第3話:田沼主殿頭意次
「失礼致します、入って宜しいでしょうか、神使様」
廊下から田沼意次が声をかけてきます。
江戸城から下がってきたのでしょう。
私には江戸の時間は分かりませんが、老中である田沼意次が下城した来たという事は、午後二時以降でしょう。
普通の老中なら必ず午後二時に下城するのでしょうが、徳川家治からの信頼が厚い田沼意次なら、残業した可能性も高いので確実な時間は分かりません。
まして今朝私から徳川家基の死を聞いているのです。
徳川家治と色々話し合ったはずですから、遅くなって当然です。
何を話したのか、いえ、この夢の中で私が二人に何を話して欲しいと願っているのか、確認する必要がありますね。
「はい、どうぞ御入りください」
「失礼いたします」
朝と同じように、田沼意次が膝行で部屋に入ってきました。
なかなか頭をあげてくれません。
私が戸惑っていると、側にいたお登勢さんが助け船を出してくれました。
「殿、神使様は武家の行儀作法は御存じないようでございます。
何卒その点を御考えくださいませ」
どうやら私が「面をあげよ」と言わなければいけなかったようです。
ですがそんな偉そうな言葉は、とても口にできません。
朝は勢いで口にできましたが、徐々に口が重くなっています。
「これは重ね重ね失礼致しました。
神使様に武士の礼儀作法を強要するなど、恐れ多い事でございました。
お登勢、これからは御前が神使様に成り代わって、皆に言葉をかけてくれ」
「御任せくださいませ」
お登勢さんの御陰で助かります。
「神使様、今朝御聞かせいただいた事を、上様に御話させていただきました。
上様は大変驚かれて、急ぎ神使様に御登城して頂き、直接詳しい御話しを聞かせて頂きたい申されています。
どうかわたくしと一緒に御登城して頂けませんでしょうか」
もし本当に江戸城に登城できるのなら、これほどの幸運はありません。
これが夢ではなく本当の神隠しだったら、最高の出来事です。
ですが本当に神隠しだったら、とても大きな問題があります。
江戸城の表は女人禁制だったはずです。
女の私が江戸城に登城する事は不可能です。
「残念ですが私は女なのです。
確か女は江戸城の表には入れなかったのではありませんか」
私がそう言うと、田沼意次はそっと視線をお登勢さんに向けました。
お登勢さんがしっかりとうなずいてくれます。
御風呂に入った時に、私が女だと確認してくれていたのでしょう。
「分かりました。
それでは奥から入っていただきます。
幸い神使様は髪をおろされておられます。
それに尼僧は男でも女でもない存在になります。
尼僧として入って頂くのが一番安全でしょう」
ああ、そうでした、そうでした。
仏門に入った女性は、完全に頭の毛を剃って丸坊主にするのではなかったでした。
肩のあたりにそろえるのでしたね。
ショートカットの私は丁度そのように見えるのでしょう。
でも、どうせなら少し遊びを入れてみましょうか。
いえ、遊びではなく、安全の確保です。
徐々にこれが夢ではなく、神隠しかもしれないという恐れが出てきています。
大奥で女達に意地悪されるのも嫌ですし、力を見せておいた方がいいでしょう。
医学部受験には失敗していますが、鍼灸の技は家に勤める鍼灸師から手ほどきを受けていて、鍼灸師達からは筋がいいと褒められています。
「主殿頭殿、私は鍼灸の覚えが多少ありますから、そのような役目で奥に入る事は可能ですか」
「おお、それは有り難い事でございます。
鍼灸が御出来になるのでしたら、その役目を理由に奥に入っていただけます。
西ノ丸にも、蓮光院様の治療という名目で入って頂けます」
蓮光院という名前には覚えがないですね。
「主殿頭殿、今朝の話は誰に話してくれたのですか」
「上様と大納言様、それに蓮光院様でございます」
蓮光院が西ノ丸に住んでいるというのなら、徳川家基の関係者ですね。
「何か言われませんでしたか。
私の話した事を信じてもらえたのですか」
「上様はそのような事もあるかもしれないと言われておられました。
蓮光院様は、大納言様の事をとても心配されておられました。
しかし残念ながら、大納言様には信じていただけませんでした」
やはり田沼意次と徳川家基は、あまり上手くいっていないようですね。
これでは、徳川家基を護りきるのは無理かもしれません。
どれほど田沼意次が気をつけていても、狙われている本人が好き勝手してしまったら、とても護りきれるものではありません。
下手をしたら、田沼意次に反発して、自分から危険な事をするかもしれません。
「恐れながら御願いの儀がございます」
田沼意次が真剣な表情と声色で話しかけてきました。
