第9話:内偵と御告げ
田沼家上屋敷に戻った私は、襲撃を受けた事による死の恐怖と、初めて江戸の町を見た好奇心の狭間で揺れ動きながら、屋敷の中で震えていました。
屋敷には物々しい警備が敷かれ、襷掛けの若侍が庭の警備をしてくれています。
しかもお登勢さんと百合さんを含めた女中が、五人も側にいてくれます。
「お登勢さん、今晩の宿直も百合さんがしてくれるのですか」
「はい、ですか今日からは二人以上で宿直させていただきます。
とは申しましても、女中など戦いの役には立ちませんから、神使様を御慰めするだけでございます。
襲撃に備える為に、夜警の若侍を増やすことになると思われます」
「では宿直をする女中は休ませてください。
それと今から私は切絵図に集中させていただきますから、側にいてくれるお登勢さん達は楽にしていてください」
「神使様に御気を使っていただき、感謝の言葉もありません。
確かに暫くは襲撃を警戒しなければいけないと思われますので、女中は交代で休ませていただいた方がいいですね。
楓と百合の二人は部屋で休ませてもらいなさい」
お登勢さんの指示で、楓と言う名の女中と百合さんが部屋を出てきました。
私はそれを眼で見送った後で切絵図に集中しました。
万が一の時に逃げ込むべき辻番所と自身番屋の位置も、切絵図に書かれています。
中屋敷や下屋敷があればいいのですが、まだ持っていないそうです。
逃走路を考えることに熱中していた御陰で、あまり恐怖を感じる事無く、あっという間に時間が経ってくれました。
御陰で女中達の前で震えて恥をかくような事もなく、田沼意次が下城するまで時間を潰すことが出来ました。
下城してきた田沼意次は、直ぐに意知と一緒に会いに来てくれました。
各務久左衛門殿やお登勢さんから、襲撃の話を聞いたのでしょう。
私が読んだ田沼意知資料では、部屋住みの身でいきなり奏者番になったように書いていましたが、意次の下城と同時に挨拶に来てくれるので、一緒に登城していたのかもしれません。
「神使様、私の油断から大変な目にあわせてしまい御詫びのしようもございません。
出来る限りの償いをさせていただきます。
ですから、どうかこの度の事は御勘如願います。
それで明日からの事なのですが、江戸の案内をさせていただくと約束させていただいたのに誠に申し訳ない事なのですが、出来れば下手人を捕まるまで中止させていただきたいのです。
どうしてもと申されるのでしたら、全力で御守りさせていただきますが、出来る事なら、屋敷の中に留まっていただきたいのです」
私から言いだそうとしていた事を、田沼意次から負い目を感じながら言いだしてくれたのは幸いです。
これでまた一つ有利な交渉材料ができました。
「私の事を案じてくださってありがとうございます。
主殿頭殿が私の事を想って言ってくださるのなら、それに従いましょう」
「願いを御聞き届けてくださり、ありがとうございます。
その代わりと申しては何ですが、神使様が望まれる物はできる限り手に入れさせていただきます。
何なりと御申し付けください」
「はい、ありがとうございます。
ただ今は直ぐに思い浮かびませんから、思いついたら御願いします。
あ、そうそう、一つだけ教えていただきたい事があります」
「何でございましょうか。
私に答えられる事でしたら、何でも答えさせていただきます」
「単なる興味なのですが、大和守殿は何か御役を頂いているのですか」
「はい、中奥の小姓として出仕させていただいております」
田沼意知が直接答えてくれました。
返事の仕方や声色から、生真面目な性格が伺われます。
「それはいつからですか」
「明和元年かでございます」
困りました。
旧暦の元号で言われても、全く分かりません。
意知が殺された年齢はわかりますが、元号が分かりません。
「それは幾つの時ですか」
「十五歳の時からです」
「今御幾つですか」
「三十でございます」
「大納言様は御幾つになられていますか」
「大納言様は十七歳に御成りです」
「大納言様の千住筋への御成りはもう行われましたか」
