第8話:当道座の惣録屋敷と初襲撃
話が決まってからの田沼意次の動きは、とても速かったです。
やるべき事を後回しにして、愚図愚図するようなことはありませんでした。
朝の挨拶の後で一緒に食事をしている間に、私を江戸名所に案内するように、家臣に指示を出してくれていました。
御陰で、朝食後に所用を足したら、直ぐに屋敷を出ることができました。
私が一番最初に行きたいと言ったのは、本所深川一ツ目橋の近くにある、江戸と関八州と周辺区域の盲人を支配する、惣録屋敷でした。
盲人の自治的互助組織である当道座の、幕府支配領における拠点です。
祖父や父から耳に胼胝が出来るほど聞かされた、障害者保護の理想像。
遠く平安の時代から、日本では障害者の職業独占を認めてきたという話。
鎌倉時代から、琵琶法師や鍼灸師や按摩は盲人しかしてはいけない事にして、障害者を保護する政策をとってきたという話を、小さい頃から聞かされて育ちました。
特に徳川幕府になってからは、幕府から冥加金が与えられ、庶民の出産、結婚、建築、葬礼、法要など十七種の冠婚葬祭で運上金を徴収する権利まで与えられ、それを当道座の運営資金に充てられるくらいの障害者支援をしていました。
そんな当道座の惣録屋敷を、どうしても見てみたいと思ってしまったのです。
流石に田沼意次は、二代の将軍に渡って重用されただけあります。
痒い所に手が届くとは、田沼意次のような人の事を言うのだとよく分かりました。
私の話を聞いて、直ぐに使いをやって惣録屋敷に訪問の予約をしてくれた上に、詳しい事情を説明してくれる、町奉行所の同心まで手配してくれていたのです。
私は田沼意次が用意してくれた女駕籠に乗って、惣録屋敷に向かいいました。
護衛の供侍と女中は、老中の代理に相応しい人数がそろえられていました。
案内の同心が駕籠脇を歩いて色々と教えてくれます。
惣録屋敷の詳し場所は、本所深川一ツ目橋のたもと、弁財天と松井町一丁目の間にあり、その敷地は一八九〇坪もあるという話でした。
「教えて頂きたいのですが、座頭から借りた御金が返せない時には、町奉行所が取立てるという話を聞いた事があるのですが、本当ですか」
「いえ、それは少し違います。
座頭金は幕府の官金扱いとなっておりますが、町奉行所が貸した御金の回収まで手伝う事はありません。
ただ奉行所に訴えられた時に、借主が複数の相手からお金を借りていた件では、座頭金が優先的に返金される決まりにはなっております」
「御奉行様がそのように御裁きをされるのですね」
「はい、過去の判例がそのようになっております」
町奉行所の同心から色々な事を教えてもらいました。
思い違いをしていた事が色々とわかりました。
これで小説の題材にできる知識を新たに得ることができました。
問題は元の世界に戻った時に、ここで新たに得た知識を裏付ける資料を見つけられるかです。
「では屋敷の中を案内させていただきます。
供侍の方々も御女中方も御一緒に入ってください」
町奉行所同心の案内で、田沼家家臣の大半が惣録屋敷に上がりました。
同心は田沼家から色々命じられているのでしょう。
惣録屋敷の者に色々と指図して、鍼灸の技を見せてくれることになりました。
私は田沼意次の名代として、上座から見学させてもらうことになっていました。
彼らの技は、私が現代で見せてもらった技に劣らない手際でした。
御園意斎が発明したという、金銀の鍼を木槌を使って身体に打ち込む打鍼術。
杉山和一は発明したという、鍼を管に入れて身体に刺す管鍼法。
木槌も管も使わずに、鍼だけで身体に刺す古来から伝わる撚鍼法。
どれも鮮やかなものでしたが、この時代だからこその重大な問題があります。
道具が貧弱だという事と、消毒という考えが未熟な事です。
最低でも、熱湯煮沸と手指消毒を徹底させなければいけません。
盲人の鍼灸師に熱湯煮沸と手指消毒を徹底させることができるのかどうか。
せめて将軍家や大名家に施術する鍼灸師だけには、健常者の補助をつけるようにした方がいいかもしれませんね。
技術的に申し分がないと思える鍼灸師の名前を、供頭を務めてくれた各務久左衛門に記録してもらって、後日田沼家の屋敷まで来てもらう事にしました。
私としてはそれほど特殊な技とは思いませんが、本来この世界この時代にない技を、大っぴらに広める気にはならないのです。
将軍家と田沼家だけの技にしておきたいのです。
「今日はありがとうございました」
私は案内してくれた同心に御礼を言いました。
田沼家で要職にある方が、同心に心付けを渡すのでしょうから、田沼意次の名代という大役を与えられた私が、直接同心に言葉をかけない方がいいのかもしれません。
