四章 魔性乱舞し月下に斬り合うこと

 ジャッケルたち四人が都に戻る算段をしていた頃、都では、クラーマの隠れ宿にいたラミレスが、沓石の庭草履を履いてふらりと裏庭に降りていた。雛菊に薊、芝桜などが咲き乱れている。ラミレスはこの風景が気に入っているらしく、従者が庭に鎌を入れようとしたときも、

「そのままに」

 と命じた。従者が、

「雑草でござる。客を招かれたとき、庭が荒れておれば、我ら家人の恥でござる」

 と答えると、ラミレルは不機嫌そうに、

「雑草という名の草はない。それぞれに名があり、花をつけ、天地に役割を担っている。人と同じだ。儂がお前を雑人と呼んだことがあるか」

 キタン州から傭われて都に上がってきた従者は、もうそれだけで感動した。


 その従者も用事で他行している。無人の筈だが、小柄な影が一つ、尾花の間に蹲っている。茶の小袖に麻色の四幅袴よのばかま、頭に埃除けの手拭を巻いている。

「クルキルよ」

 影が蹲踞の姿勢のまま、くるりと体を反転させた。返事はしない。ただ皺の間からゴブリンの数珠玉のような目が冷ややかにラミレスに向いた。

「セレネイアが関銭を十文から十六文に上げたことを知っておるか」

 ラミレスが独り言のように呟いた。

「そのようで」

 皇妃セレネイアは、九年前から都の入り口十二箇所に、内裏修理費の調達を名目に関銭の徴収を始めた。

 セレネイアはこれで屈指の銭持ちとなったが、都の諸式は高騰、荷運びの馬借、車借らは一揆を起こして何度も関を襲っている。

 セレネイアは実子フレイを猫可愛がりしていて、稼いだ関銭を土倉に貸しつけ、元本の五分の一を皇家に納めさせている。町衆の間で評判になっているフレイの遊興の財源は、主にこの収益と言われている。


 その関銭が上がったという。

「フレイ様が新しい遊びでも思いついたのでは」

「それならいいがの」

 庭石の一つに腰を降ろした。

「それと、先日、都入りしたライン大公様が参内した際、良からぬ噂を耳にされた」

「それは」

「うむ、陛下の病状、かなり進んでいるものと見ゆる」

 ゴブリンは黙って聞いている。

「大公様から御下問あったが、我ら奏者番とて今は名ばかり、陛下の周囲は奉公衆に固められ、儂ももう一月も尊顔を拝しておらぬ」

 と庭の花を眺めながら、ラミレスが続けた。

「そこでだ、宮中に入り、物見せよ」

「それがしとて、陛下の寝所に忍ぶは畏れ多い」

 皇帝の寝所は奉公衆の武者が四六時中見張っている。

「寝所に入らずともよい。皇帝の病状を伺わせる証を調べよ。関銭の値上がりと皇帝の病状、何やら関わりがありそうな気がするのだ」

 クルキルが無言で平伏した。そのまま動かない。

「どうした」

 ラミレスは、急に黙り込んだゴブリンを気味悪そうに睨んだ。

「ラミレス様、こちらでございましたか」

 従者が庭の落ち葉を踏んで近づいてきた。

「お一人で何を語ってござる」

 うたいの稽古でござるかと従者が尋ねた。

「あ、ああ」

 目の前には、クルキルが頭に巻いていた手拭が丁寧に畳まれて置かれている。

「あやつのやり口は、いつになっても慣れぬ」

 ラミレスは手拭を拾い、立ち上がって苦笑した。


(さて、どうするか)

 人で賑わう道をのんびりと歩きながら、クルキルは思案した。ラミレスの蔭供を務めてはいるが、今まで皇宮に入ったことはない。何度かラミレスの供としてついていったことがあるが、宮門脇の控え小屋で待たされれるだけで、中を覗き見たこともない。

 だいたい、このような探索仕事はアツマかシグルスの仕事であろう。特にシグルスは元陛下奉公衆、うってつけの筈だ。


(まあ、愚痴っても詮無い)

 大きく伸びをすると、遠くの皇宮を眺めた。

「真っ直ぐ入るより、まずは噂の市に立つか」

 そう呟いて、宮の東の通りの人だかりを見やった。二年前の兵乱の後、暫く荒野であったが、今は新出来の町屋が並んでいる。

「辻君の言葉に耳を傾けてみるも一興」

 下卑た笑みを口元に浮かべた。

 この一つ先の小路一帯には小屋掛けの遊女屋がある。

 そうと決まれば、まずはとクルキルは古着屋へと足を向けた。


 夕刻、クルキルは、縒れた水干に飾り刀といった貧乏貴族の従者の形を作って、遊女屋の木戸を潜った。

 クルキルの敵娼あいかたは、元はガイエス侯に加担して没落した貴族の娘という触れ込みの、ひどく陰気な娘だった。胸を病んでいるのか、時折妙な咳をする。しかし、世間噺は好きなようで、クルキルが水を向けると、

「ようやく、この辻々にも客が増えました」

 と微笑んだ。クルキルが不思議に思い、

「関のおかげで諸式が上がっておる。良い兆しでもあるのか」

「はい、今まで尾羽打ち枯らしていた奉公衆の御家来衆が、急に銭払いが良うなって」

「良い稼ぎ口でも見つけたか」

「皇家より多額の銭が下されたそうで」

「有難い話よな」

「お前様は真似できますまい。皆、戦立ての支度銭でございますよ。どうやら、スズネルで乱妨狼藉するハルバル侯を御征伐なさるようで」

 辻君ばかりか、刀剣鍛冶や武具細工師まで活気づいているという。

「我のごとき雑人ずれには縁なき話か」

 面白くなさそうに呟きながら、クルキルは女の尻を撫でた。


 帝国の政治機構は、ラミレスも属している奉行人と奉公衆の二重構造で成り立っている。皇帝ライオネウトは、官僚として実務を担う奉行人を掌握していたが、一方で、皇妃セレネイアは皇帝親衛隊である奉公衆の権力を強めていた。両者の仲は悪化し、昨年の皇帝家参賀の席で乱闘騒ぎまで起こしている。その奉公衆が、人目も憚らず戦支度をしている。


(違うな)

 翌朝、朝靄の立ち込める中、屋台で麦粥を啜りながらクルキルは昨夜のねや話をゆっくりと反芻していた。

 ハルバル侯は皇家に多額の献金をしている。ハルバル攻めはないと考えていい。なら、奉公衆の鉾先はどこへ向かうのか。

(やはり、入ってみぬとわからぬか)

 クルキルは、ヒルコの森に潜んだ。皇帝の住まいである皇宮は、この森から十五町程南にある。「黄金の城」と謳われたそこは、二年前の兵乱で焼けたが、昨年再建された。初めは寝殿造りだったが、今は守りやすいように建物が雁行に配され、四隅に井楼せいろうが建てられている。

(夜に動くか)

 クルキルは北東の築地から鬼門避けの祠に入り、夜を待った。


 暗くなって、クルキルは平蜘蛛のように這いつくばって、皇宮の庭を徘徊した。

(驚いたな)

 皇帝の邸だというのに、警備がまるでなっていない。四方の門や井楼、厩に人がいるが、双六、小博打を打つか眠りこけている。

(御主殿に参ってみるか)

 クルキルは檜皮葺の屋根に上がった。そのまま水屋を抜け、板塀を乗り越え、千鳥破風の屋根がついた橋の見える池の前に出た。

 微かに怪鳥じみた嬌声が上がっている。

 身を低くして覗き見ると、池に臨む小座敷が真昼のように明るい。

(不思議な造りじゃ)

 縁先の柱は全て角柱で、蔀戸しとみどがなく、引き違いの建具が入っている。そこに一組の男女が坐っている。

 女は派手な色目の打掛、男は紺の狩衣。酒の入った太鼓樽を幾つも脇に置き、二人は巨大な土器かわらけを傾けていた。

(あの男は、ルシウス大公ではないか)

 何度か路上で行列を見たことがある。歳は三十五程度、艶のある赤茶の髪を総髪にし、赤銅色の肌、やや痩せてはいるが引き締まった身体で、背筋を伸ばし、悠々と盃を傾けている。

(なれば、あの女人がセレネイアか)

 皇宮の中でここまであからさまに大公と戯れられるのは、皇妃しかなかろう。噂に違わず、もう四十を軽く過ぎている筈なのに、二十半ばと言っても通る凄まじい美女である。しかし、若干常軌を逸している。時折聞こえたけたたましい声は、この女のものであった。


「さてよ、妃よ」

 ルシウスが土器を投げ捨てた。

「月も陰り、酒にも飽いた。これより新たな戯れをなさん」

 女の胸元に手を差し込み、緋の袴に手をかけた。

「あれ、無体な」

 悲鳴を上げて女は逃げる素振りをしたが、逆に男に抱きついて、狩衣を脱がせていった。

 やがて二人は煌々とした明かりの下で抱き合い、喘ぎ声を響かせた。

(何じゃ、阿呆らしい)

 女の身体に乗って、尻を動かす男から目を背け、クルキルは庭を去った。


 主殿の板敷に上がり、南の回廊を進むと、塗籠の部屋があり、宿直の二人が眠りこけている。杉戸を上げて忍び込むと、塗りの櫃が並び、奥の壁に張り紙がある。

(これが宝物蔵か)

