第22話:討ち死に

 私のような現代人でも聞き間違えのない、明らかな断末魔でした。

 誰かが斬り殺されたのです。

 ですが、まだ当麻殿は徳川家基を斬り殺してはいません。

 当麻殿を誰かが斬ろうとして、返り討ちになった訳でもありません。

 この部屋の中では、何も起こってはいないのです。

 

 平蔵と呼ばれていた人が、射抜くような目で、閉められた障子の先にある庭の方を見ています。

 という事は、今の声は庭の方から聞こえてきたことになります。

 庭には、鎧兜で完全武装した警護の者達がいます。

 どのような敵であろうと、彼らを斬り殺して庭を突破する事など、不可能だと思うのですが。


「ちぇすとぉおおおお」


 凄まじい雄叫びが聞こえてきました。

 とても人が出せる声だとは思えません。

 誰かが障子を開けて、庭が見通せるようにしてくれました。

 庭では、完全武装した田沼家の者達と黒装束が戦っていました。

 黒装束の者が、刀を上段に振りかぶっています。


「ちぇすとぉおおおお」


 また耳を覆いたくなるような雄叫びが聞こえてきました。

 まるでスローモーションのように、黒装束の刀が振り下ろされます。

 田沼家の侍が刀で受けようとしましたが、その刀を黒装束の刀が叩き折ってしまいました。


 そのまま黒装束の刀が、田沼家の侍の兜を叩きます。

 私は立派な兜が、黒装束の刀を防いでくれると思っていました。

 いえ、黒装束の刀が折れるだろうと思っていたのです。

 それが、兜が真っ二つに割られてしまうなんて。

 血と脳漿が……。


 ★★★★★★


「きゃああああああああああ」


「神使様、大丈夫でございますか、神使様」


「侍が、警護の侍が、黒装束の刀で……」


「うげっえええええ」


 私はその場で吐いてしまいました。

 何とか布団の上には吐かずにすみましたが、口を覆った手から溢れた吐瀉物が畳一面に広がってしまっています。


「神使様、御気を確かに持たれてください、神使様」


 吐き続ける私の背を、百合さんが優しくさすってくれます。

 口を覆った手から溢れた吐瀉物が、畳一面に広がってしまっています。


「急いで盥と手拭いを持ってきてちょうだい。

 お登勢様に、神使様が目を醒まされたと御伝えして。

 いえ、その前に殿と若殿に御知らせするのよ。

 出入りの御医師にも使いを出すのよ、急いで」


 百合さんがてきぱきと指示しています。

 もう大丈夫と言いたいのですが、とても言えません。

 振り払っても振り払っても、警護の侍が斬られた姿が脳裏から離れてくれません。

 思い出すたびに、激しい嘔吐感に襲われてしまいます。

 もう胃の中は空っぽのはずなのに、胃液を吐き続けてしまいます。


 このまま激しい嘔吐を続けてしまうと、食道に圧がかかり過ぎてしまって、食道と胃の接合部付近にある粘膜が破れてしまうかもしれません。

 そんなことになったら、吐血してしまいます。

 神使だと思われている私が吐血したら、大騒ぎになるのは間違いありません。

 だから何としても嘔吐感を抑えないといけないのに、駄目です。


「神使様、いかがなされました。

 これはいかん、直ぐに御医師を呼べ、寝ておるようなら、叩き起こしてでも連れてまいるのだ、よいな」


 何時になく田沼意次が慌てふためいています。

 大丈夫だと言いたいのですが、とても言えません。

 それにこれは精神的な嘔吐ですから、医師にどうこうできるとは思えません。

 漢方薬を無理に飲まされたりしたら、余計に吐いてしまうだけです。

 無理矢理薬を飲ませるくらいなら、いっそ気絶させて欲しいのですが、本当にそんな事が出来るのでしょうか。


「はっ」


 田沼意次についてきていた小姓が、急いで出て行きました。

 今初めて気がつきましたが、いつの間にか襦袢の寝巻に着替えさせられています。

 普段の私は、ビキニの水着を平気で着ているのですが、もっと肌を隠してくれている襦袢の寝巻の方が、ビキニよりも見られて恥ずかしいと言うのは、一体どういう心境なのでしょうか、不思議なものです。


