第11話 おはようおはよう
料理は食べた。美味しかった。
何を食べたかは、よく覚えていない。
座って、水を飲んで、パンをかじって、煮込み料理をスプーンですくって口に運ぶ。
横に座ったアーノルドが何かを話し始める。内容は耳を素通り。
記憶はそこまで。
目を覚ましたら、知らないベッドだった。
* * *
寝起きは良い。
ぱちっと目を開いたまま、状況を理解できずに、エルトゥールは身動きもせず考え込んでいた。
(昨日、シェラザードで結構遅い時間まで働いた。料理を運んだり、厨房にオーダーを通す方法を教わりながら、ひたすら声を出して、走り回っていた。その後、ようやく食事で……)
記憶がぶつ切りということは、寝てしまったのかもしれない。そう結論付ける他ない。
街中のレストランで夜遅く、意識不明。命も貞操も何もかも失って不思議はない状況だが、ベッドで目を覚ましたとなると、誰かが助けてくれたということになる。
天井や壁の雰囲気は、エルトゥールの寮の自室に似ていた。同じではない。
身じろぎをしないように、そーっと視線を巡らせたときに室内でいくつか見慣れぬものを確認している。
その最たるものが、片肘のカウチソファで横になって寝ている、見覚えのある少年。
閉ざされた瞼にさらさらの黒髪がかかっており、健やかな寝息が聞こえる。
瞳の印象が強く、向き合えばそこにばかり目を惹きつけられていたが、こうしてしずかな寝顔を見て見ると、恐ろしく端整な顔立ちをしていることに気付かされた。
(アーノルド殿下……)
シェラザードで制服として着用しているシャツではなく、おそらく通勤時の変装用らしい白いシャツを身に着けたままの姿である。
(状況から考えるに、ここはアーノルド様の部屋。つまり、男子寮。昨日シェラザードで私が倒れてしまって、ここまで運んでくれた? ということになるよね。で、私はアーノルド様のベッドで、えーと)
エルトゥールが、過酷過ぎて倒れたカフェの仕事。先輩で、中核メンバーであるアーノルドは、当然もっと働いていたはず。その挙句、深夜に人ひとりここまで運んで、ベッドを譲って、自分はソファで倒れて寝てしまったらしい、という推測が成り立つ。
ひたすら申し訳ない。
目を覚ましたら謝る。まず謝る。そのつもりはおおいにあるのだが、エルトゥールが次の行動を決めかねているのは、このあと自分がどうなるのかまったくわからないせいだ。
(仕事の終わりで気がゆるんだんだろうけど、あれがまだ仕事の最中だったとしたら『使えない奴』認定されてないかな……。仕事……。仕事がなくなるのは困る。というか、この状況どうしよう。私、男子寮のアーノルド様の部屋で一晩過ごしたことになってる?)
仕事に気を取られかけたが、それ以上にもっと深刻なことがあると、遅まきながら考えるに至った。
男装していたとはいえ、アーノルドは完全に中身がエルトゥールと知っている節があった。だからこそ学校に連れ帰ってきているのだろう。
エルトゥールは毛布の下の自分の服装を確認する。昨日カフェで働いていたままの格好で、寝乱れた以上の不審な痕跡はない。
男女として何もなかった、と確信はできる。
問題は、証人がいない上に、アーノルドには婚約者もいて、「何もなかった」としても、おそらくこんなことは絶対に許されないであろうことだ。
どうしよう。
変な汗まで出てきてエルトゥールが固まっていたときに、ドアをノックする音が響いた。
「おはようございます、アーノルド様。マクシミリアンです」
ドアの外から響いた声に血の気がひいて、エルトゥールは毛布を引っ張り上げる。
ほぼ同時に、アーノルドがパチッと目を見開くのが見えて、慌てて目を瞑った。
「いま開ける。あ~……寝た」
薄目を開けて見てみると、アーノルドはソファから足を下ろし、柔らかそうななめし革の室内履きをつっかけながら、ドアの方へと歩いて行った。
「昨日、帰りが遅かったようで、念のためお迎えに上がりました。そのまま寝ていたんですか?」
「ん、着替える」
(銀髪眼鏡。アーノルド殿下と一緒にいた学生だ。宰相の御子息って紹介されていたはず)
頭まで毛布をかぶれなかったのは手落ちだが、おかげで薄目を開けて様子を見ることができる。
しかし、マクシミリアンが視線を向けてきたのを感じて、咄嗟にぎゅっと目を瞑った。
「どなたかいるようですが。ベッドに」
「そう非難がましく言うな。男だよ。シェラザードの新入りなんだけど、昨日初日から働かせすぎて、倒れた。閉店した店内に置いてくるわけにもいかないから、ここまで連れ帰ってきた。目が覚めたら、正面から出て行かないように抜け道を教える。自分で家に帰るだろう」
アーノルドの説明は、大筋では嘘ではない。
(たぶんマクシミリアンさんはアーノルド様が働いていることは知っている。でも「エルトゥール」のことは知らない? アーノルド様も隠そうとしている?)
それはそうだ。
働いているのは主にエルトゥールの事情で、フォローしてくれたのはアーノルドの親切だが、仮にも一国の王子と王女。しかも王子には婚約者。
この状況で、二人で寮で一晩一緒に過ごしたという事実が漏れた場合、お互い無事には済まない。
(国際問題……、賠償金……、強制送還)
とてつもない醜聞になる、とエルトゥールは瞑った目に力を込めて、ぐぐぐと眉間に皺を寄せてしまった。
「親切もほどほどに。殿下が寝入ったところで、いきなり寝首をかかれないとも限りませんよ」
「いやあ、さすがにそんな目ざとい感じの子じゃない。本当に普通の新入り。お金に困ってるんだって。もしかして家に病気のお母さんでもいるのかも。力になりたいって思っちゃってさっ」
アーノルドの明るい声につられて、そうっと目を見開いてみる。
視界に入ってきたのは、シャツを脱ぎ捨てたアーノルドの、裸の背中。
「……っ」
焦って息をのむ。悲鳴は噛み殺したが、マクシミリアンが眼鏡越しに鋭い視線を投げかけてきていた。
(目、あっちゃった。起きてるのバレた……!)
やばい、と思ったところで、前触れもなくドアがどかーん開け放たれた。
「おはよう、男子たち。遅いから迎えに来ちゃった!!」
颯爽と室内に踏みこんできたのは、長い金髪をなびかせた極めつけの迫力系美女。
公爵令嬢、ジャスティーン。
固まっているエルトゥールを見ると、紺碧の瞳をすうっと細めて、にこりと微笑んだ。
「おはよう。ねえ、婚約者殿。君のベッドに誰かいるんだけど、どういうこと?」
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