第2話:無礼

 夢にまで見た羽衣煎餅はとても美味しかったです。

 湯殿も江戸の主流だったという鉄砲風呂でした。

 予測通りだったのは嬉しいのですが、快適な現代の御風呂に慣れた私には、物珍しいだけでとても不便でした。


 だってシャワーも何もないのです。

 大名家なので石鹸はありましたが、リンスもトリートメントもありません。

 石鹸で髪を洗うと、髪がごわごわになってしまいます。

 だから夢だと分かっていても、髪は洗いませんでした。


「神使様、田沼主殿頭でございます。

 入ってよろしいでしょうか」


「はい、御入りください」


 そう言いながら、どうしていいのか全く分かりません。

 神使に誤解されている私は、ここに座って待てばいいのでしょうか。

 それとも立って田沼意次を迎えるべきなのでしょうか。

 或いは自分で障子を開けた方がいいのでしょうか。

 まったく作法が分からず、おろおろとしてしまいます。

 思わず側にいてくれるお登勢さんに視線を向けてしまいました。


「失礼致します」


 お登勢さんが大丈夫だと目で合図してくれました。

 直ぐに田沼意次であろう男性が障子を開けて部屋に入ってきました。

 やはり本気で私の事を神使だと思っているようです。

 私を敬う気持ちを表すために、膝行で部屋の中に入って来てくれました。

 どうしていいのか分からない私に、またお登勢が目で合図してくれました。

 その合図で、ようやく今の自分に相応しい言葉が出てきました。


「面を上げてください、主殿頭殿」


 私の言葉を受けて、ようやく田沼意次が顔をあげてくれました。

 想像していた通り、気真面目そうな顔つきの男性です。

 最近ようやく一般的にも見直されるようになりましたが、昔は汚職政治家の代表のように叩かれていた方です。

 ですが最近の資料から、清濁併せ吞む政治家だという説が定着し始めています。


「神使様、よく我が屋敷に現れてくださいました。

 何のおもてなしもできませんが、できる限りの歓待をさせていただきます。

 私はもう直ぐ登城しなければいけませんが、後の事はお登勢が御世話させていただきますので、好きなだけ御逗留ください」


 これはいけません。

 私は早朝に昏倒しているので、夢も朝になっていたようです。

 老中は普通四つ(午前十時頃)の太鼓を合図に屋敷を出て、四つ半頃(午前十一時頃)に登城したはずです。

 普通の老中は月番や非番があったはずですが、忠誠心の強い田沼意次は毎日登城していたはずです。


「主殿頭殿、どうしても聞いておかなければいけない事があります」


 どうせ夢です。

 目が覚める前に聞きたいことは聞いておくべきです。

 無礼だと斬られたとしても、目が覚めるだけです。

 小説を書くためには、自分の願望をしっかり確認しておくべきです。

 そうでなければ自分が本当に書きたい小説は書けない、と言うのが母の教えです。


「私に答えられる事でしたら、何でも答えさせていただきます」


 田沼意次が表情を引き締めて答えてくれます。

 あまりにも失礼な事を聞く心算なので、思わず言葉に詰まってしまいました。

 部屋の中にはお登勢さんしかいませんが、廊下には供侍がいます。

 斬られても目が覚めるだけだとは思っていても、口にするには度胸が必要です。

 だって夢でも恐怖や痛みは実感してしまうのですから。


「今がどの時代なのか私には分かりません。

 だからまだやっていないかもしれません。

 その時には、今そのような計画があるのか教えてください。

 世子様、竹千代様を殺したのは主殿頭殿ですか」


「な!」


 私はこの時の田沼意次の表情を一生忘れないと思います。

 信じられない言葉を聞いた時、人はこんな表情をするのですね。

 鳩が豆鉄砲を食ったようというの言葉を、この表情で初めて実感出来ました。

 でもこれで確信出来ました。

 やはり田沼意次は、徳川家基暗殺には加担していなかったのです。

 まあ、これが私が望む小説の筋立てなのでしょうね。


「神使様は私が大納言様を害すると申されるのか」

 

