8 彼のことがもっと知りたい

 目が覚めて、カーテンの隙間から陽が差し込むのを久々に見た気がする。

 いつも眠りが浅く、寝付けない。結局、夢を見てはうなされ、朝になって眠りにつく。そんな状態だから、学校に行けるはずもなく。


 それが、今日は眠れた。


 いつもは、雑音のように自分を責め立てる声で溢れるのに。そんな音は一切なくなって。

 上川君――心のなかで、冬希君だから冬君と呼びかけていた――が、ずっと優しく傍に寄り添ってくれていた。それは夢の中でも何ら変わらなくて。それが本当に嬉しかった。


 そして、我に返って頬が熱くなる。彼はたまたまプリントを持ってきてくれただけ。

 でも、と思う。


 彼は『またね』と言ってくれた。

 その言葉を信じてみよう。


 何かお菓子を作ってみよう。そういえば、と思う。小6の時からはじめて、海崎君達に振る舞ったこともあったっけ。

 でも、今じゃ作る気力も起きなかったけれど。冬君、喜んでくれるかな? もうそんなことを思ってしまう。


(もし来なかったら――)


 悪いことばかり考えてしまう。その時はお父さんに食べてもらおう。うん、それが良い。

 本棚から、お菓子の本を久しぶりに手に取ってみた。





■■■




 時計の秒針がカチンカチンと打つ。こんなに時間が過ぎるの長いと思わなかった。時計を見る。昨日はもうこの時間に来てくれていたのに――。


(期待しすぎよね。バカだなぁ)


 ため息をつく。と、たまたま見やると玄関の方に誰か――ウソ。誰かなんてすぐ分かった。冬君が、インターフォンを鳴らそうかどうしようか悩んでいる様子が、私にも分かった。

 慌てて、玄関まで行く。思わず、玄関を開けそうになって――。


(待ってましたと言わんばかりじゃない?)


 そんな風に思われたら、恥ずかしい。


(でも冬君が帰ってしまったら?)


 それはイヤ。本当にそれは嫌だ。深呼吸をする。やっぱり呼吸、苦しくない。冬君はきっと昨日、魔法をかけてくれた。だから大丈夫。

 もう一度、深呼吸。私はゆっくり、玄関のドアを開けた。彼がインターフォンにその手をのばした、まさにその瞬間だった。


「あ、あ、やぁ? どうも、昨日ぶり」


 慌てた彼の表情を見て、私は安堵した。


「嬉しい」


 本音がもれていて。頬が熱くなる。息は全く苦しくない。そのかわり心臓がビートを上げて胸打つ。彼の笑顔を見る度に。彼の声を聞くたびに。

 照れ隠しのため、私はスカートをちょんとつまんで、おどけてお辞儀をしてみせた。


「いらっしゃいませ」

 上手く言えたかな?





■■■





「今日はプリントはなくて、その――」


 冬君は口籠る。気まずそうに。

 でも私は、それが嬉しかった。その方が嬉しかったのだ。

 きっかけは、学校の先生からの配慮だったとしても。冬君が冬君の感性で、私に会いに来てくれた。それが同情であっても、惰性であっても。


 ダイニングに案内して、シフォンケーキを配膳した。冬君が目を丸くしている。私としては、100点満点の出来で。久しぶりに淹れた紅茶も、絶好の温度、タイミングで抽出できたんじゃないだろうか。それは香りが物語っていると思う。

 冬君が、フォークで口に運ぶ。言葉を聞くまでもなく、食べた瞬間幸せそうな顔をしてくれて。何て美味しそうに食べてくれるんだろう、って思う。

 でも欲張りだな、って思う。それだけじゃ満足できなくて、冬君の声が聞きたくて。つい冬君に味を聞いてしまった。


「て、手作り?」

「あ、口にあわなかった? ごめん、ごめんなさ――」


 考えてみれば何を期待しているのか。冬君の好みも聞いてないし、そもそも迷惑だったのかもしれな――そんな想いが巡って、俯く私を止めたのは、冬君の大きくて暖かい手だった。