 張り紙には、「無尽」「骨無こちなし」「竜鱗甲」と書かれているが、そこには何もない。

(無尽とは開祖タービニス帝が雷神から授かったと伝わる宝玉、骨無は皇家の守り太刀、竜鱗甲も皇家伝来の着背長きせながのことだが)

 いずれも皇室の宝である。それが、皇宮にない。

 まあよい、考えるのは後だとクルキルはそっと部屋を出た。


 夜通し駆けて隠れ宿に戻ったクルキルを、ラミレスは苦い顔で迎えた。

「遅い」

「さにあらず。物見は詳報を持ち帰ってこそ武功でござる」

「詳しい報せとな」

「関銭の値上がりは、奉公人を手懐けるためが一つでござる」

「それくらいは察しておる」

「では、これはいかがか。皇宮に皇家重代の三宝無し。何れかへ運び出されてござる」

 ラミレスの薄い眉がぴくりと動いた。

「それは面妖な」

「これは、質入れしておるのではありますまいか」

「虚仮を言う。幾ら奉公衆に報いるためとはいえ、いやしくも皇家の宝物を質入れなど、いや待て」

 そこで、ラミレスは目を閉じた。

「前例がある。十八代様の頃、西央国への渡海のついえとして、重代の宝物を土倉つちくらに入れて百万貫作ったという」

「大規模な合戦を企んでおる故、その軍費の足しでありましょうや」

「どうもそればかりではあるまい。もっと銭のかかることを企みおるようじゃな」


「それともう一つ」

 クルキルは、ルシウス大公と皇妃セレネイアの情交を語った。

「ふむ、やはりか」

「なにか」

「陛下の余命は僅かか、もしくは最早亡くなっておられる」

 全く驚くふうも見せず、ラミレスは腕を組んだ。

「いかがなされた」

「これは少し面倒なことになったな」

 立ち上がると、手を叩いて人を呼んだ。

「ライン大公様の屋敷に参る。直ちに支度せよ」

 ラミレスが振り返った頃には、もうクルキルの姿は煙のように消えていた。


 一刻後、ラミレスはライン大公の館の小広間にいた。

 端坐して大公を待っていると、大公の家宰カイリが戸を開けて入ってきた。普段の人当たりの良い顔が僅かに引き攣っている。

「これは、カイリ殿」

 平伏したラミレスを手で制し、

「挨拶は後じゃ。こちらに来られよ。皇宮より火急の使いが参った」

 く、皇宮に馬を参らせよという。

「唐突な」

 立ち上がったラミレスは、小走りにカイリの後を追った。

「何かございました」

「心して聞かれよ。昨夜丑の刻、皇帝陛下におかれては、病があらたまってござる」

「まことでござるか」

「ここのところ、寝所で煩悶はんもんされておられたが、ついに」

 ここで二人は奥座敷に入った。

 中では、大公が小姓に手伝われて礼服を着込んでいた。

「おう、ラミレスか」

 ギルクリク・ドレイル・ライン大公が猪首を巡らせてラミレスを見やった。

 白いものが目立つ黒髪を短く刈り揃え、茅色かやいろ直垂ひたたれに分厚い体躯を窮屈そうに押し込んでいる。

「皇宮に参る。お前もついてこい。話は道中で聞く」

「それがしのこの形でよろしいので」

 微行ということで、敢えて胴服を着て、茶人か連歌師に見える格好にしている。

「ああ、そうか」

 しばし考えるふうであったが、

「カイリ、この者に備えの具足を出してやれ。儂の馬廻ということにすれば良かろう」

「ささ、こちらへ」

 カイリに袖を引かれるように、ラミレスは土蔵に走った。


 ライン大公は、馬を参らせよとの言葉を守って、騎乗の郎党二十余名に武装させ、自分のみは礼装で病気見舞いのていを作り、夕刻、皇宮に入った。

 門前には篝火の用意をする雑人らが走り回り、ライン大公と同じように、在都の諸侯たちが率いる騎兵たちが鎧の袖を撓めている。

「なんと健気なことよ」

 陰で無為無能と蔑んでいても、危篤となればこれだけの人数が駆けつける。

「いじらしいものだ」

「おやめください」

 ラミレスは慌てて大公の放言を諫めた。

 しかし、その大人しいラミレスも顔色を変える椿事が直後に出来した。

 門の矢禦ぎに立つ皇宮の兵が、大公の旗印を見て、

「キタン州の名主みょうしゅ、ライン大公殿、着到」

 と大声で告げたのである。

(名主だと)

 建国以来続く名門騎士の家系だ。名主職などでは断じてない。馬首を返すほどの非礼だが、今は変事の時とラミレスは我慢した。皇宮の衛兵などは、近隣の村から召し抱えた雑兵が多い。旗が何を意味するのか知る由も、知る気もない者どもである。


 大公は、郎党を土居の外側に待たせてただ一人きざはしを上った。庭を見ると、懸金付きの楯列が並び、奉公衆配下の番衆と呼ばれる騎士が片矢の形で詰めて、しきりに指を嘗めている。これから皇帝を拝眉はいびしようとする者を威嚇しているのである。

(クルキルの報告と違う)

 ラミレスは訝しんだ。あの乱波は、皇宮の警備は弛み切っていると告げた。あの男が見誤る筈がない。

(僅かの間に何かあったのか)


 板敷にも、鎧下に腹当をつけた評定衆や、これ見よがしに小具足姿の騎士の一団が控えている。病気見舞いにしては異様だった。

 階を上がる大公の背を見送っていると、

「ライン大公、階下したに戻り控えませ」

 突如、階上から声がかかった。見ると、大紋を袖括りして腹当をつけた小男が怒鳴っている。皇帝近侍のザインという者だ。

 っとした大公が口を開くより早く、ラミレスが声を荒げた。

「庭先に降りよとは何事。大公は雑人地下の類ではござらぬ。何故にそう申されるか」

 だが、ザインも負けていない。

御諚ごじょうにより御召しであるに、その身形みなりは何か。火急の参内は物具つけて参るが御定め。着到の次第、いささかも法度に背けば厳科に処すべしとの日頃の申し付けを忘れられたか」

 と殊更に肩を怒らせ、女のような声を張り上げた。

 ラミレスは板敷に唾を吐きたい気分だった。ザインというこの男、エン州の神職の出というが、厄介事を起こして一族から放逐されたという。縁を頼って皇帝後妻セレネイアの実家ラシアス家にうまうまと取り入り、今の地位に上った。

(流れ者め)

