Indifferences

@noxi_pp

第1話

The opposite of love is not hate, it's indifference.

The opposite of beauty is not ugliness, it's indifference.

The opposite of faith is not heresy, it's indifference.


And the opposite of life is not death, but indifference between life and death.


——Elie Wiesel



 如何にも、満身創痍。

 そう全身から訴えて、一人の男が転がっていた。前が広げられた学ランは泥まみれで、見える肌全てに打撲痕がある。肩ほどの長さのある黒髪が顔を覆っていて、意識があるかさえわからない。

「大丈夫ですか?」

 だから救命救急の手段に乗っ取って、しゃがみ込んで耳元に吹き込んだ。路地裏にはしとしとと雨が降っている。かけた傘に、よろよろと力ない手が触った。

「だ、いじょ、ぶ」

 それだけ絞り出してげほりと咽せる。抵抗する力がないのを確認してから、抱えた学生鞄を濡れた路地に置き、簡易医療キットを取り出した。

「動かないでください」

 前髪の間から見える目は釣り上がり細められていたが、面倒なのでそれを了承としてぱきぱきと手を動かす。打撲切り傷出血。ワイシャツの前を開き、ぐるぐると包帯を巻きつける。

「応急手当てなので、病院に行く必要があります。自力で行けますか」

「いい」

 か細い声は聞こえなかったので、救急車を呼んだ。一つ一つは軽症でも、集まればそれなりに重症になるのだ。

 雨が降っていた。

 意識を失った彼の元に救急車が来るまで、傘を指していた。


 高柳圭は有名な不良である。

 それは彼が入院したというニュースが翌日には全校に知れ渡る程度だった。偏差値中の下、多くの地元の人が集まる高校は、それなりの数の不良と大半を占める普通の人で出来ている。

「聞いた? 高柳圭の噂」

「聞いた」

 長い黒髪の少女は、へえ、珍しいと呟いた。きっちりとネクタイを締めてスカートを膝まで伸ばした彼女は、何も優等生というわけでもない。ただ煩わしいからと、誰も守りもしないルールを守っている。

「話したことないでしょ、センセ」

「ないね。武永は」

「ないよ。私らみたいな普通の人には、関わり合いのない世界じゃん?」

 この教室の全ての席が埋まった日はない。それは戦場がここでない証明であり、しかし学校の中にない証明にはならない。ざわざわと話す生徒は、誰一人としてあの怪我の経緯を知らないだろう。

「今日の課題、ここ解けなかったんだけどどう解いた?」

「それ、先生解けると思ってないと思う」

「じゃあいいや。センセは解けたんでしょ」

 武永新はあっさりと教科書を閉じて、机に突っ伏した。毎日のように深夜のコンビニバイト、それを鼻にかけず話もせずただ彼女は休まない。

 その程度が楽だった。夢を諦めた人間の、側にいることが楽だった。

 あの人間はどうだったのだろう。喧嘩ばかりに明け暮れる彼らは、未来に何を見ているのだろう。

 少なくとも私には何もわからなかった。


 一週間で、復帰したという噂が流れた。病院を抜け出したとも教室中が言っていた。昼休み、のんびりコンビニのおにぎりを開いた武永を置いて私は立ち上がった。

「センセ食べないの?」

「たぶん、食べられない」

「そ」

 それだけ言っておにぎりに目を戻した彼女を置いて、教室を出た。昼休み開始直後の廊下は静かだ。賑やかな教室を横目で見ながら、足早に旧校舎を目指す。

 普通に暮らしたい人はまず近づかないぼろしか出てない古い建物内に、人の気配は無かった。みしりと音を立てる床を気にせず進む。復帰したという噂が流れたのは、学校で見た人間がいるということだ。半ば確信を持って足を進めれば、寂れた教室にそれは居た。

 がたりと開いた扉にびくりと肩をすくめた彼は、一瞬で姿勢を戻した。投げ出された足には包帯が残り、窓際の壁にもたれかかっているが、その眼光は淀みなく侵入者を刺していた。

「自分の身体がどうでもいいんですか」

 真っ直ぐに彼を見つめる。彼は口を開かない。

「貴方は、貴方だけのものだと思っているんですか。でしたら、とんだ思い上がりです。私が貴方を助けた時点で、貴方の体は私のものです。勝手に傷つけることは許しません」

 ゆらり、と頭を動かして、ゆっくりと口が三日月のように開いていった。

「なあ、優等生さん。俺は、あんたに助けて欲しいと言ったか?」

 まだ口内に傷が残っているのか、ゆっくりと彼はそう言ったので、首を振る。

「言っていないですね。ですが、助けて欲しくないとも聞いていない」

「俺が助けて欲しくなかった場合、例えば死にたいと思っていた場合、あんたの行いは単に自己満足なだけだ。押し付けがましいお節介だ」

「ええ、自己満足ですよ」

 一度、彼の目が丸くなる。

「自己満足ですし、貴方の意見は関係ありません。貴方がどう思っていようが、私が貴方を助けた事実は消せません。よって貴方は私のものです」

 喉の奥で、かかと高柳が笑った。

「無茶苦茶だな。性質の悪い借金取りだ」

「はい。ですから、返済してください」

 のそりと上背の高い身体が立ち上がり、目の前に影が降ってくる。

「ぼろぼろだって憐れむか? 可哀想か? でもなあ、あんた一人くらいわけないんだぜ」

 頭二つ分は上にあり、あの雨の中触診で確かめた筋肉からして、意識がないならまだしも勝てる可能性は皆無だ。そんなことはとうに分かっている。

「可哀想だとも思いません。同情もしません。ただ、私たちは同じ重さの命です」

 ここで消し飛んだとしても、重さがあったことは残る。全て消えてしまえばいいのに、記録は残るのだ。殴られた後を見たら、武永はどう言うのだろうか。センセって頭いいけど馬鹿だよね、とかつて口にしたように笑うのだろうか。

 未練だ。何もないと思っていた自分にもそれがあった。だから、彼にだってきっとある。私は、間違ったことはしなかった。

 指一つ動かせば、崩壊するような緊張感。永遠にも感じられた睨み合いは、どすんと高柳が腰を下ろしたことにより終わりを告げた。

「あんた優等生名乗るのやめた方がいいぜ」

「名乗った覚えはありません」

 かちゃりと眼鏡を直す。

「そもそも、この学校に優等生がいると思いますか」

 中の下、大抵は競走からドロップアウトした人間の溜まり場であり、先のない我々のためだけのモラトリアム。

「よくわかってんな、下村玲」

 かか、と彼は黒髪の下で目を細めた。

 てっきり視界にも入っていないものだと思っていた。

「やっとまともに顔動いたな」

 絆創膏だらけの顔でそう言って笑う。

「私のことはどうでもいいです。早く病院に戻ってください」

「ちゃあんと退院したよ。ほら、自力で歩いてるだろ」

「……信じますが、極力安静にしてください。喧嘩などもっての外です」

「はいはい」

 聞いているのかいないのか。もう一度口を開こうとした瞬間、遠くでチャイムの音がした。

「いってらっしゃい、優等生さん」

 揶揄するように、高柳が言う。

「大人しくしててください、高柳圭」

 ため息をついて、背を向けた。名を呼ばれた彼の顔を、振り返ることもなく。

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