第21話:徳川家基2
「主殿頭、ついにお前の腐敗と悪行の現場を取り押さえたぞ。
上様の御手許金を大幅に減らしながら、己は賄賂を受け取っての贅沢三昧。
決して見過ごす事などできん。
手討ちにしてくれるから、そこに直れ……」
勢い込んで部屋に押し入って、好き勝手言っていた徳川家基ですが、私はもちろん田沼意次も田沼意知も、幕府の公式な場ではないのでいたって質素な格好です。
もちろん並んでいる料理も安い物ばかりで、寿命が七十五日も延びると言われていた初鰹どころか、鯛や鱚などの高価な食材は全く並んでいません。
まあ、宴席なので酒はついていますし、一汁一菜などとは申しませんよ。
でも使われている食材は、庶民が食べるような安い物ばかりです。
新子と浅利の剝き身を胡麻味噌で和えた膾。
新鮮な鰯と鯵の刺身。
蜆の味噌汁に鰯のつみれ汁。
根菜と烏賊の煮物だけです。
「……芸子を侍らせて遊び惚けるなど、老中として許される事ではないぞ。
この上屋敷は老中として政務を執るため、非常時に直ぐに登城できるようにと上様が下賜されたのではないか。
それをこのような、このような、このような……」
馬鹿な徳川家基にも、ようやく瞽女達の姿が目に入ったようですね。
私は本来とても臆病な人間です。
でも母からは、追い詰められた土壇場では、本当に力を発揮できると言い聞かされて育てられたのです。
それが例え何かあった時に備えるための噓だったとしても、私は信じています。
今この時こそ真の力と度胸を発揮するのです。
「何と情けなく恥ずかしい事でしょうか。
全ての武家を束ねるべき次の将軍ともあろう者が、何所の誰に嘘偽りを吹き込まれたかは知りませんが、上様を御助けする天下の老中が、目の見えない者から実際の生活を聞こうと歓待している席に、案内も請わずに押し込み、目の見えない者を怖がらせるような悪口雑言と乱暴の数々。
貴男こそそこに直り、東照神君をはじめとした歴代の慰霊に詫びなさい。
愚か者!」
「おのれ、おのれ、おのれ、神使を騙る偽物が何を偉そうに申すか。
余がこの手で成敗してくれる」
怒り狂った家基が、自分の愚かさと失敗を誤魔化すために、私を殺す気です。
流石にこれは言い過ぎてしましたね。
ちょっと調子に乗り過ぎてしまいました。
「なりませぬ、なりませぬ、なりませぬぞ。
神使様に刀を向けるなど、絶対になりませぬ。
そのような事をして将軍家に祟りが及んでは、天下の一大事。
どうしても斬ると申されるのなら、臣を斬ってくださいませ」
私と家基の間に、田沼意次が割って入ってくれます。
もう六十を超える老人のはずです。
江戸時代なら何時死んでもおかしくない年齢なのに、凄い気迫です。
「よう申した、余がこの手で斬ってくれるわ」
「御待ち下さいませ。
何所の何方かは存じませんが、この場は私が芸を披露する座でござます。
その私の座で悪口雑言を並べ立てて、乱暴狼藉の限りを尽くすのを、黙って見過ごすわけには参りません。
ここで起きた事の全ては、私の責任でございます。
どうしても誰かを斬らねばならぬと申されるのでしたら、この私を斬って頂きましょう。
それとも自分の愚かな行いを恥じて、詫びてくださるのですか」
「おのれ、おのれ、おのれ、余を誰だと思っておるのか。
めくらの分際で偉そうな口をききおって、めくらなど斬っても武士の名折れだ。
そこで黙ってみておれ。
黙っていなければ、一緒に斬り捨てるぞ」
こいつは、徳川家基は死んでもいいですね。
もう絶対に助けたりはしません。
その場の勢いで口にした事であろうと、今言った言葉は絶対に許せません。
「ようございます、斬り殺して頂きましょう。
一寸の虫にも五分の魂や宿っております。
