第2話
「よお、ご主人様」
お手本の様な笑みでそう言葉にした瞬間、教室の空気が凍りついた。
当て逃げの様に手当てをして絶対安静を言いつけて数週間、その間毎度昼休みに旧校舎に足を運んでいたが、彼は毎度そこにいた。碌に食べている様子を見せにない彼に食事を持っていくのが習慣化して、昔犬を拾ったことを思い出した。動物は専門ではないからと言いながらも、母は育て方をきちんと調べて里親を探してくれた。
どうやら私は育て方を失敗したらしい。
「おはようございます、高柳圭」
ため息を吐きながらそう返せば、教室は一気に騒めき始めた。
「うわ、高柳圭じゃん。初めて見た」
物珍しい動物を見た様に、教科書を開いていた武永が言う。彼女にしては珍しく、目を見開いていた。
「怪我の様子は」
「平気だって。あんたもわかってるだろ」
「ならば良いです」
外見だけでは怪我があったことすらわからない程度になっていたが、油断は禁物だ。彼は悪化しても素直に口には出さないだろう。私のものと口にしたからには責任は取る。
高柳は最後ににっこり笑ってから、教室の隅にある埃を被った席に座った。歩くたび人が避けていく様子はまるでモーセか何かの様である。聖人とは程遠い恐れられ具合だが。
「え、センセとどんな関係?」
「気になる?」
「そんなに」
それだけ言って彼女はまた机に戻って突っ伏した。社交辞令でも気を使ったわけでもなく、単なる思いつきで行動しただけなのだろう。誤解を解くべきかと思ったが、何が誤解なのかもわからなかったので、解いていた参考書に目を戻した。
クラス中の好奇の目は煩わしいが、その目が此処で勉強を頑張る異常者から高柳圭を飼っている異常者に変わっただけである。何も問題はない。
ここには優等生なんていない。いるのは不良と、野次馬と、変わり者だけだ。
途中で抜け出すやもと考えていたが、高柳は最後まで席に着いていた。その間に噂は学校中に回っていた。放課後、いつものように早々に教室を後にした武永の背中を見送った瞬間、後ろから声をかけられた。
「センセって呼ばれてるの、なんで?」
「武永に聞いてください」
「それもそうか」
肩までかかる黒髪と長身、前髪の間から見下ろす目は、よく見ると気を抜いた時の猫のようにぱっちりとしている。
「授業でわかんなかったこと教えてくんね」
教室で耳をそばだてていた生徒たちが一斉に周りと話し始めた。勉強どころか教室にすら碌に来ることのない存在である、当然だろう。
「いいですけど、自己流ですよ」
「……へえ、本当に優等生じゃないんだな」
机の上に残った参考書にちらりと目を向けてから、私の前にある武永の席に腰掛けた。
「じゃあ俺邪魔か?」
「いいえ、復習になりますし。それに、貴方が生きる責任は取ります」
ぱちり、と丸い目が瞬く。
「初めて言われたわ」
「そうですね。私も、初めて言いました」
自分にそう言った人間は、責任を取らずにいなくなってしまった。意趣返しのようなものに、赤の他人を巻き込んでいる。
ひとつひとつ、ほんのささいな疑問から答えていけば、気がつけば教室には誰もいなかった。グラウンドから運動部の声が聞こえる。バットがボールを打つ音、走る音。
ふと顔を見上げると、彼は窓の方を向いていた。差し込んだ西日が身体の片側を照らし、黒髪が光を受けてきらきらと輝く。伏せられた目は、どこか遠くを見るように外を眺めていた。
「……大丈夫ですか」
ふ、と目に光が宿って、一瞬だけ横目で笑う。体全体で座り直して、怪我が治りきっていない時のようにゆっくりと。
「大丈夫」
空には雲ひとつないのに、此処だけ雨が降っているようだった。手に傘はない。あるのはシャープペンシルだけだ。
「……聞いて欲しいですか」
この瞬間、私はただの卑怯者だった。
「いいや」
身体の怪我なら見えるから対処できる。見たことのない顔をした彼が、話したがらないこと知っていたからそう言った。高柳圭については何も知らない。不良の王とか呼ばれていて、校内で恐れられていて、その癖怪我を隠す所は猫のようで、人に頼ることが苦手な不器用者。そんな周りの勝手な妄言と自分の目で見ただけのことで、彼の人となりがわかるはずがない。人を目を通した時点で、その人が見る高柳圭となってしまう。そこに彼はいない。
迷子のような目をした、彼はいない。
「……優しいんだな、あんたは」
優しいから損をするんだ、と彼は呟いた。
叫び出したかった。否定がしたかった。そんな言葉をもらう資格など、とうの昔に失っている。
それなのに受け取ることも拒否することもしないまま、黙って唇を噛んでいた。
私は臆病者だった。
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