言った。肉食獣のように、歯を剥き出しにして笑う。

「……はい。前者はそうでしょう。貴方は、妹から思われている」

 喧嘩ばかりに明け暮れる彼に、両親は放っておけとだけ口にすると少女は不安そうに言っていた。

 少なくとも、彼のことを思う人はいる。妹と、私を呼んだ三人の男だ。中学の頃の先輩だと名乗った彼らは、皆一様に角刈りの頭だった。

「私が言ったのは後者です。生きる意味を失い、死を求めることもなくただ変わらずにいる。無気力とも、無関心とも、どう訳しても構わないでしょう」

 彼の名を、不良の王だと持て囃されたその名は、全く違う場所で轟く筈だった。

「貴方は、目標を見失ったのですよね」

 中学で野球部に入った彼はめきめきと頭角を現し、他学年からも一目置かれる程だった。真摯に練習に取り組み目上には礼儀正しく、実力を驕ることは決してない。いつかスカウトが貰えるのではないかと、上級生から期待を込めて大切にされていたそうだった。野球を離れて三年になる今でも、噂を聞きつけて私に辿り着くほどに。

 高柳圭が野球を辞めたのは、ある練習試合の日。投手の球が、彼の肩に当たった。死球である。あの雨の中見た、ひとつだけあった古い縫われた傷跡だ。故意ではなく、たまたまコントロールが上手くいかなかっただけだったそうだ。すぐに病院で処置を受けたが、受けた位置が悪く完治の可能性はないと断定された。

 この話に、悪人はいない。強いて言えば、運が悪かっただけ。そんな一言で片付けられる不幸な事故が、彼の人生を決定した。

「なあ、俺はどうすればよかった」

 高柳が下を向いて呟いた。

「誰も悪くない、誰も責められない。同情も憐憫も、されたところでこの肩は戻らない。この思いを、ぶつける場所が無かった。だから人を殴った。痛みを受けている間は、全てを忘れられたから。それすら慣れてしまえば何にも感じなくなった。何もかもがどうでもよくなった」

 悪人がいないと、理解をしたところで苦しみは無くならない。かつて抱いた情熱を、ある日突然捨てろと言われて納得なんて出来るはずもない。意図がないから、謝罪を受けても空虚なだけだ。

「……なら、何故反撃しなかったのですか」

 高柳を見つけたあの日、握られた手のひらに血の痕はなかった。あらゆる傷に抵抗をした形跡がなく、辺りには人一人立っていなかった。

「誰も悪くないなら、貴方だって悪くはないんだ」

 彼の先輩が言うことには、とある元野球部の面々が、集団で高柳を襲ったという噂が流れたらしい。かつて天才とまで呼ばれた彼に負かされた選手は少なくない。彼に負けて選手を辞めた彼らが、不良となった高柳の話を聞きつけ、人を集めて行動に移した。それだけの才能を持ちながら、自分達を無価値だと思い知らせておきながら、何故彼は野球をやっていない、と。

 まごうことなき逆恨みであり、正当性も何もない行動である。彼が傷つく必要はなかった。

 拳を握り、彼の目を見る。

「……俺は、感情の行き場が欲しかった。あいつらもそうだ。仕方なかったと、理由がなければ納得できない。それが正しいか正しくないかじゃない、結局感情が納得しなけりゃそれまでなんだ。俺はそれを今まで他人に押し付けてきた。それくらいの報いは当然だろ」

 何もかも失って、その上不当な暴力まで受けて。それなのに彼は笑っていた。全てを諦めたように、口の端が上がっていた。

「瑠衣さんも、佐々木さんも島田さんも相田さんも、皆貴方を心配していました。貴方のことを思っていました。貴方が、貴方を大切にしなくてどうするんですか」

 かか、と彼が口を開けて笑う。

「なあ、あんたがそれを言えるのか。下村玲」

 その目は、逃がさないとばかりにはっきり見開かれている。

「あんたはどうなんだ。あんたを思う人もいるだろう。目標だってあるだろう。なのに、何故、自分を軽視する」

「言ったでしょう。貴方と同じ、無感情ですよ」

「ほら、話せないんだろ。改めて聞こうか。何であの日、俺を助けた」

 誰も入らないような路地裏、全てを覆い隠すような雨。必死に覚えた応急処置が、手の届くところにあったから。それが高柳圭だとは、終わるまで気が付かなかった。

「私の自己満足です」

 自己欺瞞。あの日あの時、助けられなかった命を、彼を助ければ何かが変わると思った。死んだように生きる日々が、人を救えれば、その命を完遂させられればきっと変わるのだと、そう信じてしまった。

 それなのにまた間違えた。彼の過去を知ったところで何も出来ない、理解することさえ叶わない。外野が何を知っても、それを経験して何を感じたかの実在は当人しか知り得ない。本当の意味で理解することはない。

 何が主人だ。結局、私は、自分のエゴを押し付けただけの偽物だった。

「ただ、わたしは、自分が、じぶんのためだけ、に」

「おい、ご主人……センセ? ……ちょっと、こっち。座りなよ」

 高柳は困ったように眉を下げ、横の床をぽんぽんと叩き、戯けたような高い声を出した。返事をしようとして息が上手く吸えずに、初めて自分が涙を流していたことに気がついた。


