第6話:交渉

「どうしても西之丸に行けと言うのなら、一つ条件があります」


「何でございますか、神使様。

 私に出来る事なら何でもやらせていただきます。

 殿の許可が必要な事でしたら、御伽坊主殿に頼んで中奥に使いしていただきます」


「では主殿頭殿に主神様の社を参詣する許可を取ってください。

 田沼家の屋敷に戻ったら、稲荷社に参詣させると約束してください」


「それは、神々の世界に戻るという事でございますか」


「それは分かりません。

 主神様に拒否されて神仏の世界に戻れない可能性もあります。

 それでも出来るだけ早く額突いて御詫びしなければいけません。

 私が御詫びしなければ、将軍家や田沼家にも神罰が下るかもしれませんよ」


「承りました、直ぐに殿に伝えさせていただきます」


 私の脅し文句に、お登勢さんも危機感を感じたのでしょう。

 直ぐに手を叩き声をかけて大奥の女中を呼びました。

 普通なら、陪臣の妻で薬箱持ちに過ぎないお登勢さんの言葉に、身分ある大奥の女中は反応しないかもしれません。


 ですが今回は、徳川家治から厳しく命じられていたのでしょう。

 直ぐに若い女中がやってきました。

 恐らくですが奥女中の部屋子でしょう。

 彼らだったらお登勢さんと話をしても問題ないはずです。

 

 若い女中が離れた気配がしたので、土下座を止めました。

 ですが、お登勢さんの方は見ないようにしています。

 申し訳なくて胸が痛むのですが、しかたがありません。

 この駆け引きに、元の世界に戻れるかどうかがかかっています。

 大袈裟に言えば、命がかかっているのですから。


「お登勢殿、主殿頭殿からの伝言を伝えさせてもらいます。

 稲荷社への参詣を許可するとの事でございます」


 永遠とも思える時間を待たされて、ようやく返事が届きました。

 これでようやく私も、嫌な思いを続けなくてもよくなりました。

 お登勢さんを脅かすような事は、本当はしたくないのです。


「本当に宜しいのですか。

 上様の命で、御食事を御用意させていただいておりますが」


 田沼意次が御稲荷さんへの参詣を認めてくれたので、西之丸に行って蓮光院に会う事になりましたが、時間が時間なので昼食が用意されていました。

 ですが、御茶ですら毒殺を恐れて手を付けていないのです。

 どれほど御腹が空いていても、食べる気にはなれません。

 そもそも緊張と不安で全く空腹を感じていません。


「それで蓮光院様は大丈夫なのでしょうか。

 御待たせするような事はないのでしょうか」


 お登勢さんが声をかけてきた奥女中に質問しています。

 私の態度で、大奥で出された物は飲み食いしないと分かっているでしょうに。


「それは大丈夫でございます。

 蓮光院様も食事をなされますのです」


 奥女中の言葉で、ようやく蓮光院が食事をする事に思い至りました。

 不安と恐怖で、想像力が低下してしまっているのかもしれません。

 

「では持ってきていただけますか」


 一瞬お登勢さんを止めようかと思いましたが、止めました。

 お登勢さんが空腹なのかもしれません。

 私の勝手で、お登勢さんに食事を我慢してもらうわけにもいきません。

 どうせ蓮光院が食事を終えるまでは会えないのです。

 本を読んで時間を潰しましょう。


「神使様、私が毒見させていただきますから、安心して御食べ下さい」


 私が毒殺を恐れている事を、お登勢さんは気がついていたようです。

 確かに毒見をしてもらえれば、即効性の毒は防げます。

 ですが遅効性の毒は防げないのです。


「お登勢さんは知らないでしょうが、毒にはゆっくりと効く物があるのです。

 素人が毒見をしても見抜けない毒があるのです。

 事情を聞いているお登勢さんなら分かるでしょう」


 私がそう言うと、お登勢さんの顔色が一瞬で変わりました。

 相手は将軍家の世子すら毒殺するような外道です。

 私やお登勢さんを毒殺する事など、毛ほども躊躇いません。


「考えなしな事をやってしまいました。

 申し訳ありません、神使様」


「いえ、別に構いませんよ。

 大納言殿や上様に警戒されないように、私達を見逃すこともあり得ます。

 ですがそう思い込んで、無警戒という訳にはいきません。

 しっかりと対策を講じておくことが、とても大切なのです」


「はい、もう二度と油断はいたしません」


 私とお登勢さんがそんなやり取りをしている間に、私達の食事を大奥の女中達が膳に乗せて運んできてくれました。

 一旦食事をすると口にしてしまった以上、全く箸をつけないという訳にはいきませんから、形だけでも食べなければいけません。

 