めくらの私の胸に宿る魂が、貴男様よりも大きい事を証明して御覧に入れます。
さあ、すっぱりと斬って頂きましょうか」
瞽女達の代表が、着物をもろ肌脱いで両の胸を晒し、見事な啖呵を切りました。
家基は余りの事に、眼を向い口をぱくぱくさせています。
「大納言様、蓮光院様に恥をかかせる御心算ですか。
いえ、蓮光院様だけではありませんぞ。
大納言様が恥知らずな言動をされればされるほどに、今は亡き心観院様にまで恥をかかせる事になりますぞ」
家基付きの小姓なのでしょうか。
とても怖い眼つきをした供侍が、家基を厳しく注意しています。
返答次第では、家基を斬るのかと思ってしまうほど、恐ろしい眼つきです。
「うぬぬぬ、今回だけは許してやる、帰るぞ」
「なりませぬ、絶対になりませぬ。
この場を詫びる事無く逃げ帰るなど、次期将軍として絶対に許されぬことです。
大納言様付きの家臣として、諫言させていただきます」
「おのれ、たかだか進物番ごときが余に諫言いたすと言うのか。
それで無事ですむと思っているのか。
死を賜る覚悟をしての諫言であろうな、平蔵」
何とも腹の据わった侍ですね。
この怖い目は家基を斬る覚悟ではなく、何時でも斬られる覚悟なのですね。
「この命ひとつで大納言様に諫言ができて、蓮光院様と心観院様に恥をかかさずにすみ、代々の将軍家の栄光に泥を塗らないですむのなら、安い物です。
どうぞ御存分に成敗成されてください。
そん代わり、この瞽女はもちろん、神使様と御老中には詫びて頂きます」
「うぬぬぬ、わかった、分かったわ。
余が悪かった、全部余の不明であった、許せ。
目の見えぬ者を、こぜと呼ぶことを知らなかったのだ。
怒りに任せて口にしてしまった、許せよ」
「いえ、いえ、私の座敷を壊さないでいただければ、それで十分でございます。
悪し様に罵られることも、後ろから蹴られる事にも、幼い頃から慣れております。
このように優しく接してくださって、これから生まれてくる目の見えぬ者達の暮らし向きを考えてくださる方が、云われなき事で理不尽に斬られなければ、それで十分でございます」
少しは家基も冷静に考えられるようになったのでしょう。
初めて田沼意次を見たような表情を、田沼意次に向けています。
ようやく先入観なしで田沼意次を見れたのでしょうね。
ですがどう変わろうとも、私は家基を許しません。
意固地だと言われようと、こんな奴が将軍になるなど絶対に嫌です。
「主殿頭、今この者が申した事は本当か。
主殿頭はこの者達を助ける政をするために、この者達をここに呼んだのか」
「情けなきことながら、臣の考えではございません。
臣は上様の利益になる事だけを考えておりました。
上様の御代で幕府が傾くことがないように、八代様と九代様の遺命を守りつつ、上様の望みを叶えさせていただこうと、やってきただけでございます。
瞽女達の暮らし向きを心配されたのは、神使様でございます」
「なんだと、しんし、神使様だと。
まことなのか、まことに本物の神使様なのか」
にせものですよ。
正真正銘の偽物です。
「本当の神使様に間違いございません。
臣が庭の稲荷社に祈っておりますと、目を開けていられないほどの輝きと共に、稲荷社から降臨してくださいました。
ただ、神仏の秘事を将軍家の為に御告げしてくださった事で、神通力を奪われてしまわれたばかりか、神仏の世界に戻れなくなってしまわれたのでございます」
ああ、ああ、ああ、とんでもない大嘘ですが、止めるわけにもいきません。
元の世界に戻るためには、徳川家治と田沼意次の協力が不可欠です。
二人が大切に思っている家基は、嫌いでも適当に相手をしなければいけません。
本当に腹立たしい事です。
「うむ、ならば余も話しを聞こうではないか」