 ラミレスは大公が激高して刀を抜くのを恐れた。だが、大公は冷静だった。

「これはしたり」

 大公は努めて物静かに言い返した。

「陛下御病気と覚えた故に、清浄を心得るべしと、礼装で参上した」

 袖を大きく広げて胸を張った。

「それが見舞いの心得と申すもの。病の御床近くに鎧虱よろいしらみつけて参ることこそ不忠なれ」

「黙られよ」

 ザインが声を荒げたが、大公は朗々と続ける。

「そも、我が大公家にあっては、初代タービニス帝が魔王オージュを髑髏島に攻めた折、オージュが帝を狙って矢を放つを、大公家初代ログス、鎧を解き大楯に着せて防がしめ」

 以来、大公家当主は戦の直前まで甲冑を着ないのが古法と説いた。

「古法でござるか」

 何事につけても名家の慣例を大事にするのがこの時代の作法だ。ザインは急に白けた表情になり、何も言わず奥へ小走りに去っていった。

「成り上がりめ」

 誰かが吐き捨てるように言った。居並ぶ騎士どもも同じ気分だったのだろう。小具足の擦れ合う音と低い笑い声が上がった。


 二刻ほどして、ライン大公は何事もなく下りてきた。

「御無事でありましたか」

「うむ、控えに戻れと命が下ってな」

 控えの間と言っても、宮門前に床板を敷くだけである。大公は配下の者を呼び、直垂を脱いで鎧姿に着替えた。彼とて万が一の用意はしてきている。

 そこに、見知った顔の騎士を見つけてラミレスは声をかけた。

「この騒ぎは」

 トクラという名のその騎士は、ラミレスの差し出す瓶子の酒を口に含んだ。

「まるで、明日にでも皇宮に兵火がかかるごとき騒ぎではないか」

「ラミレス殿は御存知ないか」

 トクラは日焼けした額をラミレスに近づけた。

「今朝方、陛下が御倒れになった後、妃が」

「妃が何と」

「やにわに皇宮内の番衆を動かし」

 先妻の子であるアニーナ姫を捕え、牢に込めたという。

「烏滸を申すわ」

 ラミレスは笑おうとしたが、トクラの睨むような目を見て顎を強張らせた。

「皇帝倒れなば、長女たるアニーナ姫が次期女帝として兵を統率し、国内外の乱に備えるべきではないか。それを幽閉して何とするのだ」

「それ故、戎衣じゅういで参らせよとの命でござる」

 召集令は皇帝の名で出たが、その実、皇妃から発せられている。この機に乗じた反皇妃派の襲撃に備えてのことなのだろう。

「では、この度の軍勢催促は女子おなごの口から出たと申すか」

「漏れ聞いたところでは」

 礼装で参上した大公へザインが常軌を逸した怒りを見せたのも、皇妃の顔色を窺ってのことであるという。

「妃の一党は、誰が己れの味方か、誰がアニーナ様に加担するか、推し量ろうとしてござる。くれぐれも、大公様におかれては、御身の処し様、御注意あるように」

 トクラはそれだけ言うと、酒の入った盃を置いて去っていった。


 空も白み始めた頃、騎士たちは解散を命じられた。ラミレスもライン大公と並んで、館に戻るべく馬を並べて南へ向かった。

「腹に泥でも詰められた気分でござるな」

 ラミレスは鞍上で毒づいた。

「後妻というものは始末が悪いものよ。しかし」

 ライン大公が表情も変えずに言った。

「土牢に込められたアニーナ様は御無事であろうか」

 初め、大公はアニーナが皇位を嗣ぐことに反対で、女帝というものをひどく嫌っていた。

「女の身で騎士の棟梁など正気の沙汰と思えぬ」

 と広言して憚らなかった。

 それがある日、アニータ姫の傅役もりやくソラス子爵の密使と称する得体の知れぬ歩き巫女と対面した途端、

「陛下先妻の御令嬢こそ不憫」

 と掌を返したように擁護派へ転じ、更に一族にも同調するよう働きかけはじめたという。


「それにしても、皇妃セレネイア様の、腹を痛めた我が子を跡継ぎにという御執心の深さも、魔が憑いたとしか思えませぬ」

 ラミレスは、日ごろから皇宮の周辺にアツマとシグルスをって銭を撒き、種々の噂を集めていた。

 妃がアニーナ様を除かんと企んだのは以前からのことで、妃がラシアス家から伴なわれてきた侍女たちが、その汚い役を引き受けてきた。

 初め彼女らは姫に毒を飼おうとしたらしい。しかし、それは妃の命令で止められた。邪悪なくせに、怨霊の報復を極端に怖れるのがこの時代の貴人の特徴である。

 かわりに、姫君を狂人に仕立て上げようとした。時間をかけて、アニーナの世話をする侍女たちに暇を与え、深夜に怪しの影を見せて姫をおどした。

 姫の傅人もりとソラス子爵をシダリの南に追い帰したのも、それらの者どもの仕業だった。

 さらに、妃の侍女たちは、皇帝の周囲に姫君の謂れもない悪口を流した。仕上げに、神棚からアニーナの実母、つまり前皇妃の位牌を隠した。

 位牌紛失を知ったアニーナは、天下無双と謳われた美貌を歪ませ、自慢の美しい黒髪を振り乱して皇宮を駆け巡り、寝所の鬼門、北東の溝に捨てられていると告げられるや、着衣のまま汚泥に飛び込み、位牌を抱えて獣のような泣き声を上げた。

 皇帝ライオネウトは、後妻にあれこれ告げ口されてアニーナへの情も薄れ、その心境を思い遣る心も失せ始めていた。ただ、その狂乱ぶりに眉を顰めるばかりであったという。


 それでも長女だ。後妻が床の中でいくらねだっても、今一つ、廃嫡に踏み切る気になれなかった。

「そこに、皇帝陛下御危篤で絶好の機会が到来したというわけか」

 ライン大公が忌々し気に笞を振った。愛馬が驚いて嘶いた。

「左様、陛下御隠れと聞き、後妻一派は真っ先にアニーナ様の寝所を襲い、土牢に押し込めたようでござる。その牢も、この日のために時をかけ、目立たぬよう作っていたというから、念の入ったことでござるな」

 ラミレスは苦笑した。ライン大公はにこりともせず、

「陰湿じゃの。我ら騎士には及びもつかぬ」

「そのようで」

「ルシウスもそれが伝染っておるようだな。あの武偏一辺の男が、妃と情を通じておったとはな。今日も涼しい顔で上座に坐っておったわ」

 吐き捨てるように言った。皇妃一派がこのような思い切った手に出たのも、ルシウス大公の武威の後ろ盾あってのことなのだろう。

 しばらくライン大公は黙り込んだ。余りに救いのない話に辟易したのか、急に口調を明るく変えた。

「まあ、皇宮のことは置いておくとして、どうであろう。我が館で鎧解きの宴でも催そうと思うが、付き合わぬか」

「大公様の申されることならば、いかようにも」

 二人はそのまま馬を並べて走らせた。


 館では、人々が総出で一行を出迎えた。

 皇宮の変事はこの館にも伝えられている。留守居の者どもは、主人の無事の帰館を神に祈り、ひたすら心待ちにしていたのであろう。

 早速、宴の準備が始まったが、直後にライン大公らを追うように皇宮の密使がやってきた。使者は人目を憚ってか修道僧に扮していた。

「皇帝崩御」

 とその「僧」は言ったが、ライン大公以下誰も驚かない。しかし、一度帰って寛ぎかけたところで、もう一度舞い戻って葬儀に出るのは大儀だった。

「いえ、皇帝陛下御葬儀は密葬でござる。御出向きの必要はござらぬ」

 既に遺骸は皇宮の寝殿西の庭にけられたという。

「御手際がよろしいようで」

 ライン大公が嫌味を言った。

 使者は顔色も変えず、更に衝撃的な言葉を口にした。

「御遺言により、アニーナ姫は正式に廃嫡に決してござる。御後継様は、長男フレイ様でござる」

(あの襁褓むつきも取れぬ幼童のフレイが皇帝か)

 予想していたことだが、やはり衝撃的だった。

「で、皇妃様は」

 ラミレスが尋ねた。使者は冷たい目で彼を見返した。

「皇妃様は皇帝陛下御逝去に伴い、フレイ様御元服まで後見をお務めなさる」

 わかりきったことを聞くなというふうに肩を揺らした。

「ライン大公様も、その御一統も、よう料簡なされよ。ここは新皇帝を推戴なさるが得策でござる。この度、アニーナの」

 と、使者は皇帝の長女を平然と呼び捨てにした。

「傅役ソラス子爵には、皇宮より誅殺の命が下されてござる」

 妙な動きを見せてソラスと同類と思われるなと釘を刺して使者は去っていった。


 使者が立って暫くして、ラミレスが瓶子を取ってライン大公の盃に酒を注いだ。

「ソラス子爵討伐に御発向なされるので」

「まさか、はるばる極北の地から参った我らの出番などないわ」

 盃をくいと傾けて大公は答えた。

「それに我が手勢は千五百しかおらぬ。これで何ができる。皇宮の中の諍いの尻拭いなど」

 たまらぬといって呵々と笑い声をあげた。

 それを合図に、皆が次々に酒杯を手に取った。ようやく鬱気が晴れ、和やかな空気が座を支配しだしたころ、ライン大公がラミレスに顔を寄せた。

「ラミレス、アニーナ様が込められたる土牢の詳しい場所を探れ。警護の者どもの詰め所、人数などもな。我が手の者は都上がりの鄙者ひなもの揃い故、探索の手が足りぬ」

「何をなされるお積りで」

「まだわからぬ。ただ、思案の材がひとつでも欲しいのよ」

 そう言ったライン大公の据わった目を見てラミレスは内心ぎょっとした。


 ジャッケルら四人が、旅の埃に汚れた体で隠し宿に戻ったのは、それから四日後のことであった。

 庭の掃除をしていた従者は、ラミレスは離れの書院にいるという。書見でもしていると思えば、昼寝をしていた。

 四人が足を濯ぎ、囲炉裏の間で茶を喫して待っていると、ラミレスが生欠伸を噛み殺して入ってきた。

「陛下崩御の話は聞いておるな」

 四人に労いの言葉もなく、胡坐をかくとすぐに尋ねた。

「都に戻る途上で」

 四人を代表してシーゲルが答えた。

「うむ、不覚にも、儂の見立てより半年早かった」

 腕組みをして軽く首を鳴らした。

「では、アニーナの姫君が土牢に押し込められたことも耳にしておろう」

 シーゲルがのそりと顎を縦に動かした。

「それをお助けせねばならぬ」

「何と」

「ライン大公様におかれては、姫をお助けするに決めた」

「助けていかがなさる」

「帝位を簒奪したセレネイアとその一党を討伐し、姫を帝位にお戻し差し上げるのさ。そして」

 面白そうに一同を見回した。

「グイナード様の御台所みだいどころとしてお迎えする」

 キタン州の留守を任されているライン大公の嫡男だ。

「何と。ライン大公は天下に覇を唱える御積りか」

 シーゲルが呻いた。

「天下大乱になりますな」

 ジャッケルが、碗を持ち上げて言った。

「セレネイアの専横には皆がんでおる。うまくすれば、小競り合い程度で済む」

「そううまくいきましょうや」

 ニドが澄ました顔でぽつりと言った。それには答えずラミレスは苦々しく笑った。


「それで、何時、姫をお救い申し上げるので」

 シーゲルが懐から紙巻を取り出しながら訊いた。それにつられて皆が一斉に紙巻をくわえた。囲炉裏の間に紙巻の煙がたなびいた。

「すぐではない。ソラス子爵討伐の軍が催される。皇帝フレイ帝自ら御出陣するそうな」

「それはいつ頃で」

「文月の朔日ついたち、帝畿六州に軍勢催促の御教書が発せられる。奉公衆も出陣するので皇宮の警備も手薄になる。その隙に」

 奪い返すと気軽に言った。

「あと一月以上あるよ。それまで、姫様の身体が保つかな」

 スウが心配そうに聞いた。

「それは心配ない。シグルスが聞いたところでは、土牢の中は板敷に夜具を備え、晴れた日は牢を出て風に当たることもできるそうだ」

 薬師まで控えているという。

「それはまた手厚いことで」

 ジャッケルが皮肉めいて言った。

「死んで欲しくないのでありましょう」

 ニドが煙をふっと吹いて呟いた。死なれれば怨霊になり、どんな祟りをなすかわからない。

「数年もすれば、僻地の修道院にでも放り込む積りなのであろう」

 ラミレスが面白くもなさそうに言って、一口吸った。

「いっそさっさと殺してくれてたほうが、面倒がなくてよかったのに」

 スウの無思慮な一言に、一同が声を上げて笑った。


 それから何日か後のことであろうか、皇宮では連夜怪音がして、人々を悩ませるようになっていた。最初は風の音と思ったが、耳を突き刺す高音で、止んだと思えば再び響き、それが一晩中続いた。人々は眠りを妨げられ、宿直の者たちも頭痛を訴えた。何故か皇宮周囲の町屋の者どもには聞こえない。音が聞こえるのが皇宮のみというところも怪異であった。

