第20話:越後の瞽女達
私が品川で襲われそうになってから十日が過ぎました。
日々田沼家上屋敷の警備が、当初予定ていたよりもはるかに厳重になっています。
田沼家の親戚筋からの助っ人だけでなく、無役の旗本御家人までが、沢山集まって来た事が原因です。
無役の旗本御家人でやる気のある者は、権力者に贈答品を渡したり接待したりする事で、役目を貰おうとします。
後世の価値観でそれを賄賂というのは簡単ですが、母の小説では、それは江戸時代では当然の習慣だったと書かれていました。
日本でもバブル崩壊とリーマン・ショックという、二度の大不況に襲われる前には、何か御願い事をする時には手土産を持っていくのが当然だったと聞いています。
御世話になった方々に、盆暮れに挨拶行くのも普通の事だったと、母の小説には書かれていました
そもそも徳川幕府自体が、役目にまつわる御礼を貰う事を前提に、扶持を決めていたと母の小説には書いてありました。
田沼意次が賄賂政治の大悪人だと決めつけたのは、粘着質で偏狭的な松平定信なのですから、信じられるわけがありません。
今回の事は、貧乏や微禄なために、田沼意次に贈答品を渡せなかった旗本御家人が、腕一本で田沼意次に自分を売り込むことが出来る、一世一代の好機なのです。
腕に覚えのある旗本御家人が、先祖伝来の鎧櫃を背負い、槍を片手に田沼家上屋敷の駆けつけてきたので、多くの人手があるのです。
そんな人手を使って、上屋敷の警護だけではなく、下屋敷の警護も整えました。
これは田沼親子が命じた事です。
私や久左衛門殿は、下屋敷は放置しておきたかったのですが、そんな私達の思惑など、田沼意次は御見通しだったのでしょう。
私を下屋敷に移動させる準備も、着々と進んでしまっています。
「お登勢さんに任せておけば、何も心配はないと分かっているのだけれど、どうしても心配になってしまうのです。
失礼な事だと分かっているのだけれど、確認させてくれるかしら」
私はお登勢さんに言ってしまいました。
「何を申されますか、神使様が確認されるのは当然のことでございます。
今日は、神使様がかねてから願っておられた事が、叶うのでございますから」
お登勢さんが大人の心で接してくれて助かります。
今日は、越後の瞽女達を上屋敷に招いて、話しを聞く日なのです。
ただ私だけが話しを聞くのではなく、田沼親子も揃って話を聞くのです。
私が上手く話しを誘導することが出来れば、越後瞽女達にも、幕府から支援が行われる可能性があるのです。
「瞽女達が泊っていく、御長屋の準備は大丈夫ですか」
「はい、大丈夫でございます。
多くの助っ人の方々は、自分の屋敷から通ってきてくださっています。
当麻殿の門弟衆の御家族や田沼家家臣の家族も、徐々に下屋敷に移動しておりますので、瞽女達が泊まる御長屋は十分空いております」
多くの助っ人が集まった事で、襲撃される心配がなくなりました。
田沼家上屋敷に腕利きの侍が集まっている事は、一橋家の屋敷からは一目瞭然ですから、とても襲撃する気にはなれないでしょう。
田沼意次の首を取る時は、徳川家治の首も同時に取らなければいけないのですから、松平定信が乱心しない限り大丈夫だと思うのです。
ただその松平定信の乱心が、絶対にないと言い切れない事が不安です。
「神使様、越後瞽女達が只今屋敷の到着しました。
御長屋に案内して昼食を食べて貰います」
予定通り当麻殿達が、越後瞽女達を田沼家上屋敷まで案内してきてくれました。
彼女達が疲れないように、町駕籠を使ってくださいと頼んでありますから、大丈夫だとは思うのですが、時間的に余裕を持っておくべきだと思ったのです。
田沼親子が下城してくるのは午後の二時頃ですから、十分余裕があるはずです。
「そうしてもらってください。
越後瞽女達に歌舞音曲を披露してもらう場所は、整っているのですよね」
心配の余り、また失礼な事をお登勢さんに聞いてしまいました。
「はい、大丈夫でございます、神使様。
今から検分して頂きますから、御安心下さい」
お登勢さんが、まるで子供をあやすように優しく言ってくれます。
二度目の襲撃から臆病になっている私に、優しく接してくれます。
いえ、優しく接してくれるのはお登勢さんだけではありませんね。
信心深い田沼親子や久左衛門殿はもちろん、最初は敵意の眼を向けていた田沼家家臣衆まで、優しく接してくれます。
「神使様、御食事の準備が整っております」
私は越後瞽女達を迎える事ばかりに気を取られてしまっていました。
自分がちゃんと食事を取らなければ、多くの女中の予定が狂ってしまいます。
本当に私は駄目な女ですね。
もしかしたら、二度の襲撃で自律神経を失調してしまったのかもしれません。
だったら猶の事、食事や睡眠の時間は守らなければいけません。
「ごめんなさいね、うっかりしていました。