 ここまで来たら、最後まで夢の世界を愉しみましょう。

 この夢を、そっくりそのまま小説にしてもいいのですから。


「いえ、私には未来を見通す力などありません。

 そのような可能性がある事しか分からないのです。

 ただ、以前主神様から伺ったことがあるのです。

 竹千代様が、毒を盛られるか落馬するかで亡くなられるという話を。

 それで、それを主殿頭殿が知っておられたかどうか、確認したかったのです」


「この田沼主殿頭意次、天地神明に誓って関わりないと申し上げます。

 この首にかけて、大納言様の死に関係していません。

 ですが本当なのですか、本当に大納言様が殺されてしまわれるのですか」


 田沼意次が必死の形相で私に迫ってきます。

 本気で徳川家基の事を心配しています。

 私が読んだ資料の範囲では、徳川家基は田沼意次の政策に批判的だったはずです。

 それなのにここまで本気で心配するのですね。

 でもそれも仕方がないのかもしれませんね。


 徳川家治に後継者のいない事を憂いた田沼意次が、家治に側室を勧めた時に、意次も側室を持つなら自分も側室を持つと家治が言ったそうです。

 徳川家基がその時にできた子供なら、意次が家基を愛するのも分かります。

 それとも、まだ徳川家基は田沼意次を批判いていないのでしょうか。

 あ、いけませんね。

 これが私の恐れや願望を反映した夢だという事を、つい忘れてしまいます。


「殺されたのか事故なのか、私の力では分かりません。

 そう仰られたのは主神様なのです。

 ただこのまま何もしなければ、亡くなられるのは間違いありません。

 それを避けたければ、大納言殿を護るための手段を講じなければいけません。

 ただそのためには、殺す理由のある相手をはっきりさせなければいけません」


 凄いですね。

 私の言葉を聞いた田沼意次の表情が一変しました。

 決意に満ちた漢の表情というのは、こういうものなのですね。

 どのような障害があろうと突破してみせる、という気概に満ちた表情です。

 

「大納言様を弑逆して利を得る者。

 それは次期将軍の座を狙う者ですね、神使様」


「はい、恐らくその通りでしょう。

 神使仲間で話していたのは、欲深い一橋殿が、自分の子供を将軍にしたくて、大納言殿を殺したのだろうという話でした。

 ただその時には、その計画に主殿頭殿と白河殿が加担しているという話でした。

 ですが主殿頭殿が加担していないと言われるのなら、一橋殿がやらせたのではないのかもしれませんし、白河殿も加担していないかもしれません」


「左様ですか。

 ですが、だからといって、何もしない訳には参りません。

 大納言様が死ぬかもしれないと分かった以上、全力で御守りするだけです。

 もし一橋公と白河公がそのような事を考えているというのなら、例え殺してでも防ぐだけです」


 怖い、あまりにも怖過ぎます。

 先程までの恭しい態度がまるで嘘のようです。

 まるで血に飢えた猛獣の前にいるようです。

 これが私の深層心理にある恐れなのでしょうか。

 それとも私が望む田沼意次像なのでしょうか。


「これは失礼してしまいました。

 掛け替えのない御告げをいただいたというのに、御礼も申し上げず、自分の考えに耽ってしまいました」


 殺気に満ちていた田沼意次の表情が、一変しました。

 先程までのような、温和な表情に戻ってくれました。

 いつの間にか背中に汗が流れていたようで、悪寒を感じてしまいます。

 激怒した田沼意次に斬られなかっただけでも、運がよかったのかもしれませんね。

 夢でも痛覚はありますし、その痛みで心臓麻痺を起こすこともありますから。


「神使様の御陰で、直ぐにやらなければいけない事が分かりました。

 貴重な御告げを与えてくださった、神使様に対して失礼極まりない事ではありますが、これも臣の将軍家に対する忠義と御許しください」


 少しでも早く登城して対策を立てるのでしょうね。

 徳川家治に事情を話して、徳川家の総力を使って家基を護るのでしょう。

 ならばもう少し私の知っている情報を伝えておきましょう。


「主殿頭殿、では私が他の神使から聞いた話を全て伝えておきます。

 一つは、一橋殿が奥医師の池原雲伯を抱き込んで毒殺したという話です。

 もう一つは、大納言殿がペルシャ馬を駆けさせていて落馬したという話です。

 池原雲伯が毒殺を決行したのも、大納言殿が馬を駆けさせていた時です。

 参考になるかは分かりませんが、覚えておいてください」


 私がそう言うと、急いで登城しようとしていた田沼意次が居住まいを正しました。

 思わず見とれてしまいそうになるくらい、魅力的な姿です。

 これが若い頃には大奥中の女性を夢中にさせたという、男振りなのでしょうか。


「大変貴重な御告げを賜りましたこと、心から御礼申し上げます。

 神使様の御厚情に報いるためにも、大納言様は必ず護ってごらんに入れます」


 田沼意次はそう言うと、私に背中を見せずに、膝行で後方に下がっていきました。

 まるで時代考証の確かな時代劇を見ているようです。

 

「神使様、遠慮せずに御腹一杯御食べください」


 私が呆然としているとお登勢、お登勢さんが食事を勧めてくれました。

 饅頭と羽衣煎餅を食べた御陰か、激しい空腹は収まりましたが、まだ御腹が減っているのは確かです。

 遠慮せずに食べさせてもらうことにしました。


 夢だとは分かっていても、田沼意次を前にして食べるのは緊張した事でしょう。

 早々に登城してくれて助かりました。

 それに夢なので、全てが自分の思い通りになるとは限りません。

 食べようと好物を口に持ってきた途端、目が覚める可能性もあります。

 何時目が覚めるか分からない以上、やりたいことは直ぐにやるべきですよね。

 聞くべき事や言うべき事は、急いでやっておかないと後悔します。


 多分ですが、朝にも限らず御馳走を用意してくれたのでしょう。

 とても大きくて立派な鱚の塩焼きがメインデッシュです。

 高野豆腐、茄子、椎茸、人参、さやえんどうの煮物が副菜でしょうか。

 香の物として大根の糠漬けがそえられています。

 浅利の味噌汁もついています。

 もちろん白御飯が主食です。


 おいしい!