 窓の外は、気がついたら青い闇に染まっている。窓際を照らす月明かりに照らされて、忙しなく目を動かす高柳の表情が浮かび上がっている。

「ティッシュとかいる? あ、俺持ってなかった」

「持っているので、平気です」

 鞄の中からティッシュを取り出し、眼鏡に付いた水滴を拭う。こちらを気遣う様子にふ、と息を漏らし、それからゆっくりと吐いた。どのような形であれ、彼の過去を聞いたのだ。その対価は、支払うべきだろう。

「私の母は、看護師でした」

 よく笑う人だった。私が幼い頃に父と離婚し、女手一つで育ててくれた。

 玲のことは、お母さんが最後まで責任持って育てるからね。

 仕事で家を開けることも多かったが、不思議と寂しくはなかった。怪我をした時には、常備してある救急箱で優しく手当をしてくれた。母のような看護師になりたいと、そう思っていた。

「彼女が亡くなったのは、二年ほど前です。未成年者が飲酒運転する車に跳ねられてでした」

 夜勤で遅くなるから先に寝ていてくれと、そう朝聞いたことを今でもはっきり覚えている。言いつけを守って呑気に寝ている間に、彼女は車に跳ねられた。

「即死では無かったようです。ただ雨の降る深夜、辺りに人は誰も通り掛からなかった。跳ねた車は、止まらずそのまま通り過ぎた。もし、そこですぐに対処できていれば彼女は生きていたかもしれない」

 母に教えられて覚えた応急処置は、何の役にも立たなかった。

「この場合、悪いのは車の運転者でしょう。ですが彼らは法のもと正しく裁かれた。私はこの感情の置き場を失った」

 司法が何を説いたって、この喪失は誰にも埋められない。必然的にそれは内に向いた。何も出来なかった、無力な自分に。

「だから、医者を目指そうと思ったんです」

 勉強が好きだったことは一度もなく、中学時代の成績は中の中。母が亡くなった中学三年の春、既に決まっていた高校には、医者を目指そうだなんて人は誰一人おらず、適当な大学に行って適当に就職をしようという人間の集まりだった。周りからは奇異の目で見られる中、一人問題集を解いていた。

 その夢を笑わなかったのは、武永新だけだった。

 へえ、いいじゃん。

 そう淡々と彼女は言った。なら先生って呼ばれるの、慣れた方がいいよね、と。

 武永新は五歳から空手を始め、中学時代は将来有望な選手として多数の高校からスカウトがかかっていたらしい。だが父が病気で会社を辞め、貯蓄もない家の為アルバイトが出来るこの高校に来たのだった。

 夢を諦めた彼女と、馬鹿げた夢物語を追う自分。共にいるのが楽だった。夢を追っている間は、現実を忘れられた。

「貴方を助けたのは、母親と重ねたからです。貴方を助けられれば、何かが変わるかと思った。利己的で、つまらない理由ですよ」

 高柳圭はそれが暴力だった。武永新は消耗で、下村玲は夢だった。

「結果として、貴方を助けることは出来ませんでした。命を預かる重みを知るつもりで、知り得ない事象から目を逸らして。自己満足にすら、ならなかった」

「それは、俺が助けられたって思っててもか?」

 ずっと黙って聞いていた彼が、ゆっくりと口を開いた。静かな瞳と、視線がかち合う。

「俺は、自分がどうなってもよかった。こうなった自分に価値なんて無いと知っていた。それでも、あんたが言ったんだ。あんたが俺は下村玲のものだと決めたんだ。そう言ってくれたから、俺は生きようかと思えたんだよ」

「……優しいのですね」

「優しくねえよ。優しいのはあんただ。例えそれが俺の為の口実でも、俺はあんたのものと言われて嬉しかった」

 猫のような瞳が、すっと細まる。

「下村玲のことを知っていた。停滞しているこの空間の中で、唯一淡々と努力を続けるあんたを知ってたんだ。周りから一目置かれて、どう言われようと曲がることなくただひたすら机に向かっていた。何かを続けるって凄いことなんだぜ。似合わない勉強の真似事なんてやる気になったのも、あんたをなぞっただけだ。目標を失って、生きる意味さえわからなくなった俺にとって、下村玲は憧れだったんだ」

 彼の目が、星の光を受けてきらきらと輝く様を見て、息が上手く出来なくなった。

「私は、そんな立派な存在じゃ無い」

 高柳圭のことを知らなかった。周りの人間が騒ぎ立てる以上の情報を、彼の中の傷を知らなかった。

「いいや。凄いやつだよ。あんたに救われて、良かった」

 視界が滲んで、首を振ってから下を向いた。私がしたのは身体の傷の応急処置だけ。そこから立ち直ったのも、自分の傷を口にしたのも、高柳が持っていた強さでしか無い。

 それでも、初めて、認められた。

 あの日失った悲しみが、初めて報われたような気がした。

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