7 君の幼馴染は心配している
下河がドアの奥から、俺を見送ってくれる。
ほら、だからだよ。俺は苦笑を浮かべた。
下河は頑なにリハビリを今日から始めたいと言って聞かなかったのだが、それを俺が止めたのだ。
彼女は無理をしすぎる傾向があると、この短い期間のなか俺は学習した。今日だってシフォンケーキまで焼いて。俺に気を遣いすぎなんだ。
真面目、なんだよな。真面目すぎる。だから全力でやり過ぎて倒れちゃうし、周りから理解されない。
俺が言うのもどうかと思うのだが、不器用だなと思う。
「むー」
ドアを小さく開け、名残りおしそうに外を眺めている。だが、喉元から微かにヒューヒューと苦しそうな呼吸が聞こえる。
これか、と思った。
今まで普通に接してくれていたから分からなかったが、根本的に下河は爆弾を抱えている。
多分、それはトラウマで。
これをどう乗り越えて良いのか、俺には皆目見当がつかない。でも放っておくこと、放り出すことは選択肢になかった。
「ゆっくりで良いんだよ」
下河の髪を撫でながら言う。姪っ子たちよりも猫的な扱いになっている気がする。
気持ちよさそうに、目を閉じるの。
破壊力が強すぎる。
「明日はまず玄関から一歩出るところから始めてみようか? でもできなかったら、それはそれで良いよ。時間をかけてゆっくりでいいから」
「うん……」
でも、不服そうな表情は消えない。
「時間をかけて一緒にやろう、明日また来るから」
「……本当に?」
「だってリハビリ、一緒にやるって約束したでしょ?」
「――うん」
その笑顔だよ。その笑顔をもっと見たいって思ってしまう。
「だから、また明日ね」
「うん」
下河は大きく頷いて――玄関の外にその足が踏み出していた。
すごいな、下河は。心の底からそう思う。
彼女に手を振りながら。振り返れば、やっぱり寂しそうに玄関のドア、ギリギリ一歩前に出て手を振っている。
曲がり角で見えなくなる前に、俺は大きく手を振った。
「また、明日!」
その声が、意外に大きく響いて、反響して。
下河がびっくりした顔をして――大きくうなずいて、最後に大きく、ブンブンと手を振った。
■■■
「上川……?」
と声をかけられて、ん? と顔を向ける。聞き覚えのある声だったからだ。茶髪でやや小柄な男子高校生が俺に遠慮がちに声をかけた。
「えっと……確か
記憶をたどりながら、というのも失礼な話だが。同じクラスメートの
「クラスメートの名前ぐらい憶えていてよ」
海崎は苦笑しながら言う。それは、すまないと言うしかない。
「ごめん、普段話していないのにこんなことを聞いていいのか分からないんだけれど」
「は?」
「
「へ?」
雪姫と聞いて、下河のことだと繋がるのにしばし時間を要した。
「……僕は、下河雪姫の保育園からの幼馴染なんだよ」
「……」
何故か、俺のなかで何か良く分からない感情が、『面白くない――』とざわついた。
■■■
「俺は下河の元気だった時を知らないから、なんとも言えないが彼女なりに頑張っていると思うよ」
「そう……」
「そんなこと、俺に聞くより、下河に直接聞けば良いんじゃないか?」
「それができたら……」
「なんで? 幼馴染なんだろう? 俺よりも少なくとも下河のことを知って――」
言葉につまった。別に海崎を責めたいわけじゃない。ただ海崎は下河のことを知っている。俺は下河のことをほとんど知らない。そこに嫉妬しているのだ。
「今まで何回か、声をかけてみた。家にも行ってみた。でもダメなんだ。僕たちじゃ、雪姫が発作をおこしちゃう」
「……」
「電話越しでもダメ。それだけのことをしたって自覚はある。ただ、何とか雪姫に元気になって欲しいって、その気持ちだけは変わらない。それは本当なんだ」
「それだけのこと?」
海崎の表情が真摯だっただけに、妙に気になってしまう。
「雪姫は何も言ってないのか?」
俺は首を小さく、横に振った。ただ、視線は海崎から逸らさない。
