第4話:自省と恐怖と話し合い

「こちらでございます」


 お登勢さんが若い奥女中四人に手分けさせて、本を持ってきてくれました。

 一人二十冊の本を持ってきてくれたので、八十冊位あります。


「ありがとうございます」


 私はそれだけ口にすると、手早く本を確認しました。

 ほとんど知らない題名でしたが、頼んでいた前野良沢先生と杉田玄白先生の書かれた『解体新書』がありました。

 江戸時代の女性の教科書と言われた『女大学』があります。

 頼んでいた貝原益軒先生の『養生訓』も当然のようにあります。


 上田秋成先生の『雨月物語』は記憶の片隅にあります。

「九九」「足し算」「掛け算」など基礎的な計算知識を算盤図で解説した、吉田光由先生の『塵却記』は読んでみたいと思えません。

 まあそれ以前に、漢文と古文で書かれていると私には読めません。


 諸大名や幕府役人の氏名、家紋、石高、給料、家系などを掲載した『武家名鑑』という本もあります。

 江戸の名所が書かれている『切絵図』にはとても興味をそそられました。

『武家名鑑』と『切絵図』を完璧に覚えれば、江戸で迷子になる事はないですね。

 やる事がなくて、時間を持て余している時に読むのなら、この二つですね。


「神使様、昼食の準備が整いました」


 そう言われて、初めて自分が本に夢中になっている事に気がつきました。

 顔から火が出るくらい恥ずかしかったです。

 ですがそれ以上に申し訳ない気持ちで一杯です。

 本に夢中になるあまり、お登勢さんを長時間無視していました。

「下がってください」の一言を言う気遣いすら出来ませんでした。


「申し訳ありませんでした、お登勢さん。

 あまりにも身勝手な事をしてしまいました。

 この通りです、どうか御許しください」


「とんでもございません、神使様。

 かけがえのない貴重な御告げをしてくださった、神使様に謝っていただくなど、滅相もない事でございます。

 どうぞ頭を御上げください」


 普通の人間が神使を偽装しているのです。

 そんな私が年上の女性に謝られると、申し訳なく思ってしまいます。

 私が必死で謝った事で、ようやくお登勢さんも謝るのを止めてくれました。

 江戸時代の人々にとって、神仏はとても近しい存在なのだと分かりました。

 お登勢さんも田沼意次も、神仏がいると信じているのです。


「お登勢さん、一人で考えたい事があります。

 その間にお登勢さんは休んでいてください」


「はい、分かりました。

 遠慮せずに休ませていただきます。

 ただ神使様を御一人にする事はできませんので、隣の部屋に女中を控えさせておきます。

 何かあれば声をかけてください」


 お登勢さんの給仕で昼食を終えた後で、一人にしてもらいました。

 切実に一人になりたいと思ってしまったのです。

 ですがそれは許されませんでした。

 洋室と違って、襖や障子でしか隣の部屋と区切られていない和室は、どうしても一人になったという感覚が得られないのです。


 それによくよく考えれば、私が逃げないように見張られているのだと思います。

 徳川家基が、一橋治済一味に殺されてしまうかもしれないとまで言ったのです。

 そんな秘密を知っている相手を、例えそれが神使であろうと、自由にさせるはずがないのです。


「御不浄に行ってきますね」


 私は逃げようとしていると思われないように、控えている女中に声をかけました。

 廊下に出て便所に行く間に、庭や近くの部屋に見張りがいないか確認してみましたが、予想通り、物々しく襷掛けした若侍が庭を警備しています。

 廊下を右に曲がった先にある部屋の障子が、少し開いています。

 私の部屋を見張るのに、丁度いい場所にある部屋です。

 もし私がトイレに行くと言って部屋を出ていなければ、見張っている若侍に取り押さえられていたかもしれません。


 これではどう考えても逃げられそうにありません。

 これが夢ならいいのですが、夢ではなく、神隠しである可能性もあります。

 最悪の場合、田沼意次に殺されてしまう可能性が出てきました。

 そう思っただけで、がたがたと震えたしまいます。

 どうすればいいのか全く何も思い浮かびません。


 取り敢えず田沼意次には逆らわない事にしましょう。

 私は本当に愚かですね。

 夢だと考えて、調子に乗ってしまいました。