ですが、親切に説明してくれた人には、自分で御礼を言いたくなるのです。
「とんでもございません。
同心として当然ことをしただけでございます。
一介の同心に親しく御声をかけていただけるなど、光栄の極みでございます」
名も知らぬ同心は、本心から喜んでくれているようです。
声をかけて本当によかったと思えました。
帰りも同心が駕籠脇を歩いて、江戸の風俗を色々と話して聞かせてくれました。
この同心は話術が巧みなようで、笑いをこらえるのが大変でした。
「うぎゃああああ」
「賊だ、賊が襲い掛かってきたぞ」
「この駕籠が老中田沼家の駕籠だと知っての狼藉か」
「御駕籠を護れ、何があっても御駕籠を護るのだ」
「女駕籠を襲うとは何たる卑怯、武士の風上にも置けぬ卑劣漢め」
「やれ、早く殺すのだ」
駕籠かきが慌てふためいて、駕籠が上下左右に揺れてしまいます。
それでもまだ桜田門外の変で逃げ出した駕籠かきに比べれば、勇敢なものです。
供侍も女中達も、誰一人逃げ出しません。
彦根藩井伊家の腰抜け侍等とは、比べものにならないくらい立派です。
「卑怯者、町奉行所の同心を舐めるな」
案内してくれていた同心が、駕籠脇を離れて戦いに参加していきます。
勇敢だとは思いましたが、それ以上に戦う前に呼子笛で仲間を呼んで欲しいと思ってしまいました。
ですが同心が呼子笛を使うというは、時代劇を観て得た知識です。
本当に町奉行所の同心が呼子笛を使っていたかどうかは、分かりません。
「神使様、もしできるのでしたら、御自身だけでも神通力で御守りください」
同心が駕籠脇を離れたので、お登勢さんが素早く話しかけてきました。
私だって神通力が使えるのなら使いたいです。
でも偽物神使の私は、神通力など使えません。
今まではあまりに突然の事に、恐怖すら感じることができないでいたのでしょう。
でもお登勢さんの声を聞けた事で、急に恐怖感が湧き上がってきました。
がたがたと胴震いが始まってしまいました。
「ぎゃあああああ」
「頭巾で顔を隠して女駕籠を襲うなど卑怯千万、義によって助太刀いたす」
「ぎゃあああああ」
「余計な手出しをするな」
「黙れ卑怯者」
誰かが手助けしてくれているようです。
刀を振り回して殺し合っている中に飛び込んできてくれるなんて、とても勇敢な方だと思います。
「追え、追え、逃がすな」
「馬鹿者、駕籠から離れるな」
「追跡は私に任せてくれ」
助太刀が来てくれた御陰で、一気に戦いの流れが変わりました。
賊に圧されていたのが、跳ね返す勢いになりました。
「神使様、直ぐに屋敷に戻らせていただきます」
お登勢さんが今のうちに屋敷に逃げ戻ると言ってくれています。
思わず切絵図を見て覚えた江戸の町を思い出します。
来た時と同じように、一ツ目橋を渡って両国橋から屋敷の戻るのか、それとも新大橋を渡って屋敷に戻るか、それとももっと大回りするのでしょうか。
「神使様、賊の逃げ去ったのとは別の、新大橋から屋敷に戻ります」
供頭の各務久左衛門が私に方針を知らせてくれます。
確かに賊が逃げた方から屋敷に戻るわけにはいかないでしょう。
喉元過ぎれば熱さを忘れるではありませんが、賊がいなくなったら不安と恐怖が薄れて頭が回るようになりました。
「久左衛門殿、田沼家の面目が潰れるのは分かっていますが、私のために他藩に助太刀をもとめてくれませんか」
「確かに他家に助太刀を求めるのは武門の恥ではあります。
ですが面目に拘って神使様に何かあれば、その方が恥だと分かっております。
直ぐに近くの武家屋敷に助太刀を頼みます」
「いえ、御待ち下さい御家老。
町奉行所の捕り方を急いで集めますから、御安心下さい。
ろくに戦いの経験がない大名家の方々よりは、日々捕り物で鍛えられた町奉行所の捕り方の方が、はるかに役に立ちます」
この同心が言っている事は確かな事なのでしょうか。
もし認めれば、この同心はここを離れて奉行所に援軍を頼みに行くのでしょうか。
時代劇で観ていた事と、小説を書くために調べた資料から考えると、近くにある自身番の番太に使いを頼むのでしょうか。
「久左衛門殿、この辺りには武家の辻番所はありませんか。
この辺りで狼藉者が出たのなら、辻番所の者に狼藉者を捕らえる責任があるのではありませんか」
大名家の屋敷に助太刀を頼むのは田沼家の恥になるでしょうが、大名や旗本が責任を持っている辻番所の者に、受け持ち地域に狼藉者が現れて田沼家の女駕籠が襲われたと言えば、命懸けで捕まえようとするのではないでしょうか。
受け持ち地域で老中田沼家の女駕籠が襲われ、その犯人を捕まえられなかったとあれば、それこそ武門の恥ですからね。
