第10話 カフェの王子様
食事時のカフェ・シェラザードは、さながら戦場だ。
次々と客が店内に入ってくる。
入口で一度客の動きを止めて、人数を確認し、テーブルに案内する係がいる。
「テラスがいいとか、カウンターがいいとか、お客様の希望も聞くけど、こちらの都合もある。それとなくうまくお客様の配置を考えるので、あれは結構熟練の仕事。それこそ、大人数のグループの横にカップルだと、隣の話し声がうるさすぎて話もできなかった、なんてこともあるし。その辺は慣れてきたら感覚でわかる」
「はい」
本当はすごく忙しいだろうに、アルが急いた様子もなく説明してくれるのがありがたく、エルトゥールは真剣に聞き入っていた。
自分もいずれ担当するかもしれない仕事だ。その時になって聞けば良いという話ではない。
「テーブル数、五十六。数字が振ってあるけど、たとえば三十五番と三十六番がどのへんで、どっちがどうか、って料理運ぶときに一から数えている場合じゃない。店内四十テーブルは十ずつまとめていて、小さな島になっている。
「大丈夫です」
キャンドルに照らされた店内は薄暗いが、よく見るとそれぞれのテーブル群の「色名」にちなんだインテリアが配置されているようだ。クルムズのテーブル周りには赤い花をつけた観葉植物。べヤズはテーブル上のキャンドルスタンドがすべて白、といった具合。
(スィヤハはジェラさんか。黒猫。迷っても、それぞれの起点になる一番のテーブルさえわかっていれば、数えても大変じゃないってことですね)
アルの説明を頭の中で繰り返したエルトゥールは、不意に視線を感じて顔を上げた。
前日と同じ、黒のシャツに赤のエプロンとバンダナ姿のアルが、瞳を輝かせてエルトゥールを見ていた。
「物怖じしないな。この熱気に騒がしさだ。気圧されて、逃げ腰になるかと思っていた。怖くないのか?」
「怖い……。怖くないわけじゃないですけど、やらないわけにはいかないので。逃げてもどうにもならないですから」
(そもそも、私は逃げて来たんです。「結婚」から。それでもまだ一応、姉さまの庇護下にいる。ここからさらに逃げても、連れ戻されるだけだ。それは回避したい)
「怖いか怖くないかで言えば、怖いことはたくさんあります。だけど、アルは今のところ私に親切です。知らない場所でも、親切なひとがいるなら、なんとかなるかなって思います」
「なんでそんなに俺を信用する? 会ったばかりだぞ?」
エルトゥールはそこで目を細め、アルをじっと見つめる。笑っている。試すような、少しひとの悪い笑み。
声を低めて、気になっていたことを尋ねた。
「アーノルド殿下ですよね。この国の王子であるあなたが、なぜ平民に混じって働いているんですか?」
「それは俺も聞きたい。どうして『エル』は、カフェ店員をする気になったんだ?」
(これは実質、認めています……! アルは、やっぱりアーノルド王子ですね。そして私の正体も、わかっている。であれば、下手に駆け引きはしない方がいい。手の内は、きっと読まれているでしょう)
「お金です。お金が必要なんです。私は姉さまに言われるがままに留学を決めたんですが、学費は自分で稼げと言われました。退学になるわけにはいかないので、稼ぎます!」
ほぼそのままの事情を話してみた。この流れで言えば、アーノルドはブラッドリー氏から聞いていて、知っている可能性も高いが、敢えて。
「なるほど。学費はかなり高いぞ」
「わかっています。それで紹介されたのが、ここの仕事なんです。誠心誠意働いて、それでも足りないときは……」
アーノルドは、そっと手を伸ばすと、エルトゥールの頭髪を覆った紺色のバンダナに軽く触れた。うまくつけられていなかったようで、直してくれているらしい。
「俺が思った以上に、打たれ強そうで安心した。しかし、それはそれで心配でもある。昨日も言ったけど、稼ぎが足りないからと言って、ここ以外で働こうとはするなよ。それくらいなら、学校で好成績を修めて、学費免除を狙った方が良い」
「そ、そんな方法が……!?」
「良い反応だ。狙うのはありだろ思う。しかし、学費免除レベルの成績ってかなりだからな。おいそれと取れるものじゃないぞ」
きっぱりと言って、エルトゥールから手を離す。すぐに思い直したように、エルトゥールの首の後ろに手を回して、バンダナの結び目を軽く引っ張った。
顎を逸らしてアーノルドを見上げる形になったエルトゥールの顔を覗き込む。
相変わらず、どことなくひとの悪い笑みを浮かべて言った。
「そんなわけで、しっかり働いてもらおうか、エルくん?」
その言葉通り、初日だというのに滅茶苦茶働くことになった。
仕事上がりの時間帯には、疲労困憊で声も出ないほどに。
(倒れる……。大声出せって言われて、大きな声で話していたから、声が枯れています……)
飲まず食わずだったとようやく気付いた頃。
客のひけた店内で、背後から近づいてきたアーノルドがそのままぶつけるように肩を寄せてきた。
「スィヤハの一席。ジェラさんのところ。先に座って待ってろ。まかないあるから食うぞ。お疲れ様」
用件のみを伝えて去っていく背中を、言葉も無く見送る。
エルトゥールは、足をひきずりながらなんとか指定されたカウンターの端の席に座った。
今日も聖獣ジェラさんはそこに鎮座していて、エルトゥールと目が合うと、妙に人間くさい表情で目を細めた。
しかし興味はないようで、すうっと顔を逸らしてから、耳まで裂けそうな大あくびをしている。
猫そのものの、仕草で。
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