「申し訳ありませんが、二つともお登勢さんに食べてもらいます。

 もし手先が大奥に入りこんでいるのなら、食べなければ警戒されてしまいます」


 登勢さんにはそう言いましたが、もう既に警戒されていますよね。

 大奥の女中達に徳川家基暗殺の件が広まっている以上、直ぐに一橋や松平定信にも伝わると思っておかなければいけません。

 神隠し直後の私はとても混乱していたようで、危機感など全くなく、色々と口にしてしまっていました。


「はい、責任を持って全て食べさせていただきます」


 お登勢さんはそう言うと、急いで食べ始めました。

 しじみ汁、鯛の塩焼き、鯒の切身と長芋と薇の煮物、寒天、栗金団、擬製豆腐、金糸昆布、海老膾、蒸玉子です。


 私の知る大奥料理の中でも豪華だと思います。

 御台所や老女に出す料理のなかで、毒見として作られた物を流用したのかな。

 普段なら、とても興味を惹かれて食べたくなるのでしょうが、不安と恐怖の影響なのか、全くそんな気になりません。


 お登勢さんが二人前の昼食を食べ終えて、ゆっくりと御茶をしていると、西之丸からの御迎えがやってきた。

 一旦大奥を出て、再び駕籠に乗って西之丸に向かったのですが、どこをどう通っているのか分かりません。


 覚えている江戸城の図面を思い出しているのですが、本丸から西詰橋御門を通って西之丸に行くのか、それとも表御殿の方に向かって正門を出て蓮池御門を通っていくのか、とても興味があったので、覗き窓から眺めてしまいました。


 恐らくですが、西詰橋御門の橋を渡っているのだと思います。

 まさか遠回りの北詰橋御門ではないと思うのです。

 私はいったいどんな性格をしているのでしょうか。

 不安と恐怖を感じているにもかかわらず、野次馬根性がわいてしまいます。

 駕籠の覘き窓から見える江戸城の光景に、夢中になってしまっています。


 紅葉山の塀を右に、蓮池濠を左に見ている間は、好奇心の方が強かったです。

 ですが西之丸御殿が近づくにつれて、興味よりも不安と恐怖が大きくなりました。

 喉元過ぎれば熱さを忘れ、また何か起きたら恐怖を感じてしまいます。

 なんと情けない性格なのでしょうか、自分で自分が嫌になります。

 