問題は惣録屋敷が武家地なのか町人地なのかです。
まあ、辻番所でも自身番屋でも木戸番小屋でも構いません。
武家地で大名旗本の手勢が使えれば一番ですが、最悪自身番屋にいる番太でもいいのです。
少しでも人手が多くなればいいのです。
「確かにその通りでございますな。
直ぐに手配りいたします」
久左衛門殿が中間達に使いを命じています。
駕籠かきにも道筋を指示しています。
切絵図に書いてあった番所の位置を思い出そうとしましたが、駄目でした。
田沼家上屋敷を中心に道筋や橋は完全に覚えましたが、町名や武家屋敷までは完全に覚えていません。
まして小さく黒く印が入れられているだけの、番所の位置など思い出せません。
「どの道筋を通って屋敷に戻るのですか」
私は切絵図だけでなく実際の景色を覚えたくて、覗き窓を大きく開けて久左衛門殿に話しを聞く事にしました。
「久左衛門殿は周囲に気を配らなければいけませんので、神使様の御下問には私がお答えさせていただきます」
久左衛門殿は油断することなく、第二第三の襲撃に備えてくれているようです。
だから駕籠脇について私に説明することが出来ないのでしょう。
その代わりにお登勢さんが道順を教えてくれました。
「神使様には新大橋の方に行っていただきますが、その途中の菅野貞次郎様の屋敷角にある辻番所に、狼藉者の捕縛を御願い致します。
方角は違いますが、小濱盛之助様や黒鍬組の屋敷角にある辻場所にも、狼藉者を捕らえてくれるように使いを送りました」
直ぐに場所を思い浮かべることが出来ませんが、一ツ目橋を渡った先か、松井橋を渡った先にある武家屋敷の事なのでしょう。
多くの辻番所から捕り方が出てくれれば、二度目三度目の襲撃を未然に防ぐことができるかもしれません。
田沼家の女駕籠が襲われているのを見て見ぬ振りしたとあっては、後々どんな御咎めを受けるか分かりませんからね。
いえ、別の見方をすれば、田沼家に恩を売る絶好の機会なのです。
顔と名前を覚えて貰えれば、出世の糸口になるかもしれないのです。
賄賂以前に、付け届けや贈り物を前提に、役目に必要な禄高が決められているのが徳川幕府だと私は思っています。
この機会に、付け届けや贈り物ではない方法で、老中田沼意次に顔と名前を売るくらいの気概と機知がなければ、役方としては役に立たないと思います。
「分かりました、全て久左衛門殿に任せます」
全ての手配りが終わってのでしょう。
久左衛門殿が報告に駕籠脇まで来てくれました。
安心することができたので、駕籠脇を久左衛門殿に譲っていたお登勢さんを呼んで、頼みごとをしました。
「お登勢さんに頼みがあります」
「何事でございますか」
「辻番所や自身番屋の前を通る時は教えてください。
万が一の時の事を考えて、辻番所や自身番屋の場所を覚えておきたいのです」
「田沼家の面目にかけて、そのような危険な状況にはしない心算ではありますが、神使様が不安だと申されるのなら、仕方ありません。
御教えさせていただきます」
お登勢さんがそう請け合ってくれました。
そしてその言葉通り、菅野貞次郎屋敷の角にある辻番所を教えてくれました。
新大橋を渡って直ぐ左にある辻番所も教えてくれましたが、その辻番所からは、とても武士や武家奉公人には見えない人間が、捕り物用の刺又、袖絡、突棒を手に持って表にでていました。
「神使様の御教えの御陰で、安全に屋敷に戻れそうでございます」
驚いている私に、お登勢さんが話しかけてくれます。
逃げ道の角々にある辻番所や自身番屋が、警戒網を敷いてくれたのでしょうか。
道を進んでいくに従い、お登勢さんが教えてくれる番所全てで、捕り物道具を持った者が表に立っています。
ですがそのほとんどが、武家が責任を持つ辻番所のはずなのに、町人にしか見えない者が半数以上当番をしています。
読んだことのある資料を、真剣に思い出そうとしました。
数分考えてようやく思い出せました。
辻番所には、大名家が一家で運営している一手持辻番所と、複数の大名と旗本が共同で運営している組合辻番所があったのです。
しかも江戸後期には、組合辻番所は民間委託されていたはずです。
町人が表に立っている辻番所は、民間委託された辻番所なのでしょう。
資料が正しかった事が確認できて、感動のあまり思わず大きな声をだしそうになりました。
久左衛門殿は頻繁に使いをだし、時に休みながら道筋を決めていました。
辻番と話しがついて、安全だと確認できた道筋を使ってくれていたのでしょう。
何とか無事に田沼家の上屋敷に戻ることが出来ました。
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