第23話:乾嘔
「はい、我々が襲撃を防ぎきった後で、大納言様が怒りに身を震わせて敵討ちを宣言されたのです。
同じ釜の飯を食った門弟を殺された私も、藩士仲間を殺された田沼家の方々も、肩を並べて戦った戦友を殺された助っ人の方々も、喜んで御供しました。
しかしながら、姑息な一橋は屋敷から逃げだしていたのです。
一橋家に残っていた子供達と共に、どこかに逃げ出していたのです」
「なるほど、それで一橋の逃げていきそうな、白河藩と薩摩藩を討伐するという事なのですね」
「はい、あの時の黒装束は全員薩摩示現流の使い手でした。
それだけでは完全な証拠にはなりませんが、大納言様を無き者に出来れば、 豊千代様が次期将軍になられる可能性が極めて高いです。
その豊千代様の婚約者は、薩摩守様の御息女です。
将軍家に影響力を持ちたい薩摩藩が、加担したと思うのが当然でございます」
確かにその通りかもしれませんね。
後に「天下の楽に先んじて楽しむ」三翁と罵られた内の二人、一橋治済と島津重豪が次期将軍の座を巡って親戚になっているのです。
どう考えても一味だとしか思えませんよね。
それに確かこの頃の薩摩藩は、幕府をとても恨んでいたはずです。
関ヶ原の恨みだけではなく、宝暦治水の恨みもあったのですよね。
宝暦治水が誰の代で行われたのかは分かりませんが、もし徳川家重か徳川家治の代で行われていたのなら、本家を潰して分家に将軍家を継がす事で恨みを晴らしたい。
徳川家重や徳川家治の血筋を絶えさせたい、と思っていたかもしれませんね。
「そうですね、その可能性はあるでしょうね。
分かりました、私の願いが聞き届けられるかどうかは分かりませんが、主殿頭殿に頼んでみましょう」
「宜しく御願いいたします」
口添えすると言った以上、全力を尽くさなければいけません。
当麻殿達が下がった後で、直ぐに田沼意次に話があるから会いたいと伝えました。
私の願いを無碍に断るような意次ではないので、直ぐに部屋に来てくれました。
「主殿頭殿、御願いがあるのです。
当麻殿達を、白河討伐と薩摩討伐に加えてあげて欲しいのです」
「神使様、神使様までそのような事を言われては困ります。
上様も臣も、今回の件を出来るだけ穏便に済まそうとしているのです」
確かに田沼意次なら、穏便に治めようと考えるでしょうね。
史実でも、自分の子供が無残に殺されたというのに、その場にいた卑怯で憶病な連中をほとんど処分しませんでした。
今までの徳川幕府の判例に従えば、切腹の上で御家断絶処分となって当然の、武士にあるまじき臆病さを証明しているにも関わらずです。
田沼意知と同じ若年寄に選ばれるような藩主を、判例に従って処分すれば、御家断絶処分となって多くの家臣が路頭に迷っていたでしょう。
田沼意次は、息子を見殺しにされた怒りと哀しみを飲み込んで、多くの藩士の生活を守る温情判決を下したのです。
そんな意次に汚名を着せた松平定信も許せませんし、自分を息子を将軍にするまでは散々利用しておいて、最後に裏切った一橋治済も許せません。
とは言っても、それが徳川家基の利益になるのなら、話しは別です。
執念深いと言われようと、あんな奴が得をするのは嫌なのです。
将軍の食事に、肉食と玄米食を取り入れさせましたから、徳川家治が心臓脚気で死ぬ事はないでしょう。
上手くいけば、私の知っている歴史では存在しなかった、徳川家治の子供が生まれるかもしれません。
少なくとも徳川家斉が十一代将軍になる事だけはないでしょうし、田沼意知が殺される可能性も、極端に低くなっているでしょう。
「上様と主殿頭殿が穏便に済ませたいと言われるのなら、仕方がありませんね。
ですがこれだけは忘れないでくださいね。
一橋とその子供がいる限り、何時でも彼らを担いで将軍位を争えるのですよ。
最悪の場合は、自分の子供を一橋の子と偽って、将軍にする事もできるのですよ。
あの応仁の乱からの戦国の世は、将軍位の争いから始まった事を、絶対に忘れないでくださいね」
私の言いたい事はある程度言いましたから、もう十分です。
ですが、当麻殿達との約束を果たせなかった事が、とても申し訳ないです。
何か御詫びをしなければいけません。
「主殿頭殿、私は当麻殿達が敵討ちに参加できるようにすると約束してしまいましたが、上様と主殿頭殿に恩を着せて、無理矢理戦を始めさせることはしません。