とんでもなく嫌な予感がします。
聞きたくないので返事をしたくありません。
「殿、神使様から人の願いを聞くとは言い難いかもしれません。
神頼みをしてみて、成るか成らぬかは神の御心次第ではありませんか」
なのに、お登勢さんがとんでもない事を口にしてしまいました。
「おお、そうであったな。
よくぞ申してくれた、お登勢。
ならば勝手に願掛けさせていただきます。
願いが叶わなかったとしても、決して神使様を御恨みするような事はありません。
ですが、もし出来る事なら、神使様に神通力を使っていただきたいのです。
大納言様が自分の事を真剣に気をつけてくださるように、臣の言葉を信じてくださるように、神通力を使っていただきたいのです」
田沼意次が真摯な態度と言葉で願いを口にします。
そんな事を言われても、困ってしまいます。
夢の内容を私の好きに動かす事などできません。
それに、もしこれが夢ではなく本当の神隠しだったとしたら、猶更無理です。
医学部受験に二年続けて失敗するような私には、何の力もないのです。
「神使に過ぎない私が、主神様の許可なく人の願いをきく事は出来ません。
少なくとも神通力を使うことは許されません。
私にやれるのは、鍼灸の治療くらいのものです」
「左様でございますか。
勝手を申してしまいました。
ですが諦めずに御稲荷様に願掛けさせていただきます」
田沼意次の表情と声色には、明らかな落胆を感じてしまいます。
私だって、出来る事なら神通力を振るいたいです。
夢なのですから、空を翔ける事だって出来るはずなのです。
ですが、今やってみようとしても、空を翔けることは出来ません。
私の性格のせいなのか、夢であろうと、荒唐無稽な事は出来ないようです。
「そうしてください。
神使の私は、主神様の許可なく勝手な事は出来ませんから」
屋敷の主人の願いを断ったのに、そのまま屋敷に留まらなければいけません。
正直もの凄く居心地が悪いです。
田沼意次とお登勢さんは、断る前と同じように歓待してくれますが、護衛の若侍や他の奥女中の視線が痛いです。
私の考えすぎかもしれませんが、厳しい目で見ている気がしてしまいます。
私の気の弱さの所為でしょう。
朝昼には美味しく食べられた食事が、夕食では何の味も感じられません。
田沼意次と一緒に食べたので、とても緊張していたのもあるでしょうが、それ以上に影響があったのは、願いを叶えられなかったことに対する負い目でしょうね。
今日一日色々あったからでしょうか、味の感じられない夕食の後直ぐに眠くなってしまい、お登勢さんに頼んで布団を敷いてもらいました。
夢の中でまた眠るなんて、笑い話ですが、邯鄲の夢のように、一夜で一生の夢を見るという話もありますから、夢の中で一晩眠るくらい大したことではありません。
困りました。
真っ暗な深夜に目が覚めてしまいました。
江戸時代に蛍光灯やLEDなどありません。
明るい夜に慣れてしまった私には、とても辛いです。
トイレの場所は明るいうちに教わりましたが、とてもいけそうにありません。
「神使様、御眠りになれませんか」
びっくりしました。
心臓が口から飛び出しそうになるくらいびっくりしました。
隣の部屋から若い女性が声をかけてくれました。
「御不浄に行きたくなったのですが、暗くて行けないのです」
恥ずかしかったのですが、尿意が激しくて、そんな事は言っておられません。
隣の部屋の女性が案内しててくれれば助かります。
「直ぐに灯りを用意して案内させていただきます」
親切な事に、隣の部屋にいる女性が案内を買って出てくれました。
「神使様、私の後に着いてきてくださいませ」
隣の部屋にいた女性が、一旦廊下に出てから声をかけてくれました。
障子の影に優しい光が見えます。
蠟燭を立てた手燭を持っているのが分かります。
歴史時代小説家を志している私だから分かりますが、同年代の子は手燭など見た事も聞いた事もないでしょう。
「ありがとうございます」
夜中だというのに、女中さんはちゃんと着物を着ています。
隣の部屋で寝起きしている奥女中という訳ではないようです。
もしかして、私のために宿直をしてくれていたのでしょうか。
そうだとしたら、申し訳なさ過ぎます。
できれば私に関係なく宿直があって欲しいです。
「こちらでございます」
若い奥女中が案内してくれたのは、昼にも使った昔ながらの日本のトイレです。
当然水洗ではありませんし、陶器の便器もありません。
穴が開けられた周りに木枠が嵌め込まれていて、木製の蓋がしてあります。
その蓋で臭気が上がらないようにしてあるのでしょうか。