 その手が私の手に触れる。

 冬君自身、衝動で行動してしまったのか、慌ててその手を離した。


「あ、いや、これはその違う、いや、違わな……えっと、その美味しくて。プロが作ったのかなって。俺、一人暮らしだから。誰かに作ってもらったの本当に、久しぶりで。本音を言ったら、誰かと一緒にご飯食べたのも、昨日、本当に久しぶりで。だから、一番俺が嬉しかったというか。昨日はあんなのでごめんだったけど、今日のケーキ本当に美味しくて。美味しいって言葉じゃ足りないくらい、美味しくて。本当に美味しかった!」


 息継ぎなく、冬君は言葉を吐き出す。そこには誤魔化しも、着飾りもないストレートな言葉だと感じて、私は胸が熱くなった。

 ドキドキしたり、暖かくなったり、今日の私はどうしちゃったんだろう。本当に忙しない。

 それから頭が真っ白になりながら、色々と話をして。オムライスのことを冬君は引きずっていたけれど、本当に美味しかったと伝えたら、納得してくれた。


 自分のことばかり、背伸びして話しをしていた気がする。でも冬君は真正面から受け止めてくれて。自分から話すことがなかった私だけれど、冬君が聞いてくれる。それだけで安心してしまう。

 この間も、冬君は私のことを気遣ってくれた。


「今はまだ大丈夫そう」


 本心からそう言った。冬君と話していて、まったく息苦しさがない。体の拒絶がないのだ。

 それが不思議だな、って思う。

 

 でも、と思った。そんな風に安心をくれる冬君のことを私は何も知らない――。

 もっと冬君のことを知りたい、そう思う。


 と、制服についている白い糸――それは毛だった。透き通る銀のような。

 私の心はざわついた。


 それはそうか、と思ってしまう。こんな素敵な人だもん。そりゃ、お付き合いしている人も――と思って、考えを打ち消す。勝手に決めつけちゃダメだ。冬君に聞いたら良い。冬君ならきっと答えてくれる。それにもしこれが髪の毛なら、日本人じゃ無いかもだし――。

 勇気を振り絞って。

 私は手をのばした。その綺麗な銀糸と言っても良い、その毛に触れる。その瞬間、胸が疼く。その感情を隠しながら、苦し紛れの言葉がぽんと出てきた。


「猫ちゃんの毛?」

「あぁ。ウチ猫いるからさ」

「猫ちゃんが?」


 ほっと息をつく。そうか猫ちゃんなんだ。安心して体の力が抜けるような感覚を憶えた。でもここで脱力したら、かえって冬君を心配させてしまう。私は背伸びをして、お腹に力をいれて踏ん張る。


「猫、好きなの?」


 コクコク、私は何度もうなずいた。


「うちはお母さんが猫アレルギーだから、飼うことができなくて……」


 お母さんが猫アレルギーなのは本当。私が猫が好きなのも本当。でも、もっともっと知りたいのは、冬君のことで。今、私はそのチャンスを掴んだ気がしたのだ。もっともっと、冬君のことが知りたい。心の底からそう思う。


「ルルの写真あるけど、見る?」


 冬君はスマートフォンを見せながら言う。

 ルルちゃんって言うんだ。もう一つ、冬君のことが知ることができて嬉しい。だから私は、冬君が勘違いしてくれると見越して、自然とこんな言葉が出ていた。


「見たい、見たい、見たいです!」


 あまりにも前のめりじゃないだろうか?

 冬君におかしな子って思われていないだろうか?

 思わず、冬君を見る。


 と――彼は、より優しく微笑んでくれて。


 以前、家族でいった菜の花畑を思い出す。

 視界一方に咲き乱れた菜の花。菜の花畑の迷路を、弟と一緒に駆け回った記憶がふとよみがえって。クリアに再生されて。

 冬君の笑顔と、ふと重なって。


 知りたい。もっともっと冬君のことが知りたい。そう思う。

 冬君のこと、どんなことでも、いろいろな表情、その全部すべてを――。


 冬君と一緒に生活をしているルルちゃんのことが、無性に羨ましくなった。

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