その代わりと言う訳ではありませんが、大納言様を護って戦った者や死んでいった者に対する恩賞を、もっと厚くして頂きたいです。
証拠はないでしょうが、このような大事を、一橋家の家老達や近習達が知らなかったとは思えません。
その者達の知行を半分にして、功名を挙げた者達に与えるくらいはしてもいいのではありませんか。
白河藩や薩摩藩も同じですよ。
絶対に取り潰さなければいけないとは言いませんが、知行を半分にするくらいの処分は、必要なのではありませんか。
何といっても将軍の世子、次期将軍を殺そうとしたのですよ」
「神使様の申されることももっともだとは思いますが、臣の一存で決める事などできません。
幕閣で計って、上様の御裁可を仰ぎたいと思います」
ごめんなさい、当麻殿。
私に出来るのはこの程度の事だけなのです。
当麻殿達に対する恩義と、徳川家基に対する嫌悪感の間で、揺れ動いていました。
気持ちがはっきりどちらかに決まっていたら、もっと強く田沼意次に詰め寄ることが出来たのかもしれません。
「神使様、吐き気がおさまったのでしたら、何か食べられませんか」
「うげっえええええ」
今まで治まっていた嘔吐感が、また戻ってきてしまいました。
他の事に集中している間は忘れられていたのに、元の状態に戻ってしまいました。
東洋医学で言う所の乾嘔、からえずきに戻ってしまいました。
矢張りどう考えても精神的な嘔吐ですね。
もしかしたら、敵討ちをさせてあげられなかった事で、元の状態に戻ってしまったのかもしれません。
だとしたら、自業自得としか言いようがありませんよね。
このまま何も食べられず、衰弱死する事が私に相応しい死に方かもしれません。
「神使様、どうか御気を確かに」
私にはどうしようもありませんでした。
最初は耐えがたい衝撃的な殺され方を見た事から始まった嘔吐感が、今では自責の念から再発するようになっていると思われます。
示現流の黒装束によって殺された田沼家の藩士も、私が余計な事を言わなければ殺される事はなかったのです。
あんな身勝手な徳川家基など、助けようと思わなければよかった。
興味本位で歴史を変えるような事を、口にしなければよかったのです。
仮想戦記や時代小説が好きだからと言って、本当の歴史に介入するなんて、余りのも不遜な行為だったのです。
「神使様、どうか御気を確かに。
医師が参りますので、今暫く御辛抱願います」
田沼意次が励ましてくれますが、そんな事で治まる乾嘔ではありません。
藩医が来てくれたとしても、精神的な嘔吐は治しようがありません。
「藩の医師で手当て出来ないようでしたら、上様に御願いして御典医を遣わせてもらいますので、今暫く御辛抱願います」
将軍家の御典医であろうと、この症状はどうしようもありませんよ。
「うげっえええええ」
田沼意次はずっと私の側についていてくれました。
登城する刻限ぎりぎりまで側についていてくれました。
藩医も薬を飲まそうとしてくれましたが、乾嘔が激しい状態で、薬を飲む事などできるわけがないのです。
「きゃあああああ、血です、神使様が血を吐かれてしまわれました」
心から心配してくれているこの声は、楓さんかな。
ついに粘膜が破れて血を吐いてしまいましたね。
胃腸が悪いわけでも呼吸器が悪いわけでもなく、食道と胃の境界線が裂けただけですから、直ぐに命にかかわるような症状ではありませんが、このまま乾嘔が続くようだと、本当に死んでしまうかもしれませんね。
「薬湯だ、急いで薬湯を持ってくるのだ」
騒いでいるのは虎太郎殿ですか。
この状態では、とてもではありませんが、薬湯などの飲めません。
もう少し冷静に判断できるようにならないと、久左衛門殿のような名家老にはなれませんよ。
「お登勢殿、楓殿。
我々と話している時には平気だった神使様が、何を切っ掛けに再び吐かれるようになられたのか、思い当たることはありませんか」
この声は当麻殿ですね。
流石に剣術の達人だけあって、目の付け所が鋭いですね。
私が何かの切っ掛けがあって吐くようになったことを、見抜いておられます。
直前まで平気で話していたのですから、それも当然かもしれません。
直ぐに毒を盛られたと考えずに、他に原因がないかと考えるところが、他の人とは違う所でしょう。
ですが流石に、心の問題だとまでは気がついてくれないでしょうね。