 皇太后となったセレネイアは、各派から祈祷僧を招いて様々に祈祷加持を試させたが、全く効果はなかった。ネクタル派のある高僧は、深夜に護摩を焚いて音怪を調伏せんとしたが、耳から血を噴いて昏倒し、朝を待たずに事切れてしまった。


 そんなある日の朝、一人の歩き巫女が皇門の前に立った。

「乞食巫女よ、ここは畏れ多くも皇帝陛下の宮城である。早々に立ち去れ」

 衛兵が六尺棒で追おうとしたが、その歩き巫女はふふと笑い、

「陛下を悩ませる音を鎮めに参りました」

 と答える。

「わぬしの如き銭目当ての俄か行者はもう何人も参っておるわ。立ち去らねば女人にょにんといえども容赦すまい」

 衛兵は棒を振り上げたが、菅笠をくいと上げた巫女の眼を見た途端に棒を下げ、

「まあ良いわ、小頭様に話だけはしてやる。そこで待て」

 急に態度を変えて脇門から中へ入っていった。


「わぬしか、音を鎮めてくれるという巫女は」

 サーグという名の小頭は、顎をぼりぼり掻きながら、巫女の顔をまじまじと見つめた。

「はい」

 真っ直ぐな銀髪のダークエルフの娘だった。縒れた薄汚い巫女装束だが、紅い眼だけがやけに目を引いた。

「今、各派の高僧が綺羅星きらぼしの如く揃って護摩を焚いておる。わぬしのような乞胸ごうむね女の坐る席はないぞ」

 ダークエルフの歩き巫女は、

「席など賜らずとも、棹一本あれば事足りまする」

 口に手を当てて、ほほと笑う。

「どういうことだ」

 サーグは眉を顰めて巫女を睨みつけた。

「宮中のどこか広い場所、例えば庭などに、三丈ほどの竹棹の先に鎌を括り、風に向けて立てていただければ、それで十分でございます」

「それだけか」

「はい。では妾はこれで」

 それだけ言って、巫女は跳ねるように去っていった。


 その夜も、また皇宮を怪音が響いた。が、子の刻頃になって、ぎえっと何かの悲鳴が轟いたと思うと、急に怪しの音もぴたりと止んだ。

 夜が明け、再び昨日の巫女が門の前に現れた。

「おお、巫女殿」

 衛兵たちが、昨日とは打って変わった態度で彼女を出迎えた。

「巫女殿、貴殿のおかげで音が止み申した。ほれ、この通り」

 呼ばれで現れたサーグが鎌を見せた。べたりと血がついている。

「それはよろしゅうございました」

 巫女がほっとしたように微かに笑顔を浮かべた。

「巫女殿、これはいかなる怨霊でござろうか」

「怨霊は血肉を持ちませぬ。これは、天狗でございましょう」

「天狗でござるか」

「はい、擾乱を呼び世間乱れるを喜ぶ魔性でございます。古の書に曰く、『兵を候ひ賊を討たむことを主る。見れば則ち四方相射、千里に軍を破り将を殺す。或は日く、是れ将に闘はむとする人相食む。往所の郷、流血有て其の君地を失ふ。兵大いに起こり国政を易ふ。守禁を戒む。骨頭、雲有て崩る山の堕つるか如し。所謂営頭之星の堕つる所、其の下草を覆す。血を流すこと千里』とございます」

 すらすらとそらんじてみせた。

「そのような魔物が何故に宮中に」

「天狗は乱を好みます。皇宮から乱ずると見て取って、嬉しの余りに乱舞していたのでございましょう。でももう大丈夫でございます。こうして疵を負った故、二度と悪戯することもないでありましょう」

 そう言って、ぺこりと頭を下げると、銭で重くなった袋を受け取って小躍りしながら雑踏へ消えた。


 巫女の背が見えなくなると、サーグはこのことを直ちに奉公衆の上司ハガーに報告した。

「つまり、こういうことか」

 一通り報告を聞いたハガーは、

「魔性がアニーナ様に心寄せていると」

 と言って、大きく溜息をついた。

「そういうことになりますな。不遇の貴人に魔が憑きやすきこと、故事にも多くござる」

 この男、番衆の小頭にしては、なかなかに学があった。

「ふむ、この話、決して他言すまい。噂が広まり騒ぎになることは避けねばならぬ」

「心得ました」

「なら、やらねばならぬことがある」

「何か」

「事は重大。話が広がってはならぬ。天狗を祓った者の口、ふさぐにしかず」

「巫女を斬るので」

 サーグは青ざめた。宗教者を斬ると七代祟ると言われていた時代である。

「巫女のなりをしていても、所詮は歩きの雑芸人。野良犬を斬るのと変わらぬわ」

 ハガーは鼻を鳴らして笑い飛ばした。


 サーグは配下の中で刀術巧みな者を二人選び、巫女殺害を命じた。

 巫女が歩いた先を探し回ったが、どこにもいない。

「巫女姿のダークエルフだ。傍目にも目立つ。それに徒歩かち立ち故、まだ遠くへ行っておるまい」

 馬を走らせて尋ねて回るうち、旅の塗師が、

「メアナの川湯近くでそれらしい巫女を見た」

 と教えてくれた。湯治客相手に舞を披露しているという。

 刺客たちは、河原沿いの在所に馬を預け、山に入ってメアナの湯の里に入った。温泉に近い辺りに人が集まっている。

「いたぞ」

 巫女は、岩の上で踊りまわっていた。湯治客らは、巫女の真似をして、手踊りしつつ笑いさざめている。

「明るいうちはまずい。日が暮れて人目につかぬ頃に討とう」

 二人は河原の岩場で交互に仮眠し、夕刻を待った。

 鳥が山に渡っていく頃、湯治の客たちは散り始め、巫女も投げ銭を搔き集めて川から上がった。

 刺客らは太刀に寝刃を合わせつつ、後ろを尾けた。

 巫女は木沓を引っ掛け、河原に背を向けると、ぽくぽくと音を立てながら杉林の坂を上がっていく。

 一人が斜面を駆け上って先回りし、一人が背後からゆっくりと近寄って声をかけた。

「おい」

 聞こえたはずだが、巫女は素知らぬ振りをして歩き続ける。

「懐の銭を寄越せ」

 物盗りに見せようというのか、それとも本当に辻稼ぎの銭が欲しかったのか。

「待てと申しておる」

 巫女が急に走り出した。

 先に回り込んでいた一人が茂みの間から飛び出して、抜き打ちに斬りつけた。

 更に、二人目がその背を断ち切った。

 ぎゃんと獣のような悲鳴を上げて、巫女は衣を朱に染め、崩れるように前へ伏した。

「首を獲れ」

 二人がかりで馬乗りになり、一方が手足を押さえつけているうちに、もう一人が太刀を首筋に押し当てた。

 全身の力を込めて骨の間を断ち切ると、巫女はやっと動きを止めた。

「かなりの美形だったのに、惜しいことをした」

「烏滸を言うな」

 巫女の着衣を剥いで首を包み、銭の入った袋を取った。首のない胴を谷間に蹴り落とし、二人はそのまま馬を預けた在所へ駆け出した。


 早朝、サーグはハガーと共に、番衆の溜りで巫女の首を実検した。

「確かにこの女か」

 ハガーが訊いた。

「はい、間違いござらぬ」

 サーグは巫女の首を気の毒そうに眺めながら答えた。

「よし、配下の者どもにも、噂のこと、他言無用ともう一度きつく申し伝えておけ」

「心得でござる。して、この首は」

 サーグは目の前に置かれた巫女の首を指さした。

「不憫の者よ。どこか教会の近くの楠の下に埋めて懇ろに弔うべし」

 ハガーは、血塗れの小袖を摘まんで、巫女の顔に被せてやった。しかし、サーグの配下の者らは、面倒だったのだろう、その首を道端の藪に投げ棄てて帰った。


 文月に入ると、都に続々と軍勢が集まってきた。同月十二日、新帝フレイは慌ただしく元服の儀を行うと、翌十三日には、鎧をまとって皇宮を出た。都の町衆は沿道に群がり、帝国軍の偉容をその目にした。

 フレイの直轄軍である奉公衆は、一番から五番まで、それぞれ白黒赤黄青の旗を与えられて合わせて三百騎。各々が郎党や下人を引き連れているので、陣夫まで含めると数千余の軍勢になる。その後ろを参陣したルシウス大公以下各家の軍勢およそ一万五千余が続く。

