番外編

第40話 二人の、甘くならない生活

 リンドグラード王国の第三王子アーノルドは、名門ランカスター寄宿学校在学中、街中のカフェ・シェラザードにて一店員として労働に従事していた。


 頭にバンダナを巻きつけ、コックコート姿でエプロンを翻し、キッチンもホールもこなす万能ぶり。

 その姿は、世間の人々のイメージする王族とはとてもかけ離れていた。


 彼の想い人は、海の向こうの国イルルカンナから留学してきた、第五王女のエルトゥール。

 彼女も、王族ながら、のっぴきならない理由でアーノルドと同じくカフェの店員として活躍。

 なお、仕事中は男性として振る舞っていた。


 亜麻色の髪に空色の瞳、痩せ型ながら骨太な印象で女性の中では背が高く、男装が様になる容姿。さらに、祖国では綺麗どころの姉に囲まれていたこともあり、本人は自分の女性的な魅力に気づいておらず、まったく頓着していない節がある。


 しかし、いかに男性に扮し、庶民の店で気さくに立ち働いていても、端々に漂う品の良さは隠しきれるものでもない。また、頭の回転が早く、随所で細やかな気遣いも見せていた。

 当然にして、シェラザードに立てば日毎にファンが増えていく有様だった。

 おかげでシェラザードの売上は右肩上がりで、従業員の給料にも反映されることになり、エルトゥールの「のっぴきならない事情」は一応、決着がついたとのこと。


 学校においては見事な文武両道ぶり。それでいて謙虚で親切な性格であったため、本人の預かり知らぬところでファンクラブが結成されるほどの人気を博していた。当然にして、「もしイルルカンナのお許しを頂けるようでしたら」と縁談もたくさん持ち上がっていたようである。


 この様子を、職場でも学校でも常に目の当たりにしていたアーノルドは、内心穏やかではなかった。


 エルトゥールの態度をみれば、アーノルドに思いを寄せている様子はほぼ確実であったものの、卒業までは決してお互いの思いを通じさせることはできず、周囲に気取られてもいけないという境遇にあった。

 アーノルドに婚約者がいたためである。

 それゆえに、行動が制限されていた。


 一方のエルトゥールは、表向きは完全フリー。

 縁談というほど明確ではなくとも、さりげないものから直接的なものまで、頻繁に数多の異性・同性からアプローチを受け続けていたのである。

 卒業後は大学に進むということで、帰国の話はなくなったものの、思いを伝えられないアーノルドの消耗は激しく、限界すれすれであった。


 そうは言っても、卒業を機にアーノルドが婚約解消をしたところで、そこから「直ぐに」エルトゥール姫との婚約というわけにはいかない現実が立ちはだかった。



 「さすがにそれは、節操がなさすぎる」という事情である。


 婚約解消前から、姫との間に関係があったと勘ぐられても仕方がない。せっかく耐え忍んで慎み深く接し、気持ちを押し殺して隠し通した努力が無に帰ってしまう。


 相変わらず自分の事情で下手に動けないアーノルドに対し、エルトゥールは生来の落ち着いた気質のせいもあって「当然ですよね。しばらくは無理ですよ」とのほほんと言うのみ。


(そうこうしているうちに、横槍が入り続けているんだ……。エルに近づく男を牽制するのも限度がある)


 卒業後、ふたりとも進学の道を選び、カフェでの仕事も続ける運びとはなったが、それまで暮らした寮を出て生活することになる。

 我慢の限界を迎えていたアーノルドは、切実さをにじませて訴えた。


「一緒に暮らそう。表向きはそうとは見えない形で。住居を改築したから」



 ★ ★ ★ ★ ★



 大学近くの、賑やかな通りに面した五階建ての共同住宅フラット

 古めかしいレンガの壁につる草が伝う瀟洒な建物で、もともとは貴族の王都滞在用に作られた邸宅を、五世帯で使える住居に内部を改築したもの。

 実際に、正面玄関から入るとドアベルが五世帯分並んでいて、外から見る限り、内部はそういった作りであるように見える。


 第三王子アーノルドは、引っ越しにかこつけてこの建物の一角を改造し、内部で二世帯つなげてしまったとのことだった。


「同じ大学に通うのだから、近所に住むのは自然だ。しかも、ここは王族が住んでも不都合はない建物。俺やエルが暮らしていても、傍目には不自然ではない。エルは表向き身軽な留学生だが、リンドグラードがその身柄を国賓として扱い、いっそ王子と同じ建物に暮らしてくれた方が護衛もしやすいと警備の観点からすすめた、というのも普通にありえる話だ」


 入り口は別。外から見る限り別居。

 ただし、四階と五階のリビングが、白い螺旋階段で繋がれている。


 アーノルドの住み家となったのは四階。

 うつくしい織りの絨毯は、エルトゥールの故国イルルカンナの特産品。

 神話をモチーフにした優美な装飾の施されたマントルピースや、壁一面の本棚が圧巻の一言。


 部屋に招かれ、五階から螺旋階段で下りてきたエルトゥールは、座面の広いソファに並んで座りながら、ぼんやりと調度品や天井に彫り込まれた蔦草や薔薇の精緻な文様を見上げていた。


「お互いのプライベートは尊重して、きちんと打ち合わせて使おう。その、仕事から帰ってきた後とか、一度それぞれの玄関から家に入るとして……、お茶でも飲んで位置日の話をしたり、だな」

「仕事の後はたいてい爆睡です。起きていられません」


 アーノルドの申し出に対し、エルトゥールは正直なところを告げた。


(住むところの手配をしてくれたのは助かりましたし、いろいろ理屈もつけてくれていますが)


