第5話:登城

 私は田沼意次と一緒に登城することになりました。

 三百諸侯が一斉に定時登城するのです。

 三百諸侯が家格に応じた家臣を引き連れて登城するのですから、大手門が大渋滞になってしまうのです。

 それを町奉行所の同心が交通整理しているのが、まるでハロウィンの人手を整理している警察官のようで、面白すぎます。


 遅刻しないように自分がどれだけ早く屋敷を出ても、家格の上に大名家にかち合うと、自分が遠慮して待たなければならないのです。

 私は有り難い事に、田沼家の駕籠に乗せてもらっています。

 お登勢さんを歩かせているのは申し訳ないですが、一緒に登城してくれるのが分かって安心ではあります。


 身勝手な話しなのですが、大名の登城ラッシュを体験できた事は、いい経験です。

 田沼意次の権勢を恐れて、どの大名家も道を譲ってくれます。

 こんな体験は、普通絶対に出来ません。

 売れっ子小説家の母であろうと、想像するだけです。


 とは言っても、田沼意次の上屋敷は大手門に近い神田橋上にあるので、登城にかかる時間はとても短くてすみます。

 緊急事態に直ぐ登城しなければいけない老中は、江戸城に近い屋敷を幕府から賜るか、自分で差額を払って屋敷替えしてもらうと読んだことがあります。


 今思い出しました。

 月番老中と月番若年寄の対客日には、町奉行所から十人の門前廻り同心が屋敷前に来て、交通整理をしてくれたはずです。

 次はそれが見てみたいと痛切に思ってしまいます。


 そんな事を思っている間に、私の乗る駕籠は二つの橋を渡り、いつの間にか田沼意次とは別の方向に向かっていました。

 これで駕籠脇にお登勢さんいてくれなかったら、強い恐怖を感じていたでしょう。

 恐らくですが、本丸の表に登城するのと大奥に行くのでは、道が全く違っているのでしょう。


 その後の事は、緊張してしまって記憶がおぼろげです。

 私の乗る駕籠が駕籠台に着けられてからは、駕籠から降りて歩きました。

 恐らく大奥の奥女中であろう女性に先導されて、長い廊下を歩きました。

 何があるのか誰が待っているのか分からず、とても緊張しました。

 いえ、緊張よりも不安と恐怖を感じていました。

 後ろにお登勢さんがいてくれなかったら、もっと怖かったでしょう。


 いくつもの角を曲がって案内された部屋で待たされました。

 私語が許されるのかもわからないので、黙って空想の世界に入ろうとしたのですが、別式女に襲われてしまう空想をしてしまい、更に恐怖を感じてしまいました。

 そんな私の不安と恐怖を見てとってくれたのでしょうか、鍼灸師の薬箱持ちを演じてくれているお登勢さんが、私が確認した鍼灸の道具を入れている薬箱から『切絵図』と『武家名鑑』を取り出してくれました。