言葉を探して、喉元にまで出かかった言葉をまた飲み込むように、海崎は逡巡して。俺からは何も言わない。ただ海崎からの言葉を待つ。下河が今の状況に追い込まれた、その事実。その根幹。だから言わないという選択肢は許さない――。
そう海崎に向けて視線を送る。
彼は観念したように、項垂れた。
「……始めは、何となくだったんだ」
絞り出すように、苦いものをようやく吐き出すかのように言ったその声は、今にも消えてしまいそうで。
「誰かが、雪姫をからかった。いつも真面目で一生懸命なヤツだったから、からかいやすかったんだと思う。実際、みんな軽い気持ちで言ってたし。雪姫は笑いながら、怒った振りをしていた」
「……下河は、怒った振りをする、そんな振りをしていた。演技を続けていたんじゃないのか? 海崎、そこの所を勘違いしていないか?」
「え?」
俺のなかで、理性が保てなくなってきたのを実感する。そして海崎もその言葉の意味を理解したのか、俯く。どうして下河はイジメられたことを自分から言わなかったのか。どんな言葉をコイツラが下河に投げつけていたのか。知りたくもないし、聞きたいとも思わない。
だけど少なくとも下河は、体も心も拒否しても――コイツラを否定はしなかった。
下河から、誰かを罵るような言葉はなかった。それが下河の答えなのだ。
「どんな言葉で下河を追い詰めたのか、それは知らない。でも、少なくとも海崎がそう思うのなら、お前が下河を守れば良かったじゃないか」
「それができたら――」
「でも、もう遅いよ。悪いな。その役目は俺がやるし、誰にも譲らない」
「……」
浅ましいな、俺も。でも感情に突き動かされて止まらないのだ。彼女を昔から知る連中は、手をのばそうとしなかった。何もしなかった。
彼女の優しさ、一生懸命さ、そんなのこの短い時間のなかでたくさん下河が見せてくれた。その表情を汚そうとするヤツがいたら、俺は多分、躊躇なく拳を振り上げることができる。
と、その感情を解きほぐすように。まるで下河が傍で俺の手を引っ張ってくれたかのように、スマートフォンの電子音が――陽が落ちようとする住宅街のなかで――やけに反響して響いた。
■■■
yuki:まだ帰ってないよね? 今日、アルバイトって言ってたもんね。頑張ってね。でも無理しすぎないでね。ちゃんと、夕ご飯食べるんだよ?
yuki:明日 待ってるね。
■■■
スマートフォンを開いて、苦笑した。俺は海崎を尻目に、下河に返事をする。お前はオカンか、と思いながら。
ありがとう、と。明日、行くからね、と。素早く返信する。
白猫のスタンプで「ふぁいと!」と返ってきた。
もう、それで十分で。むしろこっちがありがとう、と思う。自分の中での泡立つ感情を、すっかり下河に受け止めてもらった気がした。
「海崎」
ビクンと海崎は体を震わした。怯える、そんな目を俺に向けて。
「――何かあれば、相談したい。その時は協力してくれる?」
「え?」
意外と言わんばかりの表情で。
「海崎にその気があればの話だけどね。俺は下河のことを知らないし、海崎は下河のことをよく知っているでしょう?」
「それは……。うん、もちろん」
「ただ俺は下河の気持ちや事情を最優先する。それで良ければ、力を貸してくれないか? 海崎が下河と仲直りしたいって思っているのなら、そこは協力をするからさ」
俺は海崎に手を差し出した。海崎は、恐る恐るその手を握る。
「分かった、もちろんそれで良いよ。僕も雪姫に謝りたいんだ」
海崎はコクリと頷く。俺は海崎の手をぐっと握り返した。
無意識だったんだと思う。何も考えず。この感情の意味さえ理解できず。
ただ――。
下河の笑顔を守りたい。そのためには俺一人の力じゃダメで。目蓋の裏側に焼き付いて離れない親友の笑顔を想いながら。
ただ下河に笑っていて欲しい。ただそれだけで。
そのためだったら、俺はどんなことだって
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