 他の事を思い浮かべて、嫌な光景を忘れようとしたのですが、無理でした。

 どうしても、あの目を覆いたくなる光景が脳裏から離れません。

 そしてその光景を思い出すたびに、激しい嘔吐感に襲われて吐いてしまいます。

 もう一生この光景を忘れられないのでしょうか。


「神使様、もしかしたら毒を盛られているかもしれません。

 水を飲んで毒を吐き出してください」


 毒を盛られた覚えなどないのですが、胃が空っぽの状態で吐くよりも、水を沢山飲んだ状態で吐く方が楽かもしれません。

 問題は、この状態で水を飲めるかどうかです。


「次の患者はここか」


 医師が来てくれたようですが、なんだかとても疲れています。

 どうやら、とても忙しいのに、私の為に来てくれたようです。

 単なる精神的な嘔吐なのに、申し訳ないですね。

 急いで治療を終わらせて、帰ってもらいましょう。


「嘔吐が治まらないようだ。

 万が一毒を盛られていては大変だ。

 水を飲んで頂いて、毒を全部吐いてもらう心算だったのだが、お前が来てくれたのなら話しは変わる。

 毒消しを処方してもらいたい」


「承りました、殿」


 どうやら田沼家に仕える医師のようですね。

 しかし上屋敷に藩医は住んでいなかったはずです。

 優秀な町医師に扶持を与えて、非常時には優先的に治療させるようにしていたのでしょうか。

 ですがそれにしては、駆けつけるのが早すぎます。


「毒を盛られたのかもしれないと言うのなら、仕方ありませんな。

 まだ危険な御家来衆が数多くおられるので、急ぎ処方させて頂きます」


 そうでした、あれから殺し合いが始まったはずです。

 当麻殿は御無事なのでしょうか。

 田沼意次はここにいるから、無事だったのは明らかですが、田沼意知と久左衛門殿は大丈夫なのでしょうか。


 まさか、女であろうと容赦せずに殺してしまうような奴らなのでしょうか。

 百合はいてくれましたし、お登勢さんの名前はでていましたが、楓さんや他の女中達は無事なのでしょうか。


 いえ、彼女達よりも、越後瞽女達が全員無事だったかが心配です。

 目の見えない彼女達には、敵から逃げる力が不足しています。

 敵は、自分の利益のためなら、主家の世継ぎであろうと殺そうとするような、悪逆非道な卑怯者達ですから、瞽女であろうと情け容赦なく殺してしまう事でしょう。

 残虐な光景を思い出すからと言って、吐いている場合ではなかったのです。


「もう大丈夫です、御医師殿。

 御医師殿には、怪我人の事を御願いします。

 主殿頭殿、もう私は大丈夫ですから、私が気を失ってからの事を話してください」


 矢張り精神的な嘔吐だったようです。

 本当に気になる事があると、嘘のように治まりました。


「越後瞽女達は無事なのですか。

 女中達の中に、殺された者や怪我をさせられた者はいませんか。

 私が見た者以外に、何人が殺されたのですか」


 敵は刀を折った上に、兜まで斬り割る凄腕の侍です。

 多少の腕自慢でしかない助太刀では、とても太刀打ちできないでしょう。

 まして文官として田沼家に仕えている家臣では、ろくに抵抗もできないでしょう。

 何人何十人の家臣が殺されてしまったのでしょうか。


「まず最初に申し上げておきます。

 越後瞽女達には、指一本触れさせませんでした。

 女中達も、誰一人怪我をしておりません。

 確かに多くの助っ人や家中の者が、傷つき死んでおります。

 しかしながら、彼らは大納言様を護って傷つき死んだのでございます。

 これは立派な功名でございます。

 全員が何らかの恩賞を受けることになります。

 特に死んでいった者の遺族には、大きな恩賞が与えられることになります。

 神使様が気になされる事ではございません」


