第7話:落胆と希望

 西之丸を辞して田沼家の上屋敷に戻り、直ぐに御稲荷様に参詣しました。

 O型だからなのか、今は大雑把で楽天的な面が表にでてしまっています。

 今回も、御稲荷様に参詣したら、直ぐに元の世界に戻れると思っていたようです。

 実際に参詣しても戻れなかった時には、自分で思っていた以上にショックを受けてしまって、その場で立ち眩みを起こしてしまいました。


 付き添ってくれていたお登勢さんが咄嗟に支えてくれていなければ、敷石に頭を打って死んでしまっていたかもしれません。

 もしかしたら、昼食を抜いた事も影響していたのかもしれません。

 護衛の若侍と奥女中に介抱され、まだ明るいうちから布団に寝かされてしまいましたが、抵抗する気力もありませんでした。


「神使様、起きられたのですか」


 布団の中で泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまっていたようです。

 夜中に空腹の余り目が覚めてしまいました。

 でもこの時代に、時分時以外に御腹が空いたと言っても、直ぐに食べられる物が出てくるはずがありません。

 朝になるまで空腹を抱えて我慢するしかありません。


「ええ、目が覚めてしまいました。

 宿直をしてくれていたのですね、ありがとうございます」


「もしかして空腹なのではありませんか。

 お登勢様から、神使様が空腹で目覚められた時に食べていただくように、御握りと漬物を預かっております」


「ありがとうございます。

 情けないことですが、空腹で目が覚めてしまいました。

 用意してくれているのなら、有難く食べさせていただきます」


 お登勢さんはとても気がつく方なのですね。

 それとも田沼意次が指示していたのでしょうか。

 

「では御持ちさせていただきます。

 少し御時間をいただけるのなら、汁を温め直させていただきますが、いかがなされますか。

 失礼いたします」


 隣の部屋から宿直の若い女中が声をかけてくれました。

 そして今回は事前に断りを入れて、廊下に出ることなく襖を開けて、隣の部屋から入って来てくれました。

 手に持った膳の上にある御握りと漬物に、目が釘付けになってしまいました。

 

「ゆっくりと食べさせてもらいますから、汁を温め直せるのなら御願いします」


 用意してくれている御握りの量がわからないので、満腹になるまで食べられる量があるとは言い切れません。

 膳の上にある御握りの量はそれほど多くありません。

 ですが読んだことのある江戸時代の資料から考えると、私が考えているよりも遥かに多くの御握りが、別に用意されている可能性が高いです。


「まずはこちらから御食べ下さい。

 直ぐ手あぶりに火を熾して、汁を温め直させていただきます」


 若い女中はそう言うと、手早く火鉢に火を熾して、三徳の上に汁の入った雪平鍋を置いて温め直してくれます。

 現代の便利な道具に慣れた私には、絶対にできない事です。

 その姿を横目に見ながら、私は大きな御握りを頬張りました。


 あまりの美味しさに、扁桃腺の辺りが痛くなるほどでした。

 美味しい物を急いで食べてしまったので、唾液腺から一度に大量の唾液が出ようとした事で、痛覚が刺激さえてしまったのかもしれません。

 母が集めていた小説用の資料の中に、甘いものを食べると同じような症状が出る、と御医者さんが書かれていたコラムがありました。


「ありがとうございます」


 一つ目の御握りを食べて、二つ目の御握りを手に取りました。

 箸の使い方は、幼い頃から厳しく躾けられていますが、それが江戸時代の武士基準から見て、作法にかなっているかどうかがわかりません。

 手に取って食べる事のできる御握りの方が、行儀作法を気にせずに食べられるのでありがたいです。


「隣の部屋にも御握りと漬物を用意しておりますので、遠慮せずに御腹一杯になるまで御食べ下さいませ」


 給仕してくれている若い女中が、笑顔を浮かべて言ってくれます。

 今が夜の何時かは分かりませんが、朝になったら昨日と同じような豪華な食事が出るだろうと思います。

 そうは思っていても、今目の前にある御握りと漬物の方が食べたいです。

 空腹こそ一番の調味料だと書いてあったのを、しみじみと思い出します。


「ありがとうございます。

 遠慮せずに御腹一杯食べさせてもらいますね」


 夜食の御握りと漬物と汁を飲ませてもらってから、二度寝してしまいました。


 スゥー。


 襖が開けられる音に一瞬で目が覚めてしまいました。

 隣で親切な女中が宿直してくれていると思うと、安心して眠ることができました。

 ですが物音がした事で、不安と恐怖が蘇ってしまったのかもしれません。

 田沼意次やお登勢さんを信じていないわけではありませんが、無性に怖いと思ってしまったのです。


「神使様は起きられましたか」


 お登勢さんの声が聞こえました。

 宿直の女中に私の様子を確認しています。

 