「なんと眩しい武具甲冑の列よ」

「よく見よ。騎士様ばかりではない。皇太后様に皇帝陛下お気に入りの貴族や上臈衆まで連れておられる」

「女連れの戦仕立とは派手々々しいのう」

 軍勢は、ネモルの町辺りで足を止めた。御座所を聖チャトラス教会に定め、そこで諸侯の更なる参陣を待つ積りなのだ。


 シダリ州南の居城で、帝国軍と一戦交える覚悟でいたソラス子爵は、ライン大公の密使を迎えて、初めは当惑した。

  が、ライン大公が「中立を守る」という言葉を聞き、

(これはライン大公家が、暗黙のうちに我らの後盾となった)

 と受け取り、

「ライン大公殿こそは、騎士の亀鑑でござる」

 使者の両手を取って、感涙した。使者は慌てた。

「いや、よう聞かれよ、ソラス子爵殿。我が主ライン大公は、今は自重なされよと申してござる」

 だが、もうこの生真面目で一徹な騎士は止まらない。

「今まで皇宮の追討を恐れ、磯の栄螺さざえの如く城に蓋をし、縮こまっていた己れが恥ずかしい」

 城の守りを息子たちに任せたソラスは、精兵ばかり二百を引具ひきぐし、ワサイ川を下った。そこから大きく西に迂回し、道々で反セレネイア派の味方を増やしながら、都に乗り込む積りである。これは、セレネイア派の騎士たちに、マギ峠を封鎖されていたための行動だが、

「ソラス子爵動く」

 と聞いたマギ峠のセレネイア派も黙って見ている筈がない。数百の追手が南下し、道中で待ち伏せていた反セレネイア派の在郷騎士たちと衝突した。



「策は予想以上に効果があった」

 と、囲炉裏の間でラミレスは難しい顔をした。

「と言うと」

 シーゲルが怪訝な顔で訊いた。

「城を固く守って皇帝陛下の軍を長く引きつけてくれれば良かったのだ。こうまで活発に動かれては困る」

 状況がどう動くのか予測できぬとこぼして紙巻をくわえた。

「それで、いかがなさる」

 アツマの問いに、ラミレスは絵図面を広げた。

「一刻も早く姫様をお救い申し上げねばならぬ」

 皇宮の簡単な見取り図である。そこにラミレスは黒い碁石を並べていく。

「皇帝不在とはいえ皇宮の守りは固い」

 警固の衛士の位置である。

「控えの者どもも含め、およそ三百」

 最後に寝所の北の庭に白い碁石を置いた。

「土牢の位置はここだ。ここに姫がおられる」

 一同が絵図を覗き込んだ。

 その土牢は、衛山と呼ばれる小山の裾に口を開けている。かつて氷室として使っていたものに手を加えたもので、入口は上下三尺で格子造り、中は天井まで四尺、奥行き一間半の石組みだという。

「ライン大公の手勢を動かす訳にはいかぬので」

「軍勢で襲えば、番衆どもは直ちに姫の御命を縮め参らせるであろう。それに」

 大公の手勢には他にやることがあるとラミレスは答えた。

「我らのみでやらねばならぬ。速やかに姫の身柄を抑えるのが肝要。そのための手は打ったが」

 ただしと呻くように呟いて、煙を吐いた。

「厄介なのがこれだ」

 扇子の先で、白石の周りに並ぶ黒石を軽く叩いた。

「土牢の傍に小屋を掛けて日夜起居しておる連中よ」

「と申しますと」

「ダン・チェスターという名の兵法者だ。こ奴が弟子三人引き連れて詰めている」

 シグルスが代わって答えた。

「この者、即刀術の達人であるそうな」

「傭いの兵法者か。ニドの術で何とかならぬのか」

 ジャッケルがニドに顔を向けた。

「御存知でありましょう」

 ニドが姿勢を正して言うた。

「我が術は所詮ははかなあやかしの術。昨今の神をも畏れぬ荒々しい武人には通じませぬ」

「タイル村ではうまくいったではないか」

「あれは、かたきが小さき村の焼働きと侮っていた故、その気の緩みに付け込めただけでございます。それでも随分と骨を折ったのですよ」

「あれはネスト派の固信徒であるそうな」

 シグルスが付け加えるように言った。

 この宗派は他の宗派にない独特の思考法を持っている。神の本願のみをひたすら信じ、従来言われているような神の持つ霊力や霊験、祟りの類を一切信じない。

「ますます我ら幻術使いにはやり辛い相手でございます」

 ニドの言葉に、クルキルがほんの僅かに頷いた。この男もいささか同じ術を使うため、その気持ちがわかるのであろう。

「では、この即刀術の者は我が相手しよう」

 アツマがぼそりと言った。

 即倒、または息倒術ともいう。相手の呼吸と間合いをひたすら読み、隙を突くという、合理一辺倒の刀術といわれている。

「一人で大丈夫でござるか」

 ジャッケルの問いに、アツマは不敵に笑った。

「差しの勝負なら成算はござる。残りの弟子どもは皆にお任せ申そう」


「しかし、姫様を土牢から出したとして、その後はどうする」

 シーゲルが低い声で訊いて、麦酒の椀を呷った。

「火をつけるのが最も早い。宮中を赤猫して回り、騒ぎを大きくしてその隙に逃げればよい」

 クルキルがぼそりと呟くように言った。このゴブリンはいつも口を動かさずに喋る。ぼそぼその呟き声で、物言いもはっきりしない。だが、何故か一同の耳には一言漏らさずはっきり届いた。

「駄目だ。皇宮に火を放つなど畏れ多い」

 ラミレスが心から残念そうに言った。

「では、暴れ牛でも放り込むのか」

 紙巻を唇の端にくわえたシーゲルが、煙を立ち上らせながら口を開いた。

「まさか」

 ラミレスが咳き込むように小さく笑った。

「先程も言ったが、ちゃんと手は打ってある」

 そう言って、目を細めてニドを見やった。

「あい」

 ニドが紫煙を巻きながら楽しそうに眼を歪めた。それに倣ってか、隣に坐ったスウが肉食獣のような笑みを唇に浮かべる。

「それでは、それぞれの場を定める」

 新しい白石を掴んでラミレスが告げた。


 その夜、皇門の周囲に突風が吹き、篝火が吹き消された。宿直の士が雑人に言って、薪を足し火を点け直させようとしているところへ、遠くから大勢の足音が聞こえてきた。

「あれは何ぞ」

 山行者の一団であった。切髪に革面、柿色の衣、笈を背負い、錫杖をついている。それが手を打ち足を踏み鳴らして一斉に踊り始めた。

 異様な風景であった。

 教会の僧や神人、巡礼僧などが徒党を組み皇宮に強訴に及ぶことはこれまでもあった。だが、それは日中、町衆の目の前で行われるのが通例。深夜に突如現れて前口上もなくいきなり踊り始めるのは異様である。

「行者ども、立ち去れ。夜も夜中に皇宮の前で舞踊など不穏なり」

 番士たちが声をかけたが、乱舞の勢いに押されてただ見守るうちに、行者どもの背負う笈が黒羽に変わり、杖を持った手に爪が伸び、顔に嘴が生じた。

「なんと、あさまし気な姿よ」

 怪しの者よと衛士たちが恐れ騒ぐ中、

「何の騒ぎぞ」

 溜りで仮眠を取っていた小頭のサーグが愛用の薙刀を手にのそりと門前に出てきた。

「小頭殿、あれを」

 小者が指さす先に目を遣れば、踊りの中央に菅笠を深く被った巫女が立っている。

 その巫女が、くいと笠の前を上げ、にたりと笑った。

 サーグは喉から肝がせり出す程に驚いた。その巫女は、先日、首にした筈の巫女だった。

「サーグ殿でございますね。一瞥以来でございます。その折はお世話になりました」

 巫女密殺の事情を知る人々の間から小さく悲鳴が上がった。

「あれから散々探して回りまいたが、取られた首が一向に見つかかりませぬ。故に天狗と語らい、こうして首の在処ありかを伺いに参った次第」

 首許を見ると、確かに首筋に斬られた痕があり、生々しくも青黒く捲れている。そこからどろりと粘ついた血が一筋流れた。

 サーグはもう生きた心地もしない。思わず薙刀を取り落とし、それすら気づかない。

「妾の首はいずれにござりましょうや。くお教え召され給え」

 その肩の上に乗っているではないかと言おうとしたが、恐怖の余り言葉が出ない。言えば殺される。そう直感が告げている。

「さあ、さあ、さあ」

 天狗たちが一斉に唱和し始めた。

 巫女の濁った紅い眼から、一筋赤黒いなにかが滴り落ちたと思うと、急にその小柄な身体がむくりむくりと膨れ上がった。

 見る見るうちに、巫女の身体は一際巨大な天狗に変じ、鋭い鉄の爪先でサーグを指さした。

「さあ、妾の首、返し候え」

「さあ、さあ、さあ」

 天狗たちが一層声を強めた。やがて、その声は次第に高くなり、過日、夜毎に皇宮を悩ませた怪しの音に変わった。

「苦しや」

「助け給え、音を止め給え」

 人々は頭を抱えてのたうった。


 その頃、ジャッケルとアツマ、シグルスの三人は、クルキルの下した縄梯子を伝って塀を乗り越えていた。塀の外では、巨体故に忍ぶに向かないオークのシーゲルは、後に残って逃げ口を守っている。