柔道の絞め落とすような技を使ってくれたら、この生き地獄から抜け出すことが出来るのですが、幾らなんでもそれは無理な話しです。
今の私に望めるのは、このまま消耗して気絶する事くらいです。
気絶出来るようになるまで、後どのくらい苦しめばいいのでしょうか。
「これは内々の話しなのですが、神使様の為なら黙っている訳には参りません。
神使様は当麻殿の願いを殿に伝えられたのですが、天下万民が安寧に暮らすためには、当麻殿の願いを聞き届けることは出来ないと申されたのでございます。
その直後から、神使様は苦しみだされたのでございます」
「私が無理な願いをした事が原因なのですね」
いえ、そんな事はありません、全部私の所為なのです。
藤一郎殿が殺されてしまったのも、家中の人達が殺されてしまったのも、元をただせば全部私の愚かな言動が原因なのです。
当麻殿が自分を責める必要など全くないのです。
「そんな事はありません、当麻殿。
責任があるとすれば、それは恐れながら上様と殿様にあります。
大納言様の命を救ってくださった、大恩ある神使様と当麻殿達の願いを、上様と殿様は無碍にされたのです。
恐らくは、それが原因でございます」
確かにそれはあるかもしれませんね。
私がこんなに苦しまなければいけない根本的な原因は、私自身にありますが、徳川家治と田沼意次にも、一割か二割は責任がありますよね。
「神使様、先程の我らの願いはもう御忘れ下さい。
神使様をこのように苦しめてまで、身勝手な願いを叶えたいなどとは、我ら一同露程も思っておりません。
どうかもう御忘れになってください」
違うのです、当麻殿。
当麻殿達の願いの所為ではないのです。
もとはと言えば全部私の所為なのです。
だからそんなに苦しそうな表情をされないでください。
そんな顔を見てしまったら、今以上に責任を感じてしまいます。
「うげっえええええ」
さっき以上に激しい嘔吐感に襲われてしまいます。
吐く血の量が増えています。
食道の裂け目が広がってしまったのかもしれません。
越後瞽女のはるさんの言葉を思い出せば、死んだ方がましなどとは口が裂けても言えませんが、吐き気に食道の痛みまで加わって、とても辛いです。
「し、うげっえええええ、しめ、うげっえええええ、しめて、うげっえええええ」
嘔吐きながらも、何とか絞め落としてくれと言えましたが、私の真意は正しく当麻殿に伝わたでしょうか。
嘔吐きながら、血を吐きながら、縋るように当麻殿を見つめていました。
「御家老、お登勢様、虎太郎殿。
これ以上神使様が苦しむ姿を見るのは忍びない。
神使様は絞めて欲しいと言っておられる。
今から私が神使様を絞め落とします」
よかった、何とか真意が伝わっているようです。
「本当に大丈夫なのか、当麻殿。
まさかそのまま神使様を絞め殺してしまうような事はないだろうな」
こら、余計な事を言わないでください、久左衛門殿。
もう正直限界なのですよ。
苦しくて痛くて、死んでしまった方が楽だと思ってしまいそうなのです。
そんな事は絶対に思ってはいけないと分かっているのに、思ってしまいそうなのですよ、久左衛門殿。
「任せてください、御家老。
この命に代えても、神使様を助けてみせます。
御死なせするような事なく、神使様をこの苦しみから解放してみせます。
ですから邪魔することなく見ていてください」
当麻殿が堂々と断言してくださいました。
とても有難いことです。
「旦那様、ここは当麻殿に御任せしましょう。
あの時の戦いでは、当麻殿の獅子奮迅の御活躍がなければ、神使様と大納言様を御守りする事などできませんでした。
この場も当麻殿を信じて、全てを御任せしようではありませんか」
お登勢さんが夫の久左衛門殿を説得してくれています。
お登勢さんが賛成してくれたら、虎太郎殿も邪魔しないでしょうし、女中達も反対しないでしょう。
御願いだから早く楽にしてください。
当麻殿が素早く近づいてくれました。
少しでも早く楽にしてくれる心算なのでしょう。
着物の奥襟と襟先に当麻殿の両手がかかります。
首を絞めるのではなく、頸動脈を圧迫して脳への血流を止めてくれます。
なんだかぼんやりしてきました……。
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