「はい、睦月に行われました」
睦月は一月でしたね。
「今は何月ですか」
「弥生三月でございます」
根掘り葉掘り聞く私に、疑問を挟むことなく生真面目に答えてくれます。
これで今が何時なのかようやく分かりました。
旧暦と新暦では一カ月くらいの差があったはずです。
今は新暦で言えば四月位なのでしょう。
ここが過去なのか、それとも他の世界なのかは分かりませんが、元の世界と季節は一致しているようですね。
「ありがとうございます、これで色々分かりました」
「神使様、大和守の事で何か気になる事があるのでしょうか」
田沼意次は、私が意知に根掘り葉掘り聞いた事が気になったのでしょう。
私は既に徳川家基が暗殺されると予言しているのです。
その状態で意知の事を聞いたのですから、親としては気になって当然です。
さて、意知が佐野政言に斬り殺されることを言うべきでしょうか。
まだまだ先の話だから、言う必要はないと思っていたのですが、屋敷にいるのならともかく、登城しているとなると心配ですね。
「まだまだ先の話だったので、話さなくてもいいと思っていたのですが、もう登城されているというのなら、話しておくべきでしょう。
実は大和守殿が城中で佐野政言に斬り殺される可能性があるのです。
あくまでも神使仲間の間ででた話なので、確実ではありません。
それよりは、大納言殿を救う事を優先すべきだと思っていたのですが、私が襲撃された事を考えれば、注意すべきだと思います」
「なんと、城中で大和守が殺される可能性があるのですか」
「はい、あくまでもそういう話があったという事です。
これから大和守殿は上様から信頼されて奏者番に任じられ、更に進んで、主殿頭殿が老中であるにもかかわらず、若年寄に任じられます。
それを妬んだのか、それとも権力を奪いたい者に唆されたのか、佐野政言が大和守殿を殺すという話があったのです」
「左様でございますか、よく分かりました。
大和守の身を案じてくださる御告げ、心から感謝いたします。
大和守が上様から御役を頂く場合は、細心の注意を致します」
「そうですね、そうされる方がいいでしょう。
ただ上様にどうしてもと言われたら、断れない事があるかもしれません。
そのような場合は、本丸ではなく大納言様付にしてもらってください。
それと、もし可能なら、大和守殿の側近くにいて盾となれる者を付けてください」
「残念ながら、城中では家臣に護らせる事もできません。
城中で常に大和守の側にいて、身を護る事のできる者など思い浮かびません」
「そうですね、本来曲者から若年寄を護るはずの新番士が襲い掛かるのですから、護りようがありませんね。
私が聞いたのは佐野政言ですが、大納言殿を狙う者が同じように大和守殿を狙ったのなら、佐野政言だけに備えても意味がないですから。
私が聞いたよりも早い時期に、別の者を唆して襲わせる事もあり得ます」
「なるほど、確かにその通りでございますな。
ならば大和守自身に、自分を護る力をつけさせるしかありませんな」
「そうですね、それしかありませんね。
太平の世に不要かもしれませんが、自分を護る力を持つしかありません。
城中では、番方以外は帯刀することが許されなかったのですよね」
「はい、殿中差以外は身に着けることができません」
「殿中差は一尺未満でしたね」
「はい」
「では城中でも許される、もっとも戦いやすい殿中差を用意してください。
許されるのなら、鞘も鉄張りにして護る力を高めてください。
鉄扇子を持つのもいいでしょう。
鎖帷子が許されるのなら、常に身に付けてください」
「私のような者の身を案じていただき、誠にありがとうございます。
番士に襲われた時に身を護れるよう、修練したします」
田沼意知が深々と頭を下げて礼を言ってくれました。
その姿を田沼意次が嬉しそうに見ています。
嫡男の成長が頼もしいのかもしれません。
こういう場は照れてしまいます。
ここは雰囲気を変える話しをさせてもらいましょう。
「雰囲気を悪くしてしまいましたね、話題を変えさせてもらいましょう。