 確かに田沼意次の言う通りなのかもしれません。

 ですが、私から見れば、あの愚かな徳川家基の為に死ぬなど、犬死としか思えないのですが、幕臣には違うのでしょうね。

 何より私が一切触れていなかった、徳川家基の名前を田沼意次がだしてきました。

 これが、忠誠心を持っている旗本御家人の感性なのでしょう。


 まあ、彼らが喜んで死んでいったと言うのならいいです。

 私の価値観を、この世界の侍に押し付ける事などできませんから。

 越後瞽女達が無事ならば、それで十分です。

 私の身の回りの世話をしてくれていた女中達が無事なら、それでいいのです。

 徳川家基の話しをこれ以上聞かされないように、これで話しを終わらせましょう。


「分かりました、女子供が無事ならばもう何も言う事はありません。

 私は少し疲れてしまいましたから、今日はこの部屋に籠らせてもらいます」


「恐れながら申しあげます。

 当麻殿が、どうしても話しておきたい事があるとの事でございます。

 それも御断わりさせて頂いて宜しいのでしょうか」


 それをもっと早く言いなさい、田沼意次。

 貴男にしては気がつかなさすぎますよ。


「当麻殿の事ですから、人並外れた活躍をしてくれたのでしょうね」


「はい、当麻殿がいてくださらなければ、大納言様が御無事であったかどうか。

 奴らは他の者には目もくれず、命を捨てて大納言様だけを狙っておりました。

 しかもあの剛剣は、剣も兜もものともいたしませんでした。

 当麻殿と平蔵の変幻自在の技がなければ、大納言様は落命されておられました」


 田沼意次がここまで言うくらいですから、黒装束達はあの座敷にまで押し入って来ていたのでしょう。

 よく瞽女達が無事に逃げられたものです。

 そういえば、他の者には目もくれずと言っていましたね。

 黒装束達は、瞽女を斬る事は恥と考えたのか、それとも単に刀に血脂が付くのを嫌ったのか、どちらが本当の理由だったのでしょうか。


「分かりました、当麻殿に会って直接御礼が言いたいです。

 出来る事なら門弟衆とも会いたいのですが、無理ですか」


「隠していてもいずれ分かる事ですから、包み隠さず御話しさせていただきます。

 当麻殿の門弟衆の一人が、亡くなられています。

 大納言様を御守りするために敵に立ちふさがった、見事な討ち死にでした。

 遺族が二百石取りの旗本に取立てられますので、御気になされませんように」


 田沼意次は、徳川家基の為に討ち死にしたと言っていますが、本当でしょうか。

 上座で気を失っていた私を護ろうとして、死んだのではないでしょうか。

 もしそうだとしたら、私に償う方法などあるのでしょうか。


「神使様、武士は家名と血統と武名を残すのが望みなのです。

 次期将軍であられる大納言様を護って討ち死にしたという武名を得た上に、浪人が一躍旗本に取立てられるという事は、普通はありえない事なのです。

 それに水を差すような事は、決して言わないようにしてください」


 田沼意次が初めて私に強く出ました。

 無駄死ににさせるなと言いたいのでしょう。

 確かに田沼意次の言う通りですね。

 ここで私が、この者は私を護る為に死んだのであって、徳川家基を護ろうとして死んだのではないと言ってしまったら、御遺族の方には何も残りません。

 私に出来る事なんて、使ったらなくなってしまう御金を多少渡せるくらいです。

 それも田沼意次に分けてもらった御金です。


「そうですね、次期将軍を護ろうとして討ち死にした者の功名に泥を塗るような真似は、思いやりの心を持っているなら絶対にしてはいけませんね。

 分かりました、もう何も言いません。

 当麻殿と、生き残られた門弟衆と会いましょう」


「では、御連れさせて頂きます」