 徳川家基が暗殺される事など口にしなければ、ここまで追い込まれてしまう事はなかったのに。


 あまり長くトイレにいると、引きずり出されてしまうかもしれないと思い、用を足して部屋に戻りました。

 何もしていないと、恐怖のあまり大声で叫びだしそうになってしまうので、必死で本の世界に没頭しました。

 漢文や古文の長文を、読んで理解するのは難しいので『武家名鑑』と『切絵図』を丸暗記する心算で見比べました。


 もし田沼意次の屋敷を逃げるなら、どこにどう逃げればいいのか、食い入るように見比べて丸暗記しようとしました。

 この屋敷から逃げて江戸の町に潜むことができるでしょうか。

 江戸の事を何も知らない愚かな娘一人が、逃げ切れるでしょうか。


 人別改めがあり、身元のはっきりしない人間を長屋に住まわせたら、家主や大家が連座で罪に問われる江戸では、私は部屋を借りることすらできないでしょう。

 これが江戸に詳しい人間ならば、裏金を使って潜り込むことができたのかもしれませんが、私にはそんな知恵もなければ御金もありません。


 直ぐに逃げることはできないでしょうが、逃げる時の準備は、怠らずにしておかなければいけません。

 備えあれば患いなしとまでは言いませんが、逃げることができるような幸運に恵まれたのに、準備不足で逃げられなかったなんて、愚かすぎます。


「神使様、休ませてくださってありがとうございました。

 御陰様で十分休むことができました」


「いえ、こちらこそお登勢さんの事を忘れて、本に夢中になってしまい、大変失礼しました」


「ところで、殿が食事を御一緒したいと申しておられるのですが、神使様の御都合はいかがでしょうか」


 本当は怖くて会いたくないのですが、自分が置かれた現実が分かってしまった今では、田沼意次の願いを拒否する事などできません。

 それに元の世界に戻るためには、田沼意次の許しと協力が必要不可欠です。

 これが最初思っていたように、夢ならいいのです。

 でも夢でないような気がしてきたのです。


 今のこの状況が、夢ではないという前提で動くしかありません。

『武家名鑑』と『切絵図』に集中しようと思いながら、どうしても集中できない時に、これからどうするかを考えてしまっていました。

 その結論は、殺されないように出来る限り協力する事です。

 その上で、毎日御稲荷様に参詣させてもらう事です。


 昼の間に嫌というほど色々と考えました。

 どう考えても御稲荷様に関係しているとしか思えません。

 私が向こうの世界でいた場所は、伏見稲荷大社です。

 こちらの世界に現れた場所は、田沼意次の屋敷にある御稲荷様です。

 元の世界に戻るためには、田沼屋敷の御稲荷様に詣でる事だと思ったのです。


「ええ、喜んで一緒に食事させていただきます」


「嫡男の大和守様も御一緒させていただいて宜しいですか」


 嫡男という事は、佐野政言に殺された田沼意知の事ですよね。

 田沼意知が佐野政言に殺される事を、田沼親子に言うべきかどうか考えました。

 考えた結果、もう余計な事を言うのは止めました。

 もし言うとしたら、どうしても元の世界に戻れなかった時です。

 田沼親子の助力がなければ、この世界で生きていけないと分かった時です。


「ええ、大丈夫ですよ。

 喜んで一緒に食事させていただきます」


 私と田沼意次と田沼意知は、最初にとりとめのない挨拶をしました。

 もっとも私は自分から話さずに返事をするだけです。

 それもお登勢さんに助けてもらってです。

 現状を思い知った二十歳前の私に、歴史に大きく名を遺すような、田沼意次と対等に会話できるはずがないのです。


「神使様、明日登城していただくことになりました。

 何卒よろしくお願い申し上げます」


「分かりました、行かせていただきます。

 ただ私に大奥の作法が分かるでしょうか。

 無作法をして、大奥の老女に咎められたりしないでしょうか」


「それは大丈夫です、御安心ください。

 上様を通して、奥には十分な手配りをしております。

 お登勢を付き添いとして同行させますので、安心されてください」


 私の肩から一気に力が抜けるのが分かりました。

 覚悟を決めて大奥に行くことにしたとはいえ、無意識に身構えていたのです。

 お登勢さんが一緒に行ってくれると聞いて、一気に楽になりました。

 

