第39話 未来の約束をその手に(後編)

 バルコニーに出た瞬間、風が吹きつけてきた。

 冷たいわけではなく、火照った肌に心地よい。

 風が通り抜けた後は、海の匂い。

 見上げると、暗い夜空にさんざめくように輝く星々。


 かすかな潮騒。耳を澄ませば星々の煌きも音となって聞こえそうで、エルトゥールは目を細めて息を止めた。

 そのとき、咳払いが聞こえた。

 エルトゥールは空から視線を戻して、周囲を見渡す。


「こんばんは、エルトゥール姫」


 バルコニーにいくつも焚かれた篝火を背に、その黒髪を風に靡かせて。


「こんばんは、アーノルド殿下」


 その姿をまっすぐに見つめて、エルトゥールもまた我知らず背筋を伸ばした。

 向き合うのは、黒の瞳。


「どう、食べてる?」

「はい。どのお料理も、全部、とても美味しかったです」


 聞かれた質問に真面目に答えたというのに、アーノルドはおかしそうに噴き出した。

 そのまま、明るい笑い声を響かせる。


「『最初に聞くのが、それ?』って言わないんだよな。エルのそういう素直なところが好きだ」

「……アル」


 ひとに聞かれたらどうするのかと、咎める意味で名を呼んだ。

 半分は照れ隠し。


(アルはすぐにそういうことを言う。私はいつもひやひやしているんです)


 アーノルドは、口の端を吊り上げて、瞳を輝かせて続けて言う。


「今日のドレス、すごく似合っている。イルルカンナの伝統柄かな。エルは制服も仕事の服装も全部似合うけど、お姫様らしく綺麗にしているのも格別だ。近くで見られて良かった」

「えぇと……アルも。王子様らしくてお似合いです。少し、古風に見えるんですが、それが良いです」


 ある程度の段階で口を挟まないと、アーノルドはいつまでも言い続けるのだ。

 本人はあまり自覚がないらしいが、これだけ一息で賛辞を並べたてられたら、世の女性はおののくのではないだろうか。

 少なくともエルトゥールは、あまりにも言われ慣れない言葉の数々に眩暈がする。

 その思いからアーノルド自身の服装へと話を向けた。

 アーノルドは、エルトゥールを見つめたまま、ごく穏やかな声で言った。


「こういう服装も、これが最後か、あと何回も無いだろう。じきに、臣籍降下する。まったくの無一文というわけではなく、資産も無いことはないんだが……。特に強力な後ろ盾もないし、身を粉にして働く人生かな。俺には合っている。そういうのが、好きなんだ」


(「ジャスティーンとの婚約は解消する」「公爵家は後ろ盾にはならない」……会話の中に、いくつも示唆される未来。私は……)


「私も、メリエム姉さまに『もう帰ってくるな』と言われたところです。卒業後すぐに呼び戻すことはないから、あとは好きになさいと。姉さまの期待する、一定の成果があったと認められたことと思っています」


 告げられるのは、今はそれが精一杯。

 卒業は間もなく。それまでは、まだ。

 アーノルドは、エルトゥールに優しいまなざしを向けて、頷く。言葉は無く。

 そのままやや長い時間沈黙しているので、だんだん気になってきたエルトゥールはつい「なんでしょうか」と聞いてしまった。

 言われたアーノルドは、面白そうに目を瞠って口を開く。


「メリエム様もさすがにお美しかったが、やはり一番はエルトゥール姫だ」

「また始まった。あなたというひとは、本当に」


(どうしてそういうことを、次から次へと)


 それ以上やめてくださいという意味でそっけなく言っているのに、アーノルドはどこを吹く風。


「今度鏡に向かって聞いてみると良い。世界で一番可愛いのは誰かと。即答だな。エルだと」

「それは……鏡ではなく……、アルが言っているだけでは」

「そうか。そうとも言う。試しにいま俺に聞いてみてくれ」

「どうしてそうなりますか。あなたは私の鏡ではありません。鏡だったら困ります。あなたはあなたでいて頂かなければ」


(アーノルド殿下で、アルで)


 アーノルドは素早く周囲を確認すると、エルトゥールに歩み寄って、跪いた。

 その左手を取って、手の甲に軽く口づける。続けて、薬指に唇を寄せて、囁いた。


「形に残るものはまだ渡せない。今はここまで」


 エルトゥールの顔を見上げて、目が合うと、瞳に光を浮かべて微笑んだ。

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