I06 この服を着ろと

 目の前で、愛しいひなぎくが微笑んでいる。

 お互いに狭いタイルの中で膝を折って。


「あなた、今夜もよろしくお願いいたしますわ」


「ああ、静花ちゃんな。おむつでもミルクでも楽しみで眠れないさ」


 こんなに幸せなことはない。

 涙を通り過ぎて、口髭が濡れそうじゃもん。

 お互いに時間が合わなくて、ちゃぷこんのひとときを持てなかった。

 やっとできた二人だけの時間を大切にしよう。


「先に髪を洗わせてくださいね」


「おう、遠慮するな」


 湯けむりの向こうで、妻が満面の笑みで見つめてくれている。

 老眼だが、それ位分からいでか。

 揺れるIカップのためなら、何でもしてあげたい。

 やましいようだが、心からそう思える。

 誓ってもいい。


「さあ、温泉お風呂から上がりましょう。あなたも綺麗になったわ」


 ついさっきまでは、そう思っていた。

 けれども、これは危険だ。


「すまない。やっぱり無理じゃもん……」


「似合うわ! とても似合うわよ、あなた」


 ひなぎくが太鼓判を押して俺に着せた服。

 俺もその気か、脱衣所の鏡に向かう。

 言われるがままにそのポージングをしてはみた。

 でも、駄目なんだ。

 これだけは、愛妻の願いを叶えられそうにもない。


「これを着て、一緒におねんねしましょうね」


 むむむむ、とびきりの笑顔がまた可愛い。

 この笑顔を曇らせるなんて想像するのも嫌だ。

 嫌だけれども、この格好だけは我慢ならない。

 

「ああ! 俺は一体どうするのじゃもん?」


 ◇◇◇


「結婚したら、夢だったの。お揃いのパジャマ」


 ひなぎくに着せられたのは、まあ、大したことはない。

 お揃いが怖くて、六人の父親を老眼でやれるか。

 ただ、ひなぎくのセンスを疑いたい。

 それで、博物館学芸員なのか。

 本当に芸術を愛している者なのか。


「ひなぎく……」


「なあに? 可愛いでしょう?」


 もう、着てしまったものは、致し方ないのかも知れない。


「これから、ひなぎくは、すやすやと眠るんじゃよ」


「ええ、あなたのお陰だわ。だからね、感謝の意味を込めて、昨日ミュージアムショップで求めて来たの」


 お出掛けしていると、温泉お風呂の時間が減るんじゃもん。

 悔しくてパジャマの裾を引き、柄をピッと出す。

 俺は、両頬に左右の手を当てる。

 そりゃあ、驚くわな。


「それでかー」


「どうしてかしら。幾つもある名画よ」


 天使の微笑みは、天然だって忘れておったわい。

 ポリッと頭を掻く。

 あー、アラフィフ哀しいかな。


「ムンクが呼んでいるようじゃよ」


 カッポーン。

 俺の叫びが響き渡った。

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