ただ、私が神使だと思われているからだと思いますが、母の資料で見た事のある、江戸時代の長屋にあった汲み取り式の便所とは違って、とても高価な造りでした。
二畳ほどの小部屋になっていて、板張りではなく畳が敷かれています。
よほど便意が強くなければ、使いたくない便所です。
「おはようございます、神使様。
宿直から御聞きしたのですが、あまり眠れなかったのですか」
お登勢さんが心配そうに声をかけてくれます。
確かに一度起きた後は眠れませんでした。
もしかしたら、これは夢ではなくて本当の神隠しかもしれないと思うと、怖くて眠れなくなってしまったのです。
「ええ、色々不安な事があって、眠れなくなってしまったのです。
御城に行って、襲われたらどうしようかと思ってしまったのです」
「大丈夫でございますよ。
殿はとても信心深い方でございます。
神使様に危険が及ぶような事は絶対になされません。
安心してくださいませ」
お登勢さんはそう言ってくれますが、不安は解消されません。
徐々にこれが、本当の神隠しなのかもしれないという想いが強くなっています。
何かあって殺されたしまったら、それで私の人生は終わりなのです。
恐らく元の世界では、医学部受験に失敗した事を恥じた私が、家出をしたと思われてしまうでしょう。
そんなことになってしまったら、母が叔父達に責められるでしょう。
祖父や父も言葉にはしなくても、責めるような視線を向けてしまうでしょう。
そうさせないためには、何が何でも生きて元の世界に戻らなければいけません。
これからの言動は、慎重にしなければいけません。
「ええ、分かっています。
でもとても不安になってしまうのです」
私が色々と思い悩んでいる間に、廊下に人影が写りました。
「失礼致します、入って宜しいでしょうか、神使様」
「はい、どうぞ御入りください」
私の代わりにお登勢さんが答えてくれます。
昨日の約束を完璧に果たしてくれています。
「失礼致します」
今日も田沼意次が膝行で入って来てくれました。
ですが今日はあまり話をせず、心は籠っていましたが、簡単に挨拶しただけで部屋から出て行ってくれました。
「神使様、申し訳ありません。
殿は毎朝多くの人々から陳情嘆願を受けられますので、とても忙しいのです」
そうでした、そうでした。
月番老中なら月のうち十日ほど、非番老中でも月のうち二日は対客日があって、午前五時から午前七時くらいまでの間に、百人くらいと会っていたはずです。
平民の陳情嘆願を門前払いする他の老中でその人数です。
田沼意次は身分に関係なく会ってくれるので、もっと多くの人間が陳情嘆願に来ていたと、母の小説で読みました。
田沼意次を叩く歴史家は、それを賄賂の象徴だと書いていましたが、田沼意次を擁護する歴史家は、普通の老中は平民の相手をしなかったから、平民が陳情に行かなかっただけだと書いていましたね。
こう考えると、真面目に働くなら、老中はとても大変な役目ですね。
早朝から陳情や嘆願を聞き、その後で登城して幕府の政務をする。
下城してきたら自分の領地の政務もしなければいけないのです。
全てを幕府の下役や家臣に任せれば楽でしょうが、そうでなければ大変です。
田沼意次が権力を握ってから、徳川将軍の個人経費は三割もカットされています。
田沼意次が本当に不正や汚職をする家臣で、不正蓄財をしていたのなら、徳川家重と徳川家治の二代に渡って、あれほど重用されるはずがありません。
政敵で性根の腐っていた松平定信が権力を握ってから、汚名を着せたのです。
母の小説もそのような考えで書かれていました。
私もその通りだと思いますが、母と同じ考え方と切り口で小説を書いてしまったら、パクリだと叩かれてしまいます。
どこで違いをつけるかがとても大切ですね。
「神使様、何か御悩みですか」
「いえ、何でもありませんよ。
ちょっと考え事をしていただけです」
お登勢さんが心配そうな表情で私を見てくれています。
先程弱気な発言をしたので、気にしてくれているのでしょう。
とてもありがたいことです。
「左様でございますか。
気になる事がおありでしたら、先ほどのように何でも御話しください。
殿と相談して、出来る限りの事させていただきます」
「ありがとう、お登勢さん。
何でも話させてもらいますね」
「そうそう、昨日仰られていた本が集まりました。
直ぐに見られますか」
「本当ですか、直ぐに見せてください」
落ち込んでいた私の気分が、一瞬で晴れました。
昔から活字さえあれば幸せだった私です。
漢文や古文で書かれていて、殆ど読めないとしても、本さえあれば幸せです。
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