 西之丸大奥も本丸大奥の時と同じように、奥女中が案内してくれます。

 西之丸大奥でも、いくつもの角を曲がって案内されました。

 西之丸大奥でも、本丸大奥と同じように待たされると思っていたのですが、違いました。


「蓮光院様、神使様を御連れいたしました」


「入って頂いてください」


 なんと、蓮光院さんが先に部屋に入って待ってくれていました。

 まだ家基が将軍になっていないので、蓮光院さんは将軍家の一族ではなかったはずですが、それでも西之丸では、世子の生母として大きな権力を持っているはずです。

 そんな蓮光院さんが、先に部屋に入って私を待ってくれているなんて、とんでもない事です。


「神使様、この度はかけがえのない御告げ頂き、感謝の言葉もございません。

 心から御礼申し上げます」


 しかも部屋に入るなり、深々と頭を下げてくださいます。

 縋りつくような必死の表情をされています。

 よほど我が子家基の事が心配なのでしょう。

 その母心に、私も心を打たれてしまいました。

 思わず目の前に母の顔が浮かんでしまいました。

 殺される不安と恐怖を上回る感動を覚えてしまっています。


「本丸での話は、使いの者から聞かせていただいております。

 上様の無礼は、重ねて御詫びさせていただきます。

 どうか、子供を想う母に免じて御許しください。

 重ねての御願いが無礼な事は重々承知しております。

 その上で伏して御願い申し上げます。

 大納言様を救う方法を御教え下さい」


 切々と話す蓮光院さんに大きく心を打たれてしまって、本丸大奥を出る時には話さない心算だった、田沼意次に話した対応策を口にしてしまいました。


「おお、ありがとうございます、神使様。

 直ぐに上様に御願いして、大納言殿の結婚は早めてもらいます」


「それは止めてください、絶対に駄目です。

 こんな事をしてしまったら、敵が暗殺計画を早めてしまうかもしれません。

 密かに子供を作るのです。

 敵に知られないように、子供を作るのです。

 相手は誰でもいい、と言ってはいけませんが、男子さえ生まれればいいのです。

 西之丸の奥は、蓮光院殿の眼が行き届いているのでしょ。

 蓮光院殿がいいと思った娘を、密かに大納言殿に勧めてください」


 フェミニストの人達からは批判されるでしょうが、時代によって女性に求められる役割は違うと思っています。

 私にはフェミニストの方々の主張は、自分のための利権争いにしか見えません。

 少なくともマスコミに出てくるような人は、自分の利益のためにファミニズムを利用している印象しかありません。


 そしてこの時代で女性がなすべき役割は、良妻賢母です。

 幕末の次期将軍争いでは、大奥の影響が日本の歴史を大きく変えてしまいました。

 大奥で世子を産み権力を手に入れることが、出世争いといえます。

 結婚せず子供を産まず老女となって、大奥内でキャリアウーマンとして登り詰めるという方法もありますが、それは人それぞれです。 


 それぞれ自分の信じる道があると思います。

 少なくとも、専業主婦を志す女性を貶すようなフェミニストは大嫌いです。

 しかし今は、そんな馬鹿な事を考えている場合ではありませんでした。

 私が自分の考えを話した後の蓮光院殿の表情が、一気に曇ったのです。

 その表情から、私の考えを実行できないのは明らかでした。


「何か心配事があるのですか。

 もしかしたら、助言できる事があるかもしれません。

 隠し立てせずに全て教えていただけませんか」


「このような事を申し上げるのは恐れ多い事なのですが、大納言殿は主殿頭殿の事を嫌ってしまっているのです。

 神使様が下さった御告げも、主殿頭殿が上様と大納言殿を謀る為の狂言だと申しておるのでございます。

 私がどれほど想いを込めて言い聞かせも、素直に聞き入れてくれるかどうか」


 なるほど、そういう事なら、蓮光院さんの表情が曇るのも分かります。

 徳川家基が殺されたのは、数え年で十八歳だったはずです。

 私が言うのもなんですが、血気盛んで大人の言う事など聞きたくない年頃です。

 しかも、次期将軍として甘やかされて育っている可能性も高いです。

 これは素直に言う事を聞かない可能性が高いですね。


「では次善の策を取りましょう。

 大納言殿の好みそうな娘を、偶然を装い頻繁に目に留まるようにしつつ、上様に子供を作るようにしていただくのです」


「確かに上様に男子が誕生すれば、大納言殿が狙われる可能性は低くなります。

 ですが、四十路を超えられ五十路に近づかれた上様に、新たな子供が御作りになれるかどうかわかりません。

 何より御台所様を心から愛しておられた上様が、新たに愛妾を持つことを認められるかどうかがわかりません」


「蓮光院殿がそう申されるのでしたら、もう私に策はありません。

 蓮光院殿が大納言殿に無理矢理子作りを勧めるのは、少し難しいでしょう。

 それに、上様が大納言殿の命よりも亡き御台所様への想いを優先されると申されるのなら、これ以上何も申し上げる事はありません。

 上様の想いを踏みにいるわけにはいきませんし、私の助言は聞かなかった事にしてください」


 人それぞれ大切に思うモノは違います。

 徳川家治が息子の命よりも亡き妻への想いを優先するのなら、仕方がありません。

 徳川家基と貞次郎をもうけた時も、側室を勧める田沼意次に、お前も側室を持つのなら俺も持つとまで言ったと、私の読んだ資料には書いてありました。


 まだ徳川家治に子供を作る力があって、亡き妻への想いを断ち切って、徳川家基の命を優先した場合、今回も田沼意次に側室を持つように言うのかもしれませんね。

 なかなか面白い話ですが、興味本位で首を突っ込むには危険が大きすぎます。

 蓮光院さんにアドバイスできたのは、土壇場まで追い込まれた事で、恐怖を超えて居直れたからなのかもしれませんが、この辺が限界です。

 流石に関係者全員を敵に回す気にはなれません。


「どうか、どうか御待ち下さい神使様。

 私達を見捨てないでくださいませ。

 絶対に神使様の御告げを蔑ろには致しません。

 大納言殿には、色々な娘が目に留まるように計らいます。

 上様を説得して、必ず側室を持っていただきます」


 蓮光院さんの慌てぶりは怖いくらいです。

 また余計な事を口にして失敗してしまいました。

 今度は蓮光院さんに恨まれてしまうかもしれません。

 錯乱した蓮光院さんに襲われてはたまりません。


「わかりました、見捨てたりはしませんから、落ち着いてください。 

 上様に子作りする力がなくなっているようなら、正直に言ってください」


「はい、承りました。

 何事も包み隠さず御話させていただきます」

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