「神使様、ひとつ御聞かせ願いたいことがあるのですが、宜しいですか」


 田沼意次が話すのを黙って聞いていた、田沼意知が話しかけてきました。

 やっと力の抜けた肩に、再び力が入るのが自覚されます。


「何事でしょうか。

 私に答えられる事でしたらいいのですが」


「大納言様が狙われる理由は十分理解できます。

 やりそうな者が誰なのかも理解できます。

 その事を気付かせてくださった、神使様にはとても感謝しております。

 しかしながら、人とは勝手なものでございます。

 そこまで教えていただけるのでしたら、防ぎ方も教えていただきたいと思ってしまうのです」


 田沼意知は生真面目な性格なのでしょうか。

 私の眼をしっかりと見つめながら、強く話してきます。

 田沼意次もそれを止めようとしません。

 お登勢さんも助けてくれません。

 私を助けてくれる者は誰一人いません。


 私が両親や祖父からどれほど守られていたのかよく分かりました。

 でも今は、自分の事は自分で護るしかありません。

 ですが何を言えば正解なのかが分かりません。

 分かっている事は、嘘をつき続けるしかないという事です。

 私を護ってくれているものは、田沼意次が私を神使だと思っている誤解だけです。


「その事は、主神様や神使達の間ででた会話だけしか知りません。

 人のために勝手に神通力を使うことも禁止されています。

 だから答えられる事は限られています」


「そこをまげて何とかお答えいただけないのでしょうか。

 大納言様を御守りしたいのです。

 上様が哀しまれる事は防ぎたいのです。

 この通りです、どうか御願い致します」


 田沼意知が深々と頭を下げます。

 畳に額をするつけんばかりに、土下座しています。

 

「私もこの通りでございます。

 どうか御願い致します」


 田沼意知に続いて、田沼意次まで土下座しています。

 祖父や叔父と変わらない年齢の人に、本気で土下座されてしまうと、精神的に圧倒されてしまいます。

 これでは何か方法を考えなければいけません。

 全く何も方法が思い浮かばないわけではありません。

 母が小説で書いていた方法や、私が小説のネタとして考えている方法があります。


「分かりました。

 ただし実現できるか事なのかどうかは、私には分かりません」


「それでも構いません。

 どうか御指南願います」


「では申し上げさせていただきます。

 一日でも早く大納言殿に子供を作ってもらう事です。

 後継者さえ生まれれば、二人も殺さなければいけなくなります。

 それが抑止力になるでしょう。

 もうひとつの方法は、将軍家にもう一人男子を儲けてもらう事です。

 大納言殿を殺しても、他に将軍家を継ぐ方がおられれば、それも大納言殿暗殺に対する抑止力になります」


 私がそう言うと、田沼意次と意知が顔を見合わせました。

 突拍子もない事を言うと思ったのでしょうか。

 それとも徳川家基も徳川家治も子作りができないのでしょうか。

 家治は年齢的に子作りができなくなっている可能性はあります。

 でも家基なら血気盛んな年齢のはずです。


「確かにその方法が成功すれば、敵も暗殺に二の足を踏むかもしれません。

 ですが確実に子供ができるとは限りません。

 上手く子供が生れたとしても、その子供が男子である可能性も半分です。

 何よりも無事に育つとは限りません。

 哀しい事ではありますが、将軍家といえども子供の運命は変えられません」


 確かにこの時代の乳幼児死亡率は極端に高いです。

 ですがそれはなんとか出来ると思います。

 母が小説に使っていた将軍家の子供が夭折する原因は、女達が使う鉛入りの白粉でしたが、私には別のネタがあります。


 母を超える小説を書くために集めた資料の中に、この時代は生まれたばかりの子供に解毒剤を飲ませていた事があります。

 この時代の育児書に書かれていた常識では、新生児が青黒く生まれるのは母親の胎毒に犯されているから、下剤を飲ませて毒を排泄させなければいけないとあります。

 新生児に解毒剤という名目の下剤を飲ませるのが、とても危険な事なのは、誰にだってわかるでしょう。


「赤子を死なせない方法はあります。

 だからその点は心配しないでください。

 だからとにかく子供をつくる努力をしてください。

 本気で大納言様を護りたいと思うのなら、形振り構わず行動してください。

 主殿頭殿と大和守殿は、本気で大納言様を助けたいと思っておおられるのですか」


 自分の小説のネタがからんでいるせいか、夢中になって言い放ってしまいました。

 最初は自分の命を最優先して、当り障りのない事だけを言う心算でしたのに。

 もしこの田沼意次と意知の言動が、徳川家基暗殺の意思を隠すためだったとしたら、私は自分から殺されに行っているも同然です。

 もうこれ以上何も言わない方がいいでしょう。

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