家基はそう言うと、さっさと上座に来てしまいました。
私は家基と並んで座りたくないというのに、不本意です。
こんな奴と同類だと思われるのは、絶対に嫌です。
ですが明らかに安堵の表情を浮かべる田沼意次と田沼意知を見てしまうと、この場を立って出て行くことなどできません。
まあ、正直な所、私にはそんな度胸はないのです。
さっきは母の言葉を胸に、勢いで色々言ってしまいましたが、冷静になると背中に冷たい汗が流れます。
平蔵と呼ばれた供侍が割って入ってくれなかったら、私は斬られていました。
いえ、覚悟を決めて言いたい放題言った私が、斬られるのは自業自得です。
ですが、私を庇って越後瞽女の代表が斬られては、寝覚めが悪いです。
それこそ一生悪夢にうなされることになります。
まあ、直ぐに私も殺されていたでしょうが。
「そうか、その方の名ははると申すのか。
なかなかいい度胸をしておるのう、気に入ったぞ」
腹が立つことに、家基がすんなりと越後瞽女代表の名を聞き出しました。
生まれ持っての性格なのか慣れなのかは分かりませんが、流れるように名前を聞けることに、嫉妬を覚えてしまいます。
私は別に人と上手く打ち解けられない訳ではないのです。
ただ名前を聞きそびれてしまっただけなのです。
「左様か、それは誇り高く見事な事であるな。
天晴である、褒めて遣わすぞ」
本当に腹が立って仕方がありません。
私達に聞かせてくれたことを、また一から話しています。
それを聞いた家基は、最初の無礼極まりない言動など忘れたかのように、御機嫌で瞽女達を褒めています。
手のひら返しとはこのことを言うのでしょう。
それとも君子豹変すると言った方がいいのでしょうか。
越後瞽女達は、身分が高い者達の気紛れには慣れているのか、私達に披露してくれていた時と同じような、楽し気な音楽と唄を聞かせてくれています。
田沼意次をはじめとした田沼家の人達は、まだ緊張しつつも安堵感を漂わせ始めています。
未だに気を抜いていないのは、平蔵と呼ばれた供侍と、家老の久左衛門殿と息子の虎太郎殿だけです。
そういえば越後瞽女達の介添えをしていた当麻殿はどこに行かれたのでしょうか。
生死をかけた争いの場で逃げ出すような方ではありませんから、必ずどこかにおられるはずなのですが、見当たりません。
必死で目を凝らして探したのですが、どこにもおられません。
「うむ、うむ、うむ、そうか、そうか、そうか。
瞽女達は乞食ではないのだな。
東照神君が命じられたのと同じように、東海道筋の大名達を見張ってくれているのか、それは天晴であるな。
越後の瞽女達にも屋敷と扶持を与えて、中山道や脇往還の大名達を見張らしてはいかぬのか、主殿頭」
「まことによき御考えではございますが、一時の出費ならば臣が何とでも致しますが、大納言様の御代やその次の御代まで続けるとなると、勝手向き不如意になるやもしれません。
早々直ぐに決断するわけにも参りません」
田沼意次も非常識な徳川家基の御守りが大変なようですね。
つい二人の会話に耳を傾けてしまいましたが、当麻殿の事が気になります。
いったい何所に行ってしまわれたのでしょうか。
あのような状況で逃げ出すような方ではないのです。
あれ、平蔵と呼ばれていた供侍が一点を見つめていますね。
あ、当麻殿です、当麻殿が平蔵と呼ばれていた人の視線の先におられました。
さっきまで見つけることが出来なかったのに、今は確かに見ることが出来ます。
これは、一体どういう事なのでしょうか。
まるでその場に溶け込んでしまっていたかのようです。
母が書いていた阿仁又鬼を題材にした小説に、木化けという技がありましたね。
もしかして、当麻殿は家基を斬る覚悟をしていたのでしょうか。