「いえ、先程迄は寝息が聞こえておりました。

 昨晩は九つ半に目を醒まされて、夜食を御食べになられました。

 その後もう一度眠りにつかれました」


「御稲荷様に拒まれた事が、心労になられたのでしょうね。

 殿が朝の御挨拶がしたいと申されているのですが、仕方ありません。

 正直に状態を御話しして、諦めていただきましょう」


 これはいけません。

 今後の事を田沼意次と話し合わなければいけないのです。


「待ってください、今起きました。

 用意を整えたら、御会いさせていただきます」

 

「申し訳ありません、神使様。

 不躾にも無理矢理起こしてしまいました。

 どうか御許し下さい」


「いえ、昨晩は十分眠らせていただきました。

 だから何も気にしないでください。

 それよりも、私も主殿頭殿に相談したい事があったのです。

 主殿頭殿に時間があるのなら、出来るだけ早く御会いしたいのです」


 私は真剣に御願いしました。


「それは有り難い事でございます。

 直ぐに殿に伝えさせていただきます。

 神使様は身嗜みを整てくださいますか」


 お登勢さんにそう言われて、真っ赤になってしまいました。

 今の私は、寝起きに鏡も見ずにお登勢さんの前に出てしまっています。

 もしかしたら、涎の跡が顔についているかもしれません。

 ショートカットの髪もぼさぼさで、飛び跳ねているかもしれません。

 