主殿頭殿は、私の好きな物を手に入れてくれると言われていましたね。
だったら御金と食べ物が欲しいですね。
太閤秀吉が造ったという、天正大判が欲しいです。
慶長小判や元禄小判も欲しいですね。
食べ物なら牛肉や豚肉が食べたいです」
「承りました。
天正大判は見つけるのが難しいですが、慶長の小判や元禄の小判なら、金座に言えば手に入るでしょう。
普通に使う小判は元文の小判になりますが、これなら直ぐに御用意させていただきますので、食事の後で百両ほど届けさせていただきます。
食べ物に関しては、家臣をももんじ屋に走らせましょう」
「そうですか、そうしていただければ助かります」
田沼意次と話し合って、屋敷を出ない代わりに、色々手配してもらいました。
その中には鍼灸師を田沼屋敷に呼んでもらう件もありました。
問題は神使である私と鍼灸師がどこで会うかです。
盲人で鍼灸師とはいえ、大名屋敷の奥に入れるわけにはいきません。
惣録屋敷に行った時は、御忍びだから許されましたが、田沼家の屋敷で正式に会うとなると、そうはいきません。
結局は惣録屋敷に行った時と同じように、私が頭巾を被って表に出て会う事になりました。
そこで今日目星を付けた鍼灸師に、経穴を教えて徳川家治に施術させるのです。
彼らに徳川家治の男性能力を取り戻させるのです。
「ああ、そうでした、まだ聞いておかなければいけない事がありました。
検校でも上様に施術できるのですよね」
確か杉山和一は徳川綱吉の侍医で、施術した事があったはずです。
「はい、できます」
「では私が選んだ鍼灸師が、大奥に入って上様を施術することができるのですね」
「できれば中奥で施術して欲しいですが、どうしても必要ならば、何とか大奥に話をしてみますが、何故でしょうか」
「私の知る技は、床入りの直前に鍼を経穴に刺し、刺したまま床入りしていただくというものなのですが、許されるのでしょうか」
「それは流石に難しいと思われます。
そもそも床入りの場に上様以外の男が入る事は、絶対に許されません。
それに床入りの場には、上様に危害を及ぼすような物は持ち込めません。
床入りする方は『身体あらため』を受けなければいけないのです」
私の知らない事がどんどん出てきます。
これでは鍼灸師を使って徳川家治の男性能力を取り戻させるという私の考えは、実現させるのが難しいかもしれませんね。
「それは上様に男の力を取り戻すためでも許されないのでしょうか。
鍼灸師に奥医師の資格を与えても許されないのでしょうか」
「申し訳ないですが、私の一存で答えられる事ではありません。
鍼灸師を奥医師にさせるだけなら、私が強く願い出れば可能だと思います。
ですが鍼を使った施術を床入りの時に許すかどうかは、私どころか上様の願いでも許されるかどうかわからないのです」
これは困りましたね。
大奥には将軍を拒む力があると言うのは本当だったのですね。
ですがこのままでは、私の計画が実現不可能になります。
何か代案があればいいのですが、今直ぐには何も思い浮かびません。
大奥に常にいることができて、大奥の権力者に好かれ認められる女性が奥医師に成れれば、丸く収まるのではないでしょうか。
「主殿頭、女が奥医師になれば、常に大奥にいることができますか」
「申し訳ありませんが、それも私の一存で御答えする事はできません。
奥医師が床入りの場に入る事を許されるのかどうか、それも鍼を持ち込むという事が許されるのかどうか、私には分かりません。
何事であろうと、大奥の者が認めてくれなければ許されないのです」
田沼意次は、一般的に言われているよりもずっと力がないのかもしれません。
そうでなければ、表と大奥で全く権力構造が違うのかもしれません。
今は私に出来る事を一つ一つ確実にやっていくしかありません。
まずは田沼意次の指示に従う女性奥医師を大奥に送り込むことから始めましょう。
「主殿頭殿、瞽女を御存じですか」
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