5 君は猫のことが気になる
「持っていくものがない?」
予想外の言葉を弥生先生から聞き、職員室の真ん中で、俺は思わず呆けてしまった。
「そりゃそうよ。毎回、プリントがあるわけないじゃない?」
「それじゃ、今日はお仕事なしか」
ほっとしたような、少し残念なような。
「ふぅん。上川君って、案外責任感ないのね」
ジトっと、何故か白い目で見られる。でも待って欲しい。こっちは完全にボランティアである。本来教師の役割なわけで、そこまで言われる
「あーあ。下河さんのご両親は上川君に『娘をよろしくお願いします』って言ってくれたのに? 上川君って、そんな簡単に自分に課せられた使命を投げ出しちゃうんだね。へー。へー。へー」
「いや、その言い方重いから。昨日はアシストするって、先生が言ってたじゃないですか!」
「ふふ」
弥生先生が笑っている。
「ごめん、ごめん。上川君があまりに楽しくてね。上川君はその個性をもっと学校のなかで発揮すべきだと思うんだよね」
「それができたら苦労していないですけどね」
これは本音だ。クラスに溶け込めていないことは自分自身が自覚している。
「それとプリントとか、学校の用事がなくても関わって欲しいって思っているのも本当よ。下河さんのご両親も、今はチャンスだからこの機会を逃したくないって言うしね」
でも、と弥生先生は続ける。
「無理強いするものでもないしね。上川君次第かな、また会いたいって思うか思わないかでしょ」
■■■
その言い方はズルくないだろうか?
俺は小さく息をついた。
気になるか、気にならないかと言われたら、気になるのだ。妙に頭から離れないのは、下河のあの笑顔で。
これは弥生先生に頼まれたことだから。
ブツブツ、そう何度もつぶやいては言い聞かせながら。
これは下河の両親がお願いされたことだから。
ブツブツ、やっぱり何度もつぶやいて。
そうこうしていたら、もう下河の家に着いてしまった。
「……」
どの当たりが下河の部屋なんだろう? そんなことを考えて我に返る。これじゃストーカーのようじゃないか。
とりあえず、俺は言い訳の羅列を揉み潰すことにした。
(違うんだ――)
言い訳を並べた言葉は、建前でしかなくて。俺自身が下河のことが気になっていて。もっと、たくさん言葉を交わしたい、話をしたい、そう思っている。
だったら、それでいいじゃないか。そう思う。
呆れられるかもしれないけど、俺は下河と友達になりたいんだ。
そう思って、インターフォンに手をのばした瞬間、ドアがゆっくり開いて――下河がおそるおそる俺を見ていた。
「あ、あ、やぁ? どうも、昨日ぶり」
ぎこちなく手をあげる。心臓が波打つ。俺の方が呼吸が止まりそうで。
下河が小さく微笑んだ気がした。
「うれしい」
彼女は昨日と同じように笑顔を咲かせて。
「いらっしゃいませ」
彼女はペコリとお辞儀をしたのだった。
■■■
昨日のダイニングで、下河が紅茶を淹れてくれた。おまけにシフォンケーキまで用意してくれて。
一口食べて、溶けそうになった。甘すぎず。でも体に優しく染み込んでいくようで。一人暮らしだからこそ、誰かに用意してもらった食事――これはデザートだけれど――なんて幸せなんだろうって思う。
「どうかな?」
下河が聞く。今日は紺のワンピースを着て、髪を後ろで束ねていた。表情がよく見えて――その表情に思わず釘付けになってしまう。
「え?」
「あの、そのシフォンケーキ、焼いてみたんだけど、どう?」
「て、手作り?」
驚いた。ケーキ専門店と言われても遜色ないくらいのふんわり生地。もしかしたらバイト先のスイーツより美味しいかもしれない。
「あ、口にあわなかった? ごめん、ごめんなさ――」
俯こうとするのを止めたくて、俺は下河の手に触れ――慌ててその手を離す。
「あ、いや、これはその違う、いや、違わな……えっと、その美味しくて。プロが作ったのかなって。俺、一人暮らしだから。誰かに作ってもらったの本当に、久しぶりで。本音を言ったら、誰かと一緒にご飯食べたのも、昨日、本当に久しぶりで。だから、一番俺が嬉しかったというか。昨日はあんなのでごめんだったけど、今日のケーキ本当に美味しくて。美味しいって言葉じゃ足りないくらい、美味しくて。本当に美味しかった!」
俺自身、何を言っているのかよく分からなくて。捲し立てるように、言葉に言葉を重ねて。口に出したその一つ一つ、宙に消えていくような感覚。頭が真っ白になった。
下河はきょとんとした顔をして――そして微笑えむ。
「うれしい。ありがとうね、上川君」
「あ、うん。いや、こっちこそありがとう」
俺はフォークでシフォンケーキを切り分け、口に運ぶ。一気に食べるのはもったいない。心底そう思った。
「昨日はごめん。余計なお節介だったんだな」
思ったことをつい言葉にしていた。
「え?」
「いや、こんなに美味しいケーキ作れる人に、あんな
「あんな、なんて思ってないよ!」
声が感情的になって、すぐに落ち着こうと自制するように、下河は大きく深呼吸をした。しまったと思う。
俺はコイツの優しさに甘えすぎだ。他者の前で、過呼吸になってしまう下河。彼女は、俺とこうやって過ごすだけでストレスのはずなのだ。俺は彼女の辛さを知らないのに、下河に甘えきっていないだろうか?
「昨日、上川君は一生懸命、考えて作ってくれたって思ってる。少なくとも私は美味しいって思ったの。一緒に食べたらなお美味しいって思ったし。それに、私も本当に嬉しかったから」
「……そっか」
そう真正面から言われると、照れてしまい、つい視線を逸らした。
「でも、辛かったらムリするなよ? 一応、弥生先生から、ひどい時は過呼吸になるって聞いていたから……」
「うん」
彼女はコクリと頷く。
「今は、まだ大丈夫そう」
「そうか」
と紅茶に口をつける。紅茶も香りが深くて、本当に美味しい。
それから他愛もない話をした。本や映画、アニメ、音楽。主に下河の好きなものを一方的に聞きながら。時間はあっという間に過ぎていく。下河って、夢中になると、こんなに饒舌になるんだな、とつい見入ってしまう。
可愛いな、そういう一面も。と思う。今度は絶対、声に出していないはずだ。
と、下河がなにかに気付いたのか首を傾げながら、俺の制服に手をのばした。
「え?」
「猫ちゃんの毛?」
「あぁ。ウチ猫いるからさ」
「猫ちゃんが?」
興味津々に俺を見る。
「猫、好きなの?」
コクコク、何度も彼女はずいた。
「うちはお母さんが猫アレルギーだから、飼うことができなくて……」
なるほどね。下河もそんな顔をするんだなって思う。これでもかってくらいに目をキラキラさせている。
遠慮がちな表情とは裏腹に、ウチの相棒が気になって仕方ないのがありありと感じる。
むしろ下河は、猫そのもの。まるで喉をグルグル鳴らしている錯覚すら覚えた。
下河って、本当に色々な表情を見せるから飽きない。
「ルルの写真あるけど、見る?」
チラッとスマートフォンをちらつかせながら言う。
「見たい、見たい、見たいです!」
打って変わって前のめりで訴える下河を尻目に、俺は苦笑しながらスマートフォンのロックを解除した。
相棒――ダシに使わせてもらうよ、ごめんな。
でも、と思う。
ルルには悪いけれど。
下河の色々な表情を、もっともっと見てみたいんだ――。
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