 エルトゥールとしては、アーノルドの提案よりも、実はいま現在、ソファにふたりで並んでいるという現実の距離感が気になっている。 


 学校ではほとんど会話をすることなく、職場でも二人になることなどなく過ごしてきた。シェラザードまでの往復で連れ立って歩くことはあったが、常に往来で人目を気にしている状態。

 こんな風に、密室で二人きりという状況は、出会った頃にアーノルドの部屋に連れ込まれた事故のような一件以来、初めてであった。

 ソファは広く、うっかり腕や足がぶつかるということもないが、とにかく緊張している。

 手を伸ばせば、届く距離。


(意識しないように気をつけている時点で、意識しちゃっているんだけど、どうしよう……)


 アーノルドが手を広げるなど、何か一動作をするたびに、心臓がはねている。

 そのまま、どんどんドキドキと高鳴りはじめていて、聞こえてしまうのではないかと気が気ではない。


「それじゃ、朝食。俺が作るから」


 体ごと向き合ってきて、はにかむような甘い笑顔で提案されて、エルトゥールはソファの上でそっと身を引いた。

 心臓の音をしずめたくて、両手の指を組み合わせて胸に押し付けながら、にこっと微笑んでみる。


「アルが作ってくれるならすごく美味しいでしょうね。これからは朝晩の寮の食事もないですし、楽しみだな」

「エル……」


 笑顔のまま、アーノルドは絶句して、動きを止めてしまった。

 しばらくもの言いたげにじっとエルトゥールの顔を見つめ続けていたが、やがてひそやかに吐息をもらす。


「そばに行ってもいいだろうか」

「え、こここ、これ以上?」

「うん。エルがこんなに近くにいて、二人で話せるのが嬉しくて」

「ええと」


 口ごもりながら、エルトゥールは俯く。

 顔が熱い。

 声を聞くだけで、体が痺れて思うように動けなくなる。

 まるで彼のその腕に捕まってしまいたいと、本心では願っているかのように。


「心臓が、いますごくて」

「うん?」

「ずっとドキドキしていて、いろいろ無理なんです。これ以上アルに近寄られると、聞こえちゃうと思います」

「それはむしろ聞きたい」

「だ、だめっ」


 ぎゅっと自分の手を胸に押し付けて身を引いたエルトゥールであったが、本気で逃げたわけではなかった。

 すぐに、距離を詰めてきたアーノルドの腕に囚われる。

 背中に腕を回され、胸にぴたりと体が沿うように、腕の中に閉じ込められてしまった。

 二人ともシャツに肌着を身に着けている程度であったために、布越しに互いの熱や骨や肉をまざまざと感じた。


「うん、すごい。エルの鼓動が直接伝わってくる」

「アル、やめて、恥ずかしいです。心臓が止まりそうです」

「大丈夫だ。俺の心臓の音も聞いて。エルだけじゃないから」


 身じろぎするエルトゥールを、強い力で抱きしめたまま、アーノルドが笑う。

 もともと弱く形だけだった抵抗をやめて、エルトゥールは深い溜息とともに目を閉ざした。

 体温がゆっくりと混ざり合っていき、いつしか鼓動も呼吸も溶け合うように同じ間隔になっていく。


「アルがそばにいる……すごく近い」

「同じこと考えていた。ずっとこうしたかった。もう離したくない」


 顎に手を当てられて上向かされ、エルトゥールは目を開けた。

 まなざしの甘さに、息を止められる。


(これからこうして、二人で、ずっと)


 唇に、羽のように触れる唇を感じながら目を瞑った。

 そのまま、ソファに仰向けに押し倒される。


「アル」


 呟いて名を呼んだ、そのとき。


 ビー、ビー、と優雅さに欠ける呼び出し音が部屋に響き渡った。

 アーノルドは身を起こして、リビングのドアに目を向ける。


「誰か来たの?」


 まだ夢見がちなぼうっとした状態でエルトゥールが尋ねると、アーノルドは微笑んで「すぐに戻るから」と言い置き、立ち上がってドアへと向かった。

 少しの間の後、ドア向こうから賑やかな声が聞こえてくる。


「聞いてないの? 俺三階なんだけど。わざわざ外通らなくても行き来できるように、四階とつなげるつもりだから。これからも色々あると思うし、その方が便利だからね~」


(ジャスティーン)


 がばっとエルトゥールは身を起こして、特に乱れてもいない襟元を指で整える。

 すぐにドアが開いた。

 明らかに険しい顔をしたアーノルドと、輝くばかりの美貌の青年が姿を見せた。

 青年はエルトゥールを見ると、にこりと邪気のない笑みを浮かべて言った。


「エル、来てたんだ。そうだよね、一緒に暮らしていたらいろいろしたくなっちゃうよね。今まで我慢していた分もあるし。何か見ても俺は気にしないから。あ、今から続きする? どうぞどうぞ。もしかして良いタイミングだった? ごめんね!」

「続き……」

「俺のことは気にしないで。キッチン借りにきただけ。そこでご飯作って食べたら帰るから」  


 リビングから一続きのキッチンを示されて、エルトゥールは青年に向き直る。


「私も、のど乾いていたので、お茶をいれます」

「そう? 座ってて良いよ。アルにやらせなよ」


 ぱちっとウィンクをされた。

 二人きりの時間は終わり。

 アーノルドはひたすら渋い顔をしていたものの、キッチンに向かうジャスティーンの後に続いて「俺の家だ。変なところ触るな、お茶いれるから」と騒ぎ始めた。

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