 私が読んだ書籍では、この時代の白御飯は現代日本よりも美味しくなかったと書いてありましたが、とんでもない、とても美味しいです。

 昏倒している私は、とても空腹なのかもしれません。

 空腹は最高の調味料と読んだことがあります。

 早く誰かが見つけて助けてくれればいいのですが、少々心配です。


「神使様、食後の大福餅を御用意させていただいておりますので、それを御考えの上で御食べください」


 恥ずかしい。

 顔から火が出るくらい恥ずかしいです。

 たぶん、とても行儀の悪い早食いになっていたのですね。

 それを直接言わずに、遠回しにやんわりと注意してくれたのです。

 そうでなければ、私が苦しくなるくらい食べ過ぎてしまわないように、注意してくれたのでしょう。

 

「ありがとうございます。

 御菓子は後で御茶と一緒に食べたいのですが、いいですか」


「はい、結構でございますよ。

 主からは、出来る限り神使様の望まれる事を叶えるように、申し使っております。

 必要な物もできる限り取り寄せさせていただきます。

 何なりと御申し付けください」


 お登勢さんがとても丁寧に答えてくれました。

 本もスマホもテレビもない世界では、時間を持て余してしまうでしょう。

 あ、この夢の中での本は、どんな文字で書かれているのでしょうか。

 夢だから、私の知っている現代仮名遣いで書かれた本が出てくるのでしょうか。

 それとも、古文や漢文で書かれているのでしょうか。

 それとも、本がないと断られてしまうのでしょうか。


「お登勢さん、本が読みたいのですが、何かありませんか。

 できれば伊勢物語や万葉集などではなくて、江戸の本が読みたいです」


「出来る限り手に入れさせていただきますが、何か特定の本はありますか。

 春本が読みたいのでしたら、若侍から手に入れてまいりますが」


 春本に興味がないわけではありませんが、今はいいです。

 春本を手にしたとたんに目が覚めてしまったら、自分の欲求不満が露になってしまって恥ずかしいです。


 江戸時代には貸本屋が流行っていて、今のベストセラーのように、千部達成したら本屋総出で氏神様に御参りに行ったと読んだことがあります。

 曲亭馬琴先生の『南総里見八犬伝』と『傾城水滸伝』はまだだったはずです。

 十返舎一九先生の『東海道中膝栗毛』も式亭三馬先生の『浮世風呂』もまだ書かれていなかったはずです。

 為永春水先生の『春色梅児誉美』もまだ書かれていませんね。


 よく考えると、江戸時代のベストセラーは十九世紀になってからですね。

 田沼時代よりも前に書かれた本は、何があったでしょうか。

 井原西鶴先生の『好色一代男』はもう完結していたはずですが、流石に『好色一代男』はお登勢さんに頼みにくいですね。


 でも近松門左衛門先生の『曽根崎心中』なら、同じ女性のお登勢さんに頼んでも恥ずかしくないですね。

 ああ、それと貝原益軒先生の『養生訓』がありますね。

 『養生訓』なら現代語訳された本を読んだことがあります。


「お登勢さん、春本以外で手に入る本なら何でもいいですが、貝原益軒先生の養生訓があれば嬉しいです」


 口にする直前に思い出してよかったです。

 近松門左衛門先生の『曽根崎心中』は、幕府に発禁処分にされたはずです。

 いえ、禁止されたのは芝居の方でしたか。

 どちらにしても老中の家中に読みたいと言うべきではありませんね。


「承りました、直ぐに用意させます」


 お登勢さんはそう言うと、先程のように奥女中を呼んで何か指示をされました。

 私に話を聞かせないようにしているのが、少々気になりました。

 私に隠し事をしているのか、それとも騙そうとしているのか。

 これが私の深層心理なのでしょうか。

 私は誰かに騙されることを恐れているのでしょうか。


「失礼致しました、神使様。

 今屋敷にある本を集めさせております。

 屋敷にあるようでしたら『養生訓』も一緒に持ってくるように申し付けました」


 お登勢さんが全く悪意を感じさせない表情で話しかけてくれます。

 とても私を騙して陥れようとしているようには見えません。

 だとしたら、先ほど私に聞かせないようにしたのは、礼儀なのでしょうか。

 江戸時代の礼儀作法を知らない事が、とても情けない思われます。

 もっともっと勉強したい。

 医学部の受験勉強ではなく、歴史時代小説を書くための勉強がしたい。

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