 ほんの少し待つだけで、当麻殿と門弟衆六人が部屋にやって来てくれました。

 当麻殿以外の全員が、痛々しい包帯姿です。

 田沼家の下屋敷か私が拝領した屋敷に無料で住めるとなってから、新たに加わってくれた門弟衆の一人欠けています。

 あの人が亡くなられたのですね。


「神使様の麗しき御尊顔を拝し奉り、わたくしめ恐悦至極に存じ奉りまする」


 当麻殿の私に対する挨拶が変わってしまいました。

 当麻殿達の前では、田沼意次の養女という事にしていたのですが、徳川家基が全てを明かしてしまったので、もう隠す必要もなくなったのですね。

 当麻殿達は、騙していた私の事を怒っているのでしょうか。


「よく戦ってくれましたね。

 本来ならば、私の力の全てを使って御礼すべきところなのですが、主殿頭殿から色々と聞かされて、私が表立った御礼をしない方がいいと分かりました。

 以前から御約束していた、御金以外の御礼はできなくなってしまいました。

 この通り、御詫びさせていただきます」


 私は畳に両手をついて謝りました。


「おやめください、神使様。

 神使様にそのように詫びていただいては、身の置き所に困ってしまいます。

 これからたっての御願いをしようと思っておりますのに、とても困ります。

 どうかもう謝らないでください、御願い申し上げます」


 御願いがあると言うのなら、全力を尽くさなければいけません。

 ですがその御願いというのは、私の手助け出来る事なのでしょうか。


「その御願いというのは、何なのでしょうか。

 今の私には何の力もなくて、当麻殿達に何かしてあげたくても、出来ないのです」


 本当に私が神使ならよかったのに。

 私に神通力があったのなら、死者を蘇らせてみせたのに。


「我らの願いはただひとつ、敵討ちでございます。

 薩摩者に斬り殺された藤一郎の仇を取るために、一橋家と白河藩、何より薩摩藩に討ち入る許可を頂きたいのです。

 神使様の御口添えで、白河討伐と薩摩討伐に参加させて頂きたいのです」


 最初は当麻殿が何を言っているのよく分かりませんでした。

 殺された門弟の方の名前が、鈴木藤一郎殿だったとようやく思い出せたので、藤一郎殿の仇を討ちたいと言うのは、直ぐに分かりました。

 でも、薩摩者という言葉が、最初は理解できませんでした。

 ただ、鎧兜を装備した侍が、上段から兜ごと頭を割られるのを思い出して、ようやく薩摩示現流の事を思い出しました。


 確か母が、幕末の事を書いた小説に乗っていました。

 薩摩藩士が敵と戦った時に、異様な掛け声と同時に敵の刀を折って額を割ったり、受けた刀をそのまま押し込んで額を割ったりしていました。

 あれは本当の事が書かれていたのですね。

 まあ、時間をかけて史料を集めて小説を書く母ですから、ほとんどか真実や真実だと思われている事なのですが、時に確信犯で嘘を書くことがあるのですよね。


「私の口添えで敵討ちが出来るのなら、幾らでも口添えさせて頂きます。

 ですが本当に、上様は一橋家と白河藩を討伐されるのですか。

 いえ、東照神君ですら討伐されなかった、薩摩藩を討伐されるのですか」


 私の言葉に門弟衆が顔を見合わせていますが、当麻殿は全く動じておられません。


「上様と御老中は、出来るだけ世を騒がせない形で事を収めようとされておられますが、大納言様が怒り狂っておられます。

 世子の自分が本当に命を狙われた事で、やっと危機感を持たれたようでう。

 あの夜のうちに一橋家に乗り込まれて、一橋公を斬ろうとなされました」


「斬ろうとなされましたという事は、斬れなかったという事ですね。

 結局どうなったのですか」

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