部屋に戻って食べさせてもらいますね」
私が昼食を取って休んでいると、御長屋の方から三味線の調子を整える音が聞こえてきました。
私達に歌舞音曲を披露する準備をしてくれているのでしょう。
当麻殿達が、付きっきりで御世話をしてくれているに違いありません。
私が越後瞽女達の練習に聞き耳を立てていると。
「神使様、そろそろ座敷の方に移動していただきます。
御用があるのでしたら、済ませておいてくださいませ」
楓さんが言葉をかけてくれました。
うっかり用を足すのを忘れていると、越後瞽女達の芸を見せてもらっている間中、辛い我慢をしなければいけなくなります。
楓さんの言葉に従って、事前に全ての用を済ませました。
その上で座敷の方に移動させてもらったのですが、私が一番先でした。
座敷の上座下座が分かりません。
座敷で待つ方が偉いのか、待たせる方が偉いのかもわかりません。
情けない話ですが、お登勢さんを信じて任せるほかありません。
殿様が座るような、一段高くなっている場所に座らされてしまって、一寸不安になってしまいました。
「神使様、 主殿頭と大和守でございます。
御部屋に入らせて頂いて宜しいでしょうか」
待つほどもなく田沼親子がやってきました。
私に部屋に入る許可を求めてきますが、私にどうしろというのですか。
何時もの部屋への訪問のように答えればいいのですか。
少し状況が変わると、対応も変わってしまうのでしょうか。
命のかかっていない場合の方が、度胸が据わらずに焦ってしまいます。
「御入りくださいませ」
私が戸惑っていると、お登勢さんが助けてくれました。
後はいつも通りの挨拶してから、田沼親子が席に着いたのですが、私と並んで座らずに、一段下がった私よりも下座に座ってしまいました。
もう勘弁してください、私に責任を与えないでください。
家中だけの話しなら、内々で処理できる事でしょうが、今回は目が見えないとはいえ外部の人間を迎えるのです。
老中が女の私よりも下座に着くのは、どう考えても常識外れだと思うのです。
色々不安になってしまいますが、何が正解か分からないので、田沼親子とお登勢さんを信じるほかありません。
「御老中、大和守様、姫様、越後瞽女達を連れてまいりました」
廊下の障子に大勢の人間の影が写ったかと思うと、当麻殿が声をかけてきました。
「入ってもらって下さい」
お登勢さんが指示してくれるようです。
「失礼致します。
御命令により、越後から参っている瞽女達を案内してきました。
何なりと御下問されて下さい」
私が上座に座っていて、田沼親子一段下がった場所に座っている事に、流石の当麻殿も驚いた表情を見せました。
ですが当麻殿は一流の剣客だけあって、直ぐに驚きの表情をおさめ、何事もなかったかのように、堂々とした態度で越後瞽女達を紹介してくれます。
「今日はわざわざ来てくれて有難うございます。
今日来てもらったのは話しと曲を聞かせて貰うためで、罪科があってのことではありませんから、安心してください」
もう既に越後瞽女達は、当麻殿から話しを聞いているでしょうが、田沼家に仕える者から、直接もう一度説明しておいた方が安心できるからでしょう。
お登勢さんがとても優しい声で話してくれます。
「聞きたいのは、何故貴女方が遠い越後から江戸までやってきているかです。
率直に聞きますが、越後で歌舞音曲を聞かせるだけでは生活が出来ないのですか」
お登勢さんは、瞽女達に詰問ととらえられないように、とても気をつけて優しくゆっくりと話しかけていますが、ちゃんと伝わっているでしょうか。
江戸と越後では方言が違うでしょうし、江戸でも町方と武家では言葉がかなり違ったはずです。
「へえ、確かに越後だけで食べて行くのは大変でございますが、無理という訳ではありません。
ですが農繁期に江戸に来ることが出来れば、麦飯だけではなく米の飯を食べることが出来ます。
越後に残った足弱の老人や子供達に、腹一杯飯を食わしてやることも出来ます。
そんな訳で、江戸の方々の優しさに頼ってやって来ております」
越後瞽女達を代表する中年女性が、堂々と答えてくれました。
目は見えなくても、自分達の前に天下の老中がいる事を知っているでしょうに。
よほど肝っ玉が太いのでしょうか。
今までの人生経験が、少々のことでは動じないくらい過酷だったのでしょうか。
「今の御話しですと、農繁期には歌舞音曲を披露しないという事ですか」
「へえ、私達の唄を聞いて心付けをくれるのは、殆どが農家の方々です。
農繁期には、とても私達の唄を聞く余裕などありません。
だから少し時間に余裕ができた、農閑期に村々を廻らしていただいております」
越後の農閑期と言えば冬でしょうか。
雪深い新潟の冬に、目の見えない瞽女達が、ろくな道もない農村を、三味線片手に廻って心付けをもらうのですか。