 私は本を没入して、不安と恐怖を忘れようとしました。

 いつの間にか御茶が出ていましたが、毒が怖くて飲めません。

 もし大奥に一橋や松平定信の手の者が入りこんでいたら、私の言ったことが大奥で広まってしまっていたら、毒殺されてしまうかもしれません。


 将軍の子供達が次々と夭折するのは、白粉の毒と下剤が原因だと言うのは表の話で、裏の話では将軍継承争いによる毒殺になります。

 宮家や五摂家出身の御台所が嫡男を産んでしまったら、朝廷の将軍家に対する影響力が強くなると恐れた幕閣が、妊娠しないように画策していたという説もあります。

 将軍の男子を出産した「お部屋様」を擁する派閥同士が、刺客を放ちあうといった説まであります。


 そんな説が本当なのかは、神隠しでこの世界に来た私にはわかりません。

 この世界が逆行転移の神隠しなのか、それともパラレルワールド別世界への神隠しなのか、やっぱり夢なのか、私には全然分かりません。

 だから最悪を考えると、御茶を飲む気にはなれないのです。


 長く待たされると思っていたのですが、以外と直ぐに徳川家治がやってきました。

 うっかり忘れていましたが、よく考えれば午前中の方が将軍は暇でした。

 中奥で政務を執るのは午後からです。

 朝食を済ませて、九時から朝の総触れで奥女中達のお目見えを行い、十時くらいから剣術や学問の鍛錬に励んでいたはずです。

 剣術や学問の鍛錬時間を、私に会う事に使ったのでしょう。


「上様の麗しき御尊顔を拝し奉り、わたくしめ恐悦至極に存じ奉りまする」


 緊張して何も話せない私に代わって、お登勢さんが話してくれます。


「うむ、苦しゅうない、面をあげよ」


 徳川家治であろう人が、土下座している私に話しかけますが、怖くて怖くてとても顔をあげることができません。


「神使様の話は主殿頭から聞いています。

 大納言の件も聞いています。

 どうか面を上げて話を聞かせてください。

 あり得る話だとは思ってはいますが、それでも信じきれないのです。

 いかに自分の子供を将軍にしたいからといっても、血の繋がった従甥を殺すとは思いたくないのです」


 土下座したままの私に、徳川家治が切々と話しかけてきます。

 確かに常識があって人情の通った人間なら、将軍世子殺しなどやらないでしょう。

 それに絶対にやったという証拠もありません。

 ですが歴史的な事実を丹念に検証したら、一橋治済の実子である徳川家斉が、父親が徳川家基を暗殺したと思っていた事は明白です。


「信じたくない気持ちはよく分かります。

 ですが主神様が、このまま何もしなければ大納言殿が死ぬだろうと言われました。

 人の運命には色々な岐路があります。

 その岐路に立って、どのような決断をするかで生死が分かれます」


 緊張のあまり声が震えてしまいましたが、何とか自分の考えを話せました。

 母から言われていた、追い詰められたら居直れる性格がでたのでしょう。

 そうでなければ、この場で卒倒していた事でしょう。

 何といっても徳川家治と直接話しているのです。

 不安と恐怖と喜びで、心がぐちゃぐちゃになっても仕方がない状況ですから。


「はい、それは分かっております。

 将軍の座を争って、徳川一門で凄惨な殺し合いがあったのも知っています。

 ですが信じたくないのです。

 何かの間違いだと思いたいのです、神使様」


 正直私はとても驚きました。

 徳川家治が敬語を使えることにとても驚きました。

 でもよく考えれば、家治も生まれて直ぐに将軍になったわけではありません。

 父親である徳川家重や祖父である徳川吉宗には、敬語を使っていたはずです。

 神使だと思っている私に敬語を使っても、おかしくはないのです。


「間違いだと思われるのなら、それでよいのですよ。

 それでどのような結果になろうと、それが将軍家の決断であり運命です。

 私が迂闊に口を滑らせたことで、歴史の流れが変わってしまって、主神様の御叱りを受けるのも嫌ですから、一橋殿の事を信じられればいいのです」


 もうこれ以上余計な事を言うのは止めましょう。

 さっきは思わず我をだしてしまい、自分の考えを口にしてしまいましたが、ひとつ間違えば、無礼討ちで殺されてもおかしくないのです。

 私には命懸けで徳川家基を助ける義理などありません。

 自分の本当の願望を知って、小説に生かすという考えで動いていましたが、殺されてまで知りたいとは思っていません。


「申し訳ありません、神使様。

 折角御告げくださったのに、失礼な事を口にしてしまいました。

 私が大納言を大切に思っている事に、嘘偽りはありません。

 もう二度と神使様の御告げを疑うような事は、口にしたりはしません。

 ですから、どうか私を見捨てないでください」

 