「神使様、私が髪に櫛を入れさせていただきます。

 化粧が必要でしたら、直ぐに御用意させていただきます。

 何なりと御申しつけ下さい」


 若い女中が親切に言ってくれました。


「ありがとうございます。

 貴女の名前は何というのですか」


「百合と申します、以後御見知りおきください」


「ありがとう、百合さん。

 親切な申し出は嬉しいのですが、百合さんは徹夜で宿直をしてくれたのでしょ。

 直ぐに休んで下さい」


「大丈夫でございます、神使様。

 神使様には御見通しの事なので、今更隠し立ていたしません。

 実家の商家のために田沼家に御奉公に上がった私です。

 神使様の御目に留まり加護を頂けるのなら、何日眠れなくても平気でございます」


 ああ、なるほど、大体のことは想像できます。

 商いのために田沼意次に取り入ろうとした父親に命じられて、行儀見習いという名目で無給奉公しているのですね。

「出来るだけ田沼意次や子息の目に留まって、お手付きになれるように振舞え」と父親に言い含められているのでしょうね。


「そう、分かったわ。

 私の世話をする事で百合さんの立場がよくなるのなら、やってください。

 だけど事前に話しておきますが、私は主神様から見捨てられています。

 だから百合さんの事情を知る事もできなければ、御利益を与える事もできません」


「はい、多少の事情は知っております。

 神使様が御稲荷様から拒まれた事も耳にしております。

 それでも、御側近くで御世話させていただきたいのでございます」


「そう、そこまで言ってくれるのなら任せます」


「はい、ありがとうございます」


「ただ、白粉は身体に悪いから使わないわ。

 白粉を使うと、生まれてくる子供が病弱になるのよ。

 美しくなりたい気持ちはわかるけれど、百合さんも使わない方がいいわよ」


「え、本当なのですか、白粉を使うと子供が病弱になるのですか」


「ええ、白粉には鉛が含まれているのだけれど、肌から鉛が身体に入るの。

 その鉛が子供を弱くしてしまうのよ。

 出来れば引眉と口紅だけにしておいた方がいいわよ。

 だから私も引眉と口紅だけでいいわ」


「ありがとうございます、気をつけさせていただきます。

 爪紅と鬢付け油はいらないのですか」


 爪紅はもっと幕末のものかと思っていましたが、田沼時代からあったのですね。

 でも幕末でも高価だったと書いてありましたから、田沼時代だととんでもなく高価なのでしょう。


「爪紅のような高価なものは必要ありません。

 鬢付け油は、髪に何かつけるのは嫌なので、必要ありません。

 引眉と口紅だけで十分ですよ」


「承りました」


 百合さんが私の身嗜みを整えるために、てきぱきと動いてくれています。

 最初に化粧水のようなものを、丁寧に顔に塗ってくれます。

 恐らく糸瓜水なのでしょう。


「これは糸瓜からとった水ですか」


「はい、左様でございます」


 刷毛や紅猪口を使って、眉を黒々とし唇を赤くしてくれます。

 白粉と鬢付け油を使わないと言ったので、手間は少ないと思います。

 ところが驚いたことに、唇だけでなく頬と目元にも紅を塗るのです。

 私の読んだ資料の間違いがよく分かりました。

 でも口紅は、朝御飯を食べたら塗り直さなければいけないのでしょうか。


「神使様、殿と大和守殿が御挨拶させていただきたいとの事でございます」


 私の化粧が終わるのを見計らっていたとしか思えないほど絶妙なタイミングで、お登勢さんがやってきました。


「はい、私も御挨拶させていただきたいと思っていました。

 百合、もう大丈夫ですから休んで下さい。

 今日も宿直をしてくれるのなら、寝ておかないと厳しいでしょう」


「ありがとうございます。

 御言葉に甘えて休ませていただきます」


 今度は素直に引き下がってくれました。

 どうやら今晩も百合さんが宿直をしてくれるようです。

 実家が商家だからか、連日宿直をさせられているのでしょうか。

 田沼意次が貧乏旗本なら、無料で奉公してくれる商家や豪農の娘ばかりが奥女中だったのでしょうが、大名になると家臣の娘が奥女中を務めるのでしょうね。


「神使様、入らせていただいて宜しいでしょうか」


 百合が私の前を辞してしばらくすると、障子に誰かがやってくる影が映りました。

 田沼意次と意知がそろってやってきたのがわかりました。

 やはり田沼意次が声をかけてきます。


「はい、入ってください」


「失礼させていただきます」


 今日も田沼意次と意知の親子が膝行で部屋に入ってきます。

 ここまでやってくれているのに、私がただの人間だと知ったら、どんな反応をするのでしょうか。

 正体がバレた時の事を考えると、恐怖を感じてしまいます。


「この度は貴重な御告げを頂き誠にありがとうございました。

 当初は難色を示しておられた上様ですが、神使様が蓮光院様にも御告げしてくださった事で、蓮光院様が上様を説得してくださいました」


 田沼意次と意知が、畳に頭を擦り付けんばかりの土下座をしてくれています。

 口上は田沼意次が一人でやるようです。


「そうですか、それはよかったです」


「ただ、側室を置く事は認めてくださったのですが、子供を作る自信がないと申されておられるのでございます。

 神使様は、その時には方法があると蓮光院様に御告げ下さったそうですが、どのような方法があるのか御教え下さい」

 

 やはりそうなりましたか。

 読んだ資料の多くが、田沼意次と一橋が結託して家斉を次期将軍にしたと書いてありましたが、大奥にいる女性の多くが何もしなかったとは思えません。

 自分がお腹様やお部屋様になろうと野望を持った者もいたはずです。

 それなのに子供が生まれなかったという事は、徳川家治は生殖能力を失っていたのかもしれないと想像していたのです。


「鍼灸の技の中に、男の力を取り戻す技があります。

 食養生も大切です。

 その両方を御教えしましょう。

 その為には、鍼灸の技を極めた者が幾人か必要になります。

 どうせ主殿頭殿も、上様と同じように側室を持たなければいけないのでしょ」


「全部御見通しでございますか。

 その通りでございます。

 恐らくですが、食養と鍼灸を上様に御勧めしたら、私にも同じことをするように命じられるはずです。

 分かりました、当道座に鍼灸の名人を推薦するように伝えましょう」


「私が技を直接伝えます。

 その代わりと言っては何ですが、私の望みをかなえて欲しいのです」


「何でございましょうか、神使様。

 私に出来る事なら、何でもさせていただきます」


「私は出来るだけ早く主神様の御怒りを解きたいのです。

 なので毎日主神様に参詣して御詫びしたいのです。

 この屋敷にある社だけでなく、江戸の町にある多くの社に参詣したいのです。

 認めていただけますか、主殿頭殿」


「まことに身勝手な事を申してしまいますが、今暫く御待ち頂けないでしょうか。

 主神様の御怒りが解けて、技の伝授前に神使様が戻られては困ってしまいます。

 社に詣でるのは、技の伝授が終わり効果が確かめられてからで宜しいでしょうか」


 田沼意次の言う事ももっともです。

 今この状態で私が消えてしまったら、落胆が大きすぎるでしょうね。

 一橋と松平定信が疑わしいと思っていても、何の証拠もない状態では、主筋を殺したり処罰したりはできないですから。


「分かりました、参詣するのは技の伝授を終えてからで結構です。

 その代わりという訳ではありませんが、江戸の町を見て回らせてください」

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