思い浮かべるだけで涙が出てきてしまいます。
「越後はとても雪深い所なのですよね。
そこを目の見えない貴女方が歩いて廻るのは、とても大変なのではありませんか」
私と同じ事をお登勢さんも考えていたのでしょうね。
「大変なのは、目の見える武士の方々も百姓衆も同じでございます。
武士の方々は御城勤めが大変だと聞いておりますし、百姓衆は照り降り一つで米の出来不出来が決まってしまいます。
私達は眼が見えませんが、気難しい主に仕える必要はありませんし、米が不出来だからと年貢の心配する必要もありません」
この女性は達観されているのですね。
私もそんな心境に成れればいいのですが、今はとても成れそうにないです。
「それに、私達にはこれがあります。
三味線と唄があれば、百姓衆に喜んでもらえた上に、食べて行くことが出来ます」
私は思わずお登勢さんを差し置いて、直接質問してしまいました。
「三味線や唄が苦手な人はどうするのですか。
何か生きていく方法があるのですか」
「三味線や歌が苦手でも、掃除や洗濯はできます。
疲れた私達の身体を揉み解してくれます。
同じ定めに生まれたのですから、助け合って生きていけばいい事です」
品川宿の瞽女達と同じ返事が返ってきました。
ここで止めておけばよかったのに、私はとても失礼な事を聞いてしまいました。
「楽をしたいとは思わないのですか。
目が見えない事で、神仏を恨みに思ったりはしなかったのですか」
「恨みに思ったことが全くないとは申しません。
ですが私一人だけでなく、ここにいる者全てが同じ定めなのです。
神仏を恨むよりは、定めに負けずに生きていく方が、幸せになれます。
定めの中で自分に出来る事を精一杯やって、仲間達と笑って生きて行ければ、それが幸せだと思っております。
定めを恨んで泣いて生きても一生ですし、定めを受け入れて笑って生きても一生でございます。
だったら私は、仲間達と笑って一生を過ごしたいです」
強い、とても強い言葉でした。
私は祖父や父の願いが一つの正解だと分かっているのに、自分の夢が大切だと言って本気で勉強してきませんでした。
自分の夢が大切なら、医学部には行かないと言い切ればいいのに、中途半端に医学部受験を繰り返しました。
それでは、理想を持って本気で医学部を受験している人に失礼ですよね。
本気で小説家になろうと、アルバイトをしながら公募に送り続けている人にも、失礼極まりないです。
自分が本当に大切に思う事をはっきり言って、養って貰っている立場から抜け出さなければ、決して一人前には成れませんよね。
「よくぞ申した、天晴である。
その方達が披露してくれる歌舞音曲ならば、さぞ素晴らしい物であろう。
もう十分話は聞かせてもらったから、今直ぐ聞かせて貰えないかな」
私が瞽女の言葉に打ちのめされているのを助けてくれるためでしょう。
田沼意次が、質問から歌舞音曲を聞かせて貰う事に、流れを変えてくれました。
「では、重い話しでは折角の座敷が暗くなってしまいますので、思いっきり明るい曲と唄を披露させていただきます」
瞽女の代表はそう言うと、一気に雰囲気を変えてくれました。
よく考えれば、私は彼女の名前さえ聞いていません。
何と失礼な事をしていたのでしょうか。
一番の上座に座らされて気が動転したいたなんて、言い訳にもなりません。
そんな風に落ち込んでしまっていた私ですが、瞽女達の三味線と唄には魂が籠ってるのでしょうか。
私の重苦しい気持ちを、徐々に明るく導いてくれます。
気分が浮き浮きとしてきて、一緒に唄い踊りたくなってきます。
嬉しさのあまり、自然と涙が流れてきてしまいました。
「うむ、誠に見事である。
あまりの楽しさに、一緒に唄い踊りたくなるわ。
御前達の誇りを傷つけないのなら、一献飲みながら聞かせてくれないか」
田沼意次も私と同じ気分だったようです。
私はまだ未成年なので、御酒は飲めませんが、素面でだって唄う事もできれば踊る事もできます。
「有難き御言葉でございます。
元々この曲と唄は、御座敷で御酒を頂きながら楽しむものでございます。
御許し頂けるのなら、一献頂かせて頂きます」
瞽女の言葉で、座敷にいる者皆で歌い踊ろうとした時、余りにも無粋な言葉が聞こえてきてしまいました。
「御待ち下さいませ、どうか御待ち下さいませ、大納言様。
殿は決して贅沢をして遊び惚けているわけではありません」
「ええええい、黙れ、黙れ、黙れ。
あれほど偉そうな事を口にしておいて、芸者達を御城近くにある上屋敷に呼び寄せて、浮かれているではないか。
これほど騒がしく歌舞音曲を奏でておいて、今更言い訳などできんぞ」
これは、徳川家基が屋敷に押し入ってきたのですか。
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