「大丈夫か」

 心配そうに皇門のほうを見つめるジャッケルに、

「ニドの妖の術は確かだ。心配はいらぬ。それにスウが介添えについている」

 クルキルが気を利かせて声をかけた。

 皇門の騒ぎのせいであろうか、警備は無きに等しい。が、土牢に続く山道に近づくと、様子が一変した。

 入口らしい柵の左右に真新しい白木の番小屋が建ち、篝火が燃えている。

「ひどい殺気だ」

 小屋の前には小薙刀を抱えた番士が二人。しかし、殺気それ自体は左側の小屋から凛々と発せられている。

「あれがニド女が近づけぬ理由でござるか」

 シグルスが呟いた。

 直後、左の小屋から屈強な男が顔を出した。殺気が更に濃くなった。あれがダン・チェスターであろう。

 ダンはジャッケルたちが潜む闇に目を凝らし、

「妙だな、人の気配が」

 ぼそりと呟いた。

「何もござりませぬぞ」

 篝の前で、男の弟子らしい番士が応じた。

「気のせいか」

 男は腹巻の草摺を鳴らして奥へ引っ込んだ。


「では、仕掛けるか」

 ジャッケルら四人は、闇の一方に身を潜め、柵の外側をゆっくりと這い始めた。這いながら、大きく小さく殺気を放っていく。

 果たして、ダンは再び番屋から半身を覗かせ、無言で刀の鐺を上げた。

 反対側の小屋からも、三人目の弟子が現れた。

「用心せよ」

 ダンは、弟子たちにそう言って、篝火の傍に立った。暫く周囲に目を走らせていたが、ふいにある一点で止まった。

「出てこい」

 ダンの声に応えるように、ダンが睨み据えた藪の中からのそりと影が立った。

「何者ぞ」

 弟子が抑えた声を上げて、小薙刀を中段に構える。そのはやる弟子を手振りで抑えて、ダンが二歩前に出た。

「他にもいるのは見えている。残らず出てこられよ」

 更に問うた。その声に、もう三つ、影が現れた。


「アニーナの寝所と知っての狼藉か」

 ダンの問いに、最初の影が、

「我が名はアツマと申す。姫君の窮状を憂い、お救い差し上げんと、斯く参上した」

「推参なり」

 そう叫んで斬りかからんとした弟子に、ダンが叱声を飛ばした。

「貴様らに勝てる相手ではない。控えよ」

 そのまますたすたと前に出て、路の広くなったところで仁王立ちになった。

「アツマ殿、それがしはダン・チェスターと申す。このまま通す訳には参らぬ。どうしてもと言うなら、一手御相手いたそう」

 そう言って腰の刀を抜いた。刃渡り二尺一寸程の打刀である。

「こちらも手出し無用でござるぞ」

 アツマがジャッケルらに声をかけて藪から出て、腰の二尺八寸をそろりと抜いた。


 図らずも、姫君救出のための襲撃は、一騎討ちの形になった。月が冷たく二人を見下ろしている。

 ダンの正眼に対し、アツマは下段に構えて対峙した。

「あの男、出来る」

 シグルスが小さく呻くように言った。両者のうちどちらを言っているのか。

 やがて月に雲がかかった。ただでさえ暗い切り通しの中は、相手の動作どころか己れの手元すら覚束ない。周囲の闇が凍り付き、刻が止まった。


 その時、アツマの刃先が僅かに揺れた。

「しゃっ」

 ダンが、左程さほどに大きくもない掛け声とともに跳び、上段から斬り下げた。

 すかさずアツマが太刀を上げ鎬で受け流す。鋭い金属音と共に火花が散った。次の瞬間、アツマの太刀が上段からダンの頭上に振り下ろされた。だが、ダンは後ろへ跳んで躱すと、再び正眼に構える。ダンの引き結んだ口が僅かに笑った。優位を確信した笑みだ。


(やはり打刀ははやい)

 どうしても太刀は雲耀うんようの差で遅れるとジャッケルは思った。打刀は刃渡りで劣る分、撃ち込みの迅さで優る。果断に撃ち込む打刀に、長大な太刀は対応できない。時代が下るにつれて、刀術は打刀が主流となるのだが、それはジャッケルの知る由もないことであった。

(次に月の光が変化したとき、勝負が決する)

 ジャッケルは相対する二人から目を離さず、確信した。


 雲が薄れつつあった。

 アツマが間合いを詰めると、ダンは退り、アツマが足を引くと、ダンがそれだけ距離を詰める。

 やがて、月が雲間を抜け、切り通しの端が白く輝いた。が、二人は動かない。月の光が少しずつ伸びて、アツマの爪先を照らし出したとき、アツマの視線がふと足許に向いた。

 即刀術の達者はその隙を見逃さない。短い裂帛れっぱくの気合と共に、ダンの身体が跳躍した。闇の中で刀身だけが煌いた。


 月の光がまた鈍くなった。地に落ちた影がぼやけ、二呼吸もしないうちに闇が戻ってきた。視界が断たれると、人は嗅覚が鋭くなる。暗闇の中に強く血の臭いが立ち込めた。

 アツマが腰を落として残心の構えを取っている。

「参った」

 地べたから咳き込むような声がした。

「相打ちにもならぬとは」

「いや、確かにこちらも一太刀貰ってござる」

 アツマは左の腰へ手を当てた。帯に新しい切れ込みが入っている。仕合のとき、兵法者は腹を守るために鞣革の前掛けを着る。心得の良い者は、そこへ更に絹を当ててから着衣を纏い、並より厚い帯を締める。

「じっとしておられよ。薬師を呼んで差し上げよう」

「薬師でござるか。人を斬っておいて、妙なお方でござるな」

 ダンが弱々しく笑った。そのまま手を上げて、

「おのれ、師の仇」

 と斬りかかろうとする弟子らを止めた。

「もう勝負はついた」

 ごぼりと血泡が口角から零れた。

「アツマ殿、それがしはここで死ぬるが、弟子どもはどうか見逃していただきたい」

 ダンが小さく咳をした。

「心得申した」

「かたじけない」

 また弱く咳をした。喉に入った血を吐いたのだろう。耳障りな咳だった。

「まさかあのような手でこられるとは」

 ダンが光を失った目を宙に向けて言った。

 視線を外して隙を作ったアツマは、そのままほとんど無意識に身を翻して突っ込んできたダンを袈裟に斬り下げていた。最初から最後までダンに視線を向けていない。反射神経と胆力、加えて刃渡りに勝る太刀なればこそ可能な技だった。

 ダンの言葉に答えず、アツマはゆっくりと声をかけた。

「弟子の方々の命は保証いたす」

 ダンはげほげほと咳き込んで、黙り込んだ。

「もし、ダン殿」

 返事はない。アツマはダンの弟子たちにちらと顔を向けると、

「消えよ。師匠の遺志を無駄にするな」

 低く短い声で言った。

 弟子たちは無言で次々に小薙刀を捨て、だっと闇の中へ駆け出して行った。


「逃がして良かったのか」

 足音が消えるのを待って、シグルスが問うた。

っ」

 アツマがシグルスの言葉を手を上げて遮った。アツマはまだ用心している。兵法者は、最後まで意趣返しの心を忘れない。斬った者へ不用意に近づいたところを、息絶える寸前の一刀で殺されたという例は掃いて捨てるほどある。

 アツマは気配を消し、口中で百までゆっくり数えた。

 待つうちに、また雲が切れて月が出てきた。ダンの死に様は壮絶なものだった。肩上かたがみの内側から入った刃は腹巻を半ばまで断ち割っていた。こぼれた臓物が混じった血溜りに、顔面が半ば沈んでいる。


 ようやく大きく息を吐き、アツマが顔を上げ、

「それがしはもう気息が絶え々々でござる。この上、更に斬り合いの沙汰は堪忍してもらいたい」

 そう言って、力無く笑った。

 それが、先程のシグルスの問いに対する答えだと皆が気づくまで、暫く掛かった。


 ダンの死骸に手を合わせるアツマらの鷹揚さに苛立ったのか、クルキルが、

「姫を救うぞ」

 と言い捨てて土牢へ駆け込んだ。慌ててアツマとシグルスが後を追う。ジャッケルは、最後尾を守りながら柵に沿ってゆっくりと歩いて行った。

 クルキルとシグルスが、太い樫の格子の戸を開いて、亡者のような姿のアニーナ姫を引き摺り出している。

 牢内から漂う汚水と排泄物の臭いが鼻をついた。

「ジャッケル、ぼんやり立っておらずに、姫君に水を」

 黙って突っ立ているジャッケルに、シグルスが気忙きぜわしげに声をかけた。アツマは襲撃に備えて土牢の口で抜刀の姿勢で蹲り、外を見張っている。

「お、おう、水か」

 ジャッケルは番士小屋に入って、そこにあった水壺の柄杓を取った。

 クルキルが支える姫の口に、シグルスが水を注ぐと、姫は大きくせた。

「お気を確かに」

 シグルスの言葉も耳に入らぬ様子で、姫は水を飲んだ。


 ようやく落ち着いた姫を番小屋まで引き出したが、姫は呆けたようにその場に坐り込んでしまった。初め、長の牢暮らしで足萎えされたかと思ったが、それも違う。

(これは尋常ではない)