 徳川家治が本気で見捨てられる事を恐れているのが分かります。

 土下座をしたまま頭をあげないので、表情は分かりませんが、聞こえてくる声色からは、ありありと心情が伝わってきます。

 ですが、一旦怖いと思った気持ちはどうしようもありません。

 今更もう一度命懸けの忠告をする気にはなれません。


「大和守殿に頼まれて、主殿頭殿に対策方法を伝えました。

 具体的な方法は、主殿頭殿に聞いてください。

 私は、将軍家の怒りに触れて手討ちにされる気はありません。

 うっかり秘密を口にしてしまったので、主神様から神通力を取り上げられていて、人に殺されてしまう可能性もあるのです」


 土下座の姿勢のまま思いつく嘘を話しました。

 最初に誤解を解かずに嘘をついてしまったので、辻褄を合わせるために、嘘に嘘を重ねなければいけなくなっています。

 その場その場で、適当な事を口にしてしまう愚か者です

 そんな愚かな私でも、もうこれ以上何も言ってはいけないくらいは分かります。

 何か言うたびに墓穴を掘っている事に、ようやく自覚出来ました。


「それは申し訳ない事をさせてしまいました。

 大納言や私のために御告げしてくださったのに、身勝手に反駁してしまいました。

 それなのに重ねて御告げを願うなど、不敬極まりない事をしてしまいました。

 どうか御許しください」


 頭をあげていないので目にする事はできませんが、徳川家治が頭を下げている気配がします。

 気配は感じられても、自分の頭を上げて確認したりはしません。

 頭をあげて無礼を咎められるのは嫌だからです。

 このまま黙ってやり過ごすのが一番です。


「神使様、この通りでございます。

 どうか御許しください」


 徳川家治が先程以上に謝っている気配が感じられます。

 もしかしたら、先程以上に深々と頭を下げているのかもしれません。

 ですがもう関係ありません。

 余計な事を言わないのが一番です。

 しかし、このまま無視する方が、無礼討ちされてしまうかもしれません。

 どうすればいいのか分からなくなってしまいました。


「上様、神使様をこれ以上追い詰めるのは御止めください。

 神使様は、神通力が使えなくなっているかもしれないと口にされておられますが、本当なのかどうかは誰にも分かりません。

 これ以上神使様の御機嫌を損ねては、何が起こるか分かりません」


 お登勢さんが助け舟を出してくれました。

 ですが、田沼家の女中に過ぎないお登勢さんの言葉を、徳川家治が聞いてくれるとは思えません。

 普通は聞いてくれない気がします。


「そうか、よくぞ申してくれた。

 余は身の程も弁えずに神使様に口答えをしてしまった。

 救いの手を差し伸べてくださったのに、その手を振り払ってしまった。

 もう神使様に助けていただけなくても、仕方がないことであるな。

 分かった、諦めよう。

 本来なら神使様にはこのまま下城していただくべきであろう。

 だが蓮光院が西ノ丸で胸を痛めながら待っておる。

 子を想う母心に免じて、会ってあげてもらえないであろうか」


 私は徳川家治の言葉を拒絶するために、ずっと土下座を続けていました。

 そんな私を説得するのは無理と判断したのでしょう。

 徳川家治は、お登勢さんを口説き落とそうとしています。

 しかも母親の情を絡めて泣き落としを仕掛けてきます。

 私も母と離れてこんな状況になっています。

 ついほろりと情にほだされそうになります。


「承りました、上様。

 ここは私に任せていただけませんでしょうか。

 上様がおられては、私が頭をあげて神使様に御願いする事もかないません」


「そうか、そうだな、余はこの場を離れよう。

 後の事は頼んだぞ。

 その方、名は何と申す」


「上様に名を訊ねて頂けるなど、光栄の極みでございます。

 田沼家で家老を務めさせて頂いております、各務久左衛門の妻、登勢と申します。

 夫共々御見知りおきいただきたく、伏して御願い申し上げます」


 各務久左衛門といえば、最初にここに来た時に、田沼意次の供頭をしていた年配の武士ですね。

 私の記憶でも、田沼家の家老を務めていたはずです。

 算学と武芸の達人だと書いてあるのを読んだ記憶があります。

 何より、田沼意次と同じように、とても信心深かったとも書いてありました。

 妻であるお登勢さんも、とても信心深いのかもしれませんね。


「うむ、見知り置くぞ。

 後の事はくれぐれも頼んだぞ」


「御任せくださいませ、上様」


 私は二人がどのようなやり取りをしようと、頭をあげる気にはなりません。

 黙って頭を下げてやり過ごすのが一番です。

 もうこれ以上迂闊に何か喋って、立場を悪くする気はありません。


「神使様、上様は部屋から出て行かれました。

 どうかもう頭を御上げください。

 このまま神使様に頭を下げ続けていただいては、私も頭を上げられません」


 もしかして、お登勢さんもずっと土下座してくれていたのでしょうか。

 まあ確かに、徳川家治を前にして、陪臣の妻が頭を上げられるはずがないですね。

 ですが、私の様子を知っているという事は、上目遣いに私の事を確認しているという事ですね。


「お登勢さん、私はこのまま田沼家の屋敷に帰りたいのです。

 これ以上将軍家の争いに巻き込まれたくはないのです。

 急いで田沼家の屋敷に戻り、主神様に事の仔細を報告したいのです。

 主神様は全て御存じだとは思いますが、自ら額突いて御報告したいのです。

 直ぐに帰れるように手配してください」


 何が起こるか分かりませんが、田沼屋敷の御稲荷様に参詣しない事には、何も始まりません。

 もしかしたら、参詣するだけで元の世界に戻れるかもしれません。

 元に戻るためのヒントを得られるかもしれません。

 全ては御稲荷様に参詣して初めて得られる事です。


「神使様、誠に申し訳ないことではございますが、どうか曲げて西之丸に行っていただけませんでしょうか。

 子を想う母心に免じて、西之丸に御渡り願えないでしょうか。

 私も子を持つ母でございます。

 大切な子が死ぬと神仏に予言されてしまっては、母親が心配の余り生きた心地がしないであろう事は、想像できます。

 どうかそんな母心に免じて、御怒りを解いて頂けないでしょうか」


 これは困りました。

 気持ちがぐらぐらと揺れてしまっています。

 お登勢さんの言葉に胸を打たれてしまいました。

 小説家の母が、医者一族の父方親族に抵抗して、小説家志望の私を自由に育ててくれたのが、思い出されてしまいます。


 孤立無援の状況となって、自分が将軍家や田沼家を敵に回すような状況になって、ようやく母の偉大さが分かります。

 丹波康頼から続く名家の仕来りに逆らうには、とても勇気と実行力が必要だったのだと、今更ながら思い知らされます。

 私も母に負けない勇気が持てたらいいのですが、無理でしょうね。

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