I07 遠距離と近距離
アトリエデイジーを開ける支度をしていた、八時過ぎだ。
「あなた、お茶にいたしましょうね。お話もありますわ」
ひなぎくが、アトリエの掃除を終え、カウンターに白と黒のマグカップを持って来た。
俺のは黒で、勿論、カフェオレお砂糖マックスなのだが、歯茎に滲み込む。
歯周病管理の厳しいアラフィフだもの。
ひなぎくは、初めてのキスのときに気が付いて以来、今朝も俺の歯磨きをペングリップで優しくしてくれた。
世話焼きじゃないの。
「あたたかくて、美味しいわね。ふふ、あなた」
「所で、話があるって、何じゃい」
俺は、神経がぴりぴりとして、口髭がもじゃついた。
「あなた、あのね。予想はしていたけれども、遠い所へ行くことになったの」
ひなぎくが優秀だとは、当然、分かっている。
元妻は、キッチンドランカーとして、家族を引っ掻き回した挙句、なし崩しに去ってしまった。
そこへ、大学院に留学して来たひなぎくが、あまりにもキラキラとしていたので、俺は二十歳に見える若返りの術を使ったっけな。
これなら対等かと思っていたが、アイツは、きちんとわきまえていたのにも擽られたものだ。
そうこうして、ずっとひなぎくをプロフェッサーとして見つめて来た。
「遠い所か……」
俺は、ひなぎくの言葉に、やはり、別れの朝が来たと切なくなる。
「どこへかいな」
「とにかく、遠くて遠くて遠い所よ。アトリエデイジーや黒樹家から離れると思うわ」
俺がひなぎくに惹かれた理由は、いくらでもある。
けれども、俺のどこに惚れてくれたのかは、黒樹悠三大ミステリーだ。
「ひなぎく、手を握ってもいいんじゃも?」
「あらあら、大きな赤ちゃん。どうしたのかしら。大丈夫ですよ」
ここで彼女の手を離してしまったら、俺たちの縁はここまでだと明確に理解していた。
甘えて六十二秒かそこらだ。
「うーん、遠距離恋愛希望か。今は、連絡手段はいくらでもあるぞ。俺は、大人の責任があるから、ここで待ってるよ。ここでずっとひなぎくの帰りを待ってる」
すると、彼女はここで大きく息を吐いた。
「それはあなたの為にも、私の為にもならないのよ」
「待つのもダメなのかいな」
「私はあなたに一緒に来て欲しいのよ。でも、あなたには古民家での生活やアトリエのお仕事があることも分かってるわ」
俺は、もう待っているとは、返答できなくなってしまった。
しかし、子ども達を置いて行くのは、元妻と何も変わらない。
どちらにしろ、失うものは少なくないから。
「ねえ、一度だけでいいわ。我儘させて欲しいの。温泉郷での全てを捨てて、私と一緒に来てくださいね」
ひなぎくは、俺を見つめ、それからゆっくりと手を伸ばしてくる。
もう、先程のように手を握れないと分かったのはお互いだろう。
俺は、どうしたらいいのか。
◇◇◇
「なーにー!」
「うん。三重に行きたいわ」
ひなぎくが、ガイドブックを持って来た。
それから、グリーンの表紙が目立つ大きく厚いノートもだ。
「何しに」
「エンディングノートを書いたの」
なーにー!
再び、言わせたいのか。
俺の果てしなく練習したムンクの叫びポーズで。
「それで」
「そこで、アワビのステーキとお刺身を食べられる老舗旅館に泊まりたいわ」
シニセは、聞かなかったことにしよう。
「何故、旅館。高いよ。それに、エンディングノートには早いだろうよ」
「泊まる日は、二泊三日のOKの日にしたいわ」
ひなぎくは、一方的に自分の妄想で走っている。
こうしたときは、否定をしてはいけない。
少々頷いて、事の真相を正さないと。
「うんうん。ごくり、OKの日ということは」
「静花ちゃんにも妹か弟を、ね?」
やはり、思った通りだ。
ひなぎくの口から引き出すんじゃなかったな、黒樹悠。
「ダメだ」
「ええ! 喜ぶと思っていましたわ」
ひなぎくが、鈴虫より大きな声とは珍しい。
本気だったと分かった。
「ひなぎくは、体調が万全ではないだろう」
「どうしてそんなことを言うの? 産める内にがんばった方がいいと思うわ」
ああ、汗まで掻いて、妻の体に悪い。
今朝は、きちんと一包化された薬を飲んでいた。
ならば、ここで、あやふやな態度を取らないで、しっかりと話そう。
「静花ちゃんは、命を授かって来たんだ。思い出してごらん、1900グラムで生まれた低体重児で、クベースに入っていたことを」
ひなぎくが、黙りこくってしまった。
暫くして、喉の奥から細い声を絞り出す。
「それは……。私がいけなかったのでしょう。服薬しているのに、子どもを願ったから」
「ああ。ごめん、ごめん。泣かすつもりはなかった」
俺は、いままでのサポートを台無しにする所だった。
ひなぎくの涙をみないようにがんばって来たんだ。
それなのに、一粒のバロック真珠を零させてしまうなんて。
「ひなぎくには、皆が力を貸しているんだ。負担を減らそうと、俺をはじめ黒樹の皆で静花ちゃんをみている」
「そうでした。私ったら、うっかり呑気なことを考えてしまって。一人恵まれただけでも十分ですわね」
カアー。
今泣いたカラスが笑いますかね?
「俺はな、子どものことで悩んでいたひなぎくに、天使が舞い降りてくれたら、ひなぎくが元気になると思っていたんだよ」
所が、育児はストレスの塊だった。
思い違いもいい所だ、黒樹悠。
「ああ……。すみません」
ひなぎくは、阿吽の顔をしている。
「謝ることなんてない。ただ、ひなぎくは俺よりうんと若いんだ。長生きして欲しい」
ひなぎくに、ミルクティーを渡す。
黒樹悠がティーポットから注ぐと、この頃母乳に化けると言うのは、俺の脳内会議のみでの噂だ。
甘党の俺好みになっている。
こくりと飲み干すと、超難問が矢文だった。
「ハッピー天使のツアー申し込みは、キャンセルしますか?」
ぐっさっ。
あいたたた。
「うう……。とにかく、俺の傍にいれば、いずれ恵まれることもあるから。カモンカモン、今晩、俺の布団に入りなさい」
「あなた――」
うおー!
本当に甘い香りのミルクティーじゃもん!
俺は、長い髪を抱いた。
「ん?」
荷物を落とす音かいな。
いい所なのに、誰なんじゃもん。
アトリエを手伝いに来た蓮花か。
「気まずい、気まずい。でも、チューしていたい」
「ん、あなた……」
「はいはい」
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