 余りに酷い牢内の生活で悩乱されたかと誰もが思った。土牢には話に聞いていた板敷もなく、これでは定期的に外の空気を吸わせていたのかも怪しい。

 ただ、口元に張りがあり、振れ乱れた髪の間からのぞく瞳は、月光を受けて朝露に濡れた鵜の羽のように光っている。

 それにしても、

(何という美しさだ)

 一同は小さく息を呑んだ。捕らえられたときに着ていたのであろう寝衣は、泥と垢に汚れ擦り切れてまるで襤褸ぼろ布、霊嶺の雪のようと評された白い顔は汚泥にまみれ、烏羽色の黒髪は艶を失い、縮れれているのに、この美しさは面妖ですらあった。

 人はただの美しさより、怪しげなものを宿しているほうに、より魅せられるという。

「これは」

 ジャッケルが静かに呟いた。

「何ぞ、良からぬものに憑かれておられるのではあるまいか」

 心萎えた者には、時に異形異類が憑く。意志堅固と謳われる高僧でも、往生に際して迷い生じれば即ち天狗が狂喜して取り憑くといわれている。

「うむ」

 クルキルが姫の黒い瞳を覗き込んだ。

「妖術をかけられておられる」

「なんと」

 シグルスが眉を顰めた。

「術を重ねて、姫を素の狂者に仕立て上げんとしたのであろう」

「重ねてとはいかなる意味でござるか」

 アツマが周囲に視線を動かしながら訊いた。

「日数をかけて何度も術をかけ、心を蝕んでおる。見よ、もう既に半ば気が触れておられる」

 確かに姫の視線は定まらず、相対していても、どこを向いているのか見当がつかない。

「妖の術ならおぬしの術で何とかならぬのか」

 シグルスがすがるように言った。

「儂の術は常軌を逸した者には効かぬ。ただ」

「何だ」

「ニドなら治せるやもしれぬ。あの女はこういう技に長けておる」

「そうか」

 シグルスがほっとしたように胸を撫で下ろした。

「では、早速、外へお連れいたそう」

 立ち上がって姫の手を取った。途端に、姫がけたけたと笑い出した。

「姫、お静かに」

 シグルスが慌てて手を離した。だが姫は笑うのを止めない。

「おい、ジャッケル、手伝ってくれ」

 だが、ジャッケルもどうすればいいかわからない。二人でおろおろしているうちに、急に姫の動きが止まり、そのままくたりと上体を地に伏せた。

 いつの間にか、姫の背後にクルキルが立っていた。

「何をした」

 クルキルの手に長い針が握られていた。その針の先から何かが滴っている。

鴨嘴かものはしの蹴爪から作った毒だ。案ずるな。死にはせぬ」

 とてもそうは見えなかった。姫の口から泡が零れ落ちている。

「半日もすれば目覚める。参るぞ、下で待つシーゲルが心配する。我らが戻らねば、あの男、掛矢を振るって塀を壊しかねぬわ」

 クルキルの言葉に促され、シグルスが頷いて姫の身体を抱え上げた。

「待たれよ、クルキル」

 ジャッケルが歩き出そうとしたゴブリンを呼び止めた。

「どうした」

「姫は術を重ねられていたと申されたな」

「言った」

「つまり、日々姫に術をかけられるよう、皇宮の中に妖術師がいるということでござるか」

「そうなるな」

 言葉に出して、クルキルもその意味を悟ったらしい。黒光りする目を僅かに見開いた。

「ニドが危ない」


 門前ではもう四半刻も天狗が踊り狂っている。

 辻に並ぶ楠の巨木の枝に腰掛け、それを冷ややかに見下ろしている影があった。スウだ。生い茂る硬い青葉が彼女の姿を押し隠し、そこに彼女がいると察する者はいなかった。それ以前に、番士たちは幻の怪音に怯え、悶え苦しんでいる。

(でも、それもそろそろ潮時かも)

 脚をぶらつかせながら、ニドの後ろ姿を見て思った。集団催眠術は、かける側にも尋常ならざる神経と体力の緊張を強いる。瞬時に多数の思考を一本にまとめ、実際には存在しないものを見せるのは並大抵のことではない。しかもこれほど長い時間。ニドの体力と気力は限界に達している筈だ。

 可能な限り門前に番衆どもを引きつけよとラミレスは言った。その隙に姫のおわす土牢を破ると。果たしてジャッケルたちが姫を無事救い出せたか、スウには知る由もない。でも、ニドが危うい状態にあることだけはわかった。

(どうして)

 スウは改めて杖を手に一心に呪を唱えるニドを見やった。

(お姉はここまで入れ込んでるんだろ)

 答えはわかってる。あのジャッケルという男だ。

(あたしには仲間内で情を交わすのは御法度って言ってたくせに)

 ジャッケルの冴えない顔を思い浮かべた。ニドがあの男のどこに魅かれたのか謎だった。

(まあ、お姉は惚れっぽいから)

 にやついた顔がふいに止まった。うなじの辺りが急にそそけ立った。

(いけない)

 何がいけないのかわからない。だが、直観がそう告げている。こういうときにスウは考えない。ただ動くだけだ。スウは空中を音もなく舞い降りた。空気すら揺れない。そのまま、地を這うように走り出した。その時、門前で誰かが叫ぶ声がした。

(しまった、遅れた)

 走りながら、スウは唇を噛んだ。


「各々、静まれ、目を覚ませ」

 大声の主は、茶人風の羽織を着て、焦茶色の萎え頭巾を被った痩せて小柄な老人だった。

「なんと情けない。狐狸の類にたぶらかされるとは」

 人々に声をかけながらニドに向かって歩いてくる。

「やあ、女狐め、己れの術は儂に効かぬぞ」

 その声に、天狗の中に立つニドの顔色が変わった。

 老人の手には一尺余の棒のようなものが握られている。白い矢羽根の打根だ。それをひょうとニドに向けて打った。

 ニドの右の二の腕に打根が立った。体勢を崩したニドに老人が腰刀を抜いて斬りかかる。

「死ねや」

 ニドは木天蓼またたびの杖で受けた。先が斜めに切れて飛んだ。ダークエルフの身体が路上に倒れた。

 すかさず二の刀を突き出そうとした老人が、急に力を失って崩れ落ちる。スウの鉈がざくりと老人の背を叩き斬っていた。


 途端に、怪音がぴたりと止み、舞い踊る天狗の姿が溶けるように消えさった。人々は、何が起きたかわからず、呆けたように立ち尽くしている。

「お姉」

 スウが地に伏したニドに屈み込んだ。

「スウ、失策しくじったわ。かたきにも同類がいることを忘れてた」

 笑おうとした顔が疵の痛みに引き攣った。

「疵はたいしたことないよ、大丈夫」

 スウが無造作に打根を引き抜いた。ニドの身体が苦痛で反り返る。

「大丈夫なものか、その穂には金波布きんはぶの毒を塗っておる」

 振り返ると、己れの血溜りの中で、老人が嗄れ声でせせら笑っている。ごぼごぼと血が溢れる音がした。

「その娘は程なく死ぬ。皇宮を騒がす逆賊め。せいぜい苦しみ抜いて」

 そこまで言って老人は事切れた。

「スウ」

「黙って、皆が目を醒ます前に逃げるよ」

 ニドの右腕の付け根を組紐で手早く縛ると、荷でも担ぐようにニドの細い身体を肩に乗せた。

「行くよ、喋ると舌を噛むからね」

 そう言って一目散に駆け出した。

「スウ、もそっと静かに」

 ニドが苦痛を堪えながら振り絞るように言った。

「喋っちゃ駄目」

 スウはニドの哀願にも関わらず、どんどん速度を上げていく。そういう気遣いの全くできない女である。

「んもう、最近、あたしって誰かを担いで逃げてばっかり」

 愚痴りながら、スウは闇の中に溶けるように消えた。 


 二年前の兵乱の後、都北の郊外に建てられたナルコ離宮は、水堀が四方を巡り、その外に深田と沼沢地が控える一種の水城である。後世、皇室はここを四層の天守を持つ美麗な城塞に仕立てたが、この時代は石垣もなく、粗末は掻き上げの砦に過ぎない。

 だが、この堀の巡らせ方が絶妙で、一度堀と堀の間に入った敵は連携もままならず各個に撃破されてしまう。

 また、数をたのんで正面から攻めようにも、大手に至る道は、人が数人横になって進める畦道しかない。

 離宮とは名ばかり、実際はいざという時の皇帝の逃げ込み場として造られた場所である。


 今、離宮は堀の周りに虎落もがりが巡らされ、敷地や畦道には煌々と篝火が灯っている。軍旗も立てられず、どこの家の軍兵かもわからないのが異様であった。

「まさか、山賊流匪の類がつどって立て籠もったのではあるまいな」

 二年前の兵乱で辛酸を舐めた近隣の百姓たちは色めき立ち、中には家財道具をまとめて避難する者まで出た。


 その畦道を、四つの人影が早足で進んでいる。

「まさか、離宮を押領するとは」

 アツマがぽつりと呟くように言った。

「あそこは普段は僅かな数の使用人しかおらぬ。それに」

 シグルスが振り返って応じた。

「ライン大公が離宮に入ったは、他に行き場がなかったわけではない。あの地こそ大事であったからよ」

「ナルコの離宮が大事とは」

 筵で巻き包んだ姫を担いだシーゲルが訊いた。

「順を追って話し申そう」

 ナルコの地は、かつて先住民の祭壇があり、都の北の護りである旧神クマーの大社にも近く、北の嶺から良水が湧き出ている。すなわち、地下に帝都を支える大龍脈が通り、ナルコがその要であることは古来から知られていた。それ故、帝国は古来よりナルコの地に祠を建て、二年前の兵乱が治まると今度は離宮を建てて龍脈の更なる押えとした。そこに旗を立てることは、都の鎮護者であることを内外に声高に宣言しているに等しい。