平蔵と言われた供侍は、当麻殿に家基を斬られないように、命をかけて諫言したのでしょうか。
私にはまったく見当もつきません。
まあ、そんな事は今考えても仕方ありませんね。
それよりも、このまま家基の笑い声を聞いているのは絶対に嫌ですから、何か追い出す方法を考えなければいけません。
正直な話し、家基の高笑いを我慢するのも限界なのです。
「そうでした、そうでした、今思い出しました。
先程私は大納言殿に聞いていたのでしたね。
主殿頭殿が遊び惚けていると、嘘偽りを吹き込んだ者の名前を、教えてもらわねばなりません。
大納言殿に嘘を吹き込んで、主殿頭殿を陥れようとした者は誰ですか。
その者の名を聞いておかなければ、今度こそ大納言殿に毒を盛るかもしれません」
私の言葉に、また座が一瞬で静まってしまいましたね。
ここのいるほとんどの人間が、事を荒立てずに内々で収めようとしていたのです。
ですがそんな事は絶対に許しません。
何時までも命を狙われるのは嫌ですからね。
家基にも命懸けで責任を取ってもらいます。
「それは、そうなのかもしれぬが、陰で人の悪口を言うような事はできぬ」
「ほう、ほう、ほう。
最初に陰で人の悪口を言った人間の言う事を信じて、無実の主殿頭殿を殺そうとまでした愚か者が、今更どの面下げて陰口はいけないと言うのでしょうね。
絶対に自分に手向かう事がないと分かっている相手には、刀を抜いて殺そうとは出来ても、自分を毒殺するかもしれない人間には、臆病風に吹かれて名前を口にする事も出来ませんか。
それでよく武家の棟梁を務める次期将軍だと言えたものですね。
そんな肝っ玉の小さな将軍家の恥さらしは、とっとと仏門に入って隠居されるべきではないのですか」
「おのれ、おのれ、おのれ、余の事を憶病者と申すか」
「何を自分に都合よく解釈しているのですか。
臆病者ではなく、卑怯な憶病者です」
「おのれ、おのれ、おのれ、せっかく余が歩み寄ってやっているというのに。
その行為を無にしおって、もう本当に許さんからな。
そこに直れ、今度こそ本当に手討ちにしてくれる」
「一橋公でございます。
大納言様に嘘偽りを吹き込んで、あわよくば大納言様に御老中を殺させて、大納言様を乱心者として隠居させる。
それが一橋公が描いた絵図でございます」
「なんだと、それはまことの事か、平蔵。
答えよ平蔵」
「そこの御方、大納言様は首に縄を付けてでも西之丸に連れて戻りますので、どうか大納言様を斬るのは止めて頂きたい。
どうしてもけじめを付けろと申されるのなら、この腹を掻っ捌いて御覧に入れますので、どうかそれで許していただきたい」
平蔵と呼ばれた供侍が、当麻殿に向けて話しかけておられます。
「や、お前は誰だ、何時からそこにいる」
家基が驚きの声を上げています。
私だけではなく、家基にも当麻殿が見えていなかったようです。
「神使様の護衛でございましょう。
大納言様がこの座敷に押し入られた時から、この部屋に同化して気配を隠しておられました。
もし万が一、大納言様が神使様に斬りかかるような事があれば、神使様の護衛が大納言様を一刀両断しております」
当麻殿は本当に凄い侍だったのですね。
強いのは分かっていましたが、そこまで桁外れの強さだとは知りませんでした。
そんな方が、全てを捨てて私を護ろうとしてくださっているのです。
これでは身勝手な事など出来ませんね。
怒りに任せて家基を挑発したのはやり過ぎでした。
それに私が挑発しなくても、愚かな家基は一橋に殺されることでしょう。
「ぎゃあああああああ」
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