「奇験な話でござるな」

 ジャッケルが首を捻った。普通は国家鎮護は教会の役割であり、直接これを行うのは教会で特別に訓練を受けた鎮護僧である。今、教会が逼塞し、鎮護僧も在野の宗教者に身を落としているとはいえ、皇室がこれを行うのは少々筋が違っている。

「しかも、前皇帝といえば、飢餓洪水で庶民が幾ら苦しもうと、我関せずと数寄道楽にうつつを抜かし、ついには二年前の兵乱を招いた亡国の徒でござるぞ」

 他に聞く者とていないことを良いことに、ジャッケルは言いたい放題だった。河原で暮らした頃の記憶が脳裏に蘇ったのだろう。

「それが帝国の鎮護に心痛めるとは、俄かには信じ難し」

「左様、前皇帝にそんな思いなど微塵もなかった。あれはただの呆け人でござった」

「では、直接ナルコに離宮建設を求められたのは」

 アツマが問うた。シグルスが大きく息を吸って、

「皇太后セレネイアよ」

「しかし、あれは銭の亡者であろう」

 立場を利用して米の相場を操り、高利貸付、徳政を乱発し、その徳政免除の見返りに貸付元本の五分の一を皇室に収めれば良しとする「五分一」なる悪法で更に巨利を得た。都の十二口に関を設けて庶人から関銭を搾り取っているのも、「天下第一の悪女」と名高いセレネイアである。


「それが、でござるよ。その悪女殿が、一番に帝国のことを憂いておったのだから、奇妙な話でござる」

 十五年前、皇帝の室となったセレネイアは、西央国との生糸貿易に手を出し、初期投資に大成功を収めた。以来、稼いだ財物を各地の教会や聖堂の修理に惜しみなく寄進しているという。

「汚く稼いで綺麗に使うとは、まさしくセレネイアのことであろう。頼りない夫を支える者は己れしかいないという自負心が、あの方を強うなされたのでござろうな。だが、地下の者までその思いは伝わらぬ」

「なら、おぬしは何故に皇太后の仇敵かたきに回るような真似を」

 ジャッケルの問いに、シグルスは暫く考えるふうであったが、

「それがしにはこの世が仇敵でござる」

 これ以上無いくらいいい笑顔でそう答えた。


 四人が離宮に辿り着いたのは、子の刻も回った頃であった。先駆けしたクルキルの報せで、大手門の外にライン大公の軍兵どもが押し出し、ジャッケルたちを認めるや、たちまち人壁を作って中に招き入れた。

 腹巻姿のラミレスが四人を迎えて言った。

「姫をこちらへ」

 女官たちがわらわらと集まってきて、シーゲルの手から姫を奪うように奥へ消えた。それを見送って、ラミレスが皆に顔を向けた。

「大儀であった」

 その言葉に、一同が目を丸くした。そのような言葉がラミレスの口から出るなど、思ってもみなかったからだ。

「納戸脇の長屋に部屋を用意した。かしき場で飯を食ってしばらく休め」

 それだけ言って、御殿へ足を向けて歩き去った。


「では、我らも参ろうか」

 炊き場へ向かおうとした皆の後についてジャッケルも歩き出した。と、ふいにその袖が引かれた。

 振り向くと、深刻そうな顔でスウが立っている。

「スウか。無事のようで」

「いいからこっちに来て」

 言いかけたジャッケルの手首を掴まえ、ずいずいと歩き出した。

「おい、どうした」

「いいから」

 ジャッケルは抗えない。スウは怪力だった。


 引っ張り込まれたのは、御殿の西の離れの小さな部屋だった。燭台の微かな灯りの下、敷布が敷かれ、そこに帷子一枚のニドが荒い息で横たわっていた。はだけた帷子の間から、小振りな胸が苦しそうに上下している。右の二の腕に巻かれた白い晒に血が滲んでいた。

「ニド、いかがした」

「毒を受けたんだよ。毒消しを飲ませて毒もだいたい吸い出したけど、残った毒が悪さしてるみたい」

 身を屈めて、ニドの手を取った。

「お前様、不覚を取りました」

 嫌な汗に濡れたニドが、ジャッケルに気づいて笑おうと顔を歪めた。

「黙っていろ。疵に障る」

 ニドの銀髪を撫でた。ひどい熱だ。ニドの紅い眼を覗き込みながら、

「スウ、助かるのか」

 と訊いた。背後で衣擦れの音がする。

「助けるよ」

「どうやって」

「今から」

 要領を得ない答えに業を煮やして振り返ったジャッケルの顔がたちどころに凍りついた。

 目の前に、白い晒と下帯だけのスウが、無表情にジャッケルを見下ろしている。

「スウ、どの」

 言葉に詰まったジャッケルをよそに、スウはするすると晒を外す。大きく形の良い乳房が柔らかくまろび出た。つづいて、スウは下帯に手をかけ、そこでやっとジャッケルの凝視に気づいた。

「どうしたの」

「いや、何をしておられるのか」

 状況が理解できない。努めて冷静を装い、なんとか言葉を絞り出した。

「だから、助けるって」

 だからどうして服を脱ぐ。

 ジャッケルの混乱した思考を察したのか、スウが合点した顔をした。

「ああ。気分出して欲しかったのね」

 そう言ったスウの大型肉食獣に似た赤い瞳がえんな笑みを浮かべ、赤い舌先が厚めの唇を舐めた。

 違う、そうじゃない。ジャッケルは心の中で叫んだ。


「お前様」

 擦れた声に振り返った。お前の妹が乱心したぞと言おうとしたジャッケルの口を指で塞いで、ニドが言った。

「今から房中の儀を行います。ナニュンニでお前様に施したのと同じことを」

 ジャッケルはごくりと喉を鳴らした。

「儂は術のことなど何も知らぬぞ」

「怖がることはありませぬ。お前様はただ身を任せればよいだけ」

「し、しかし」

 だが、縋るようなニドの眼に言葉が続かない。

「ねえ、早くしようよ」

 振り返ると、全裸で膝立ちになったスウと目が合った。その顔が朱に染まっているのは、灯の照り返しのせいか、欲情して上気しているか。灯を受けて、無毛の女陰がしなやかな脚の動きに合わせて艶めかしく蠕動ぜんどうしている。

 そういうところは姉と同じなのだな、混乱した思考の渦の中でそう思った。

「ねえ、自分で脱ぐの。それとも脱がして欲しいの」

 答えを待たずに、ニドとスウの手がジャッケルの身体に搦みついた。


 明けて五つ過ぎ、ジャッケルは炊き場の入り口に坐り込んでいた。空の椀を手にして、茫洋ぼうようとした眼差しで空を見つめている。周りでは大公の兵が忙しく立ち働いていた。

「どうなされた」

 誰かに声をかけられた。

「いや、陽がやけに黄色く見え申して」

 何気なく答えて目を向けると、オークのシーゲルが鎧下姿で立っていた。

「シーゲルか」

「昨夜は大変だったそうだな」

 そのままジャッケルの隣に坐ると、真剣な顔で見下ろしてきた。

「話は聞いておる」

 ぴくりとジャッケルの肩が動いた。

「何のことでござるか」

「毒に当たったニドを、一晩中介抱したのであろう」

「ああ」

 それはと言おうとしたジャッケルを遮ってシーゲルは言葉を続けた。

「子が病を得れば親はその体を抱えて慈しみ、妻が病に倒れなば夫はその手を握って励ます。何と麗しいことよ」

 オークは肉親の情愛が強い。感動した面持ちでジャッケルを見つめている。どうやら、どうやって看病したかまでは知らぬらしい。ジャッケルは昨夜の痴態が脳裏に蘇り、思わず身を竦めた。

「それで、ニドの具合は如何に」

「熱もすっかり下がり、疵の腫れも引いて、今はスウと二人で寝汚く眠りこけてござる」

「それは重畳、ニドには早う元気になって姫君を診て貰わねば」

「姫君のほうは」

「女どもが湯浴みさせ、着衣を改めて、寝所に寝かしつけたそうな。いずれ毒が抜けて目が醒めるはず」

「そうでござるか。まずは一安心でござるな」

「クマーの社から薬膳僧を呼んでおるが、クルキルに言わせれば、幻術によるもの故に役にも立たぬそうな」


 二人は紙巻を取り出して、口にくわえた。シーゲルが大きい手で火打石を使って器用に火を起こし、火を点けてくれた。

「ところで」

「何かな」

 火の点いた火縄を指で揉み消しながら、シーゲルが顔を向けた。

「タイル村での件でござる。我らが参る前に怪我をされたでござろう」

「うむ、不覚であった」

 不覚そうには見えぬ晴れやかな面だった。武人には戦場疵を誇る癖がある。

「スウが手当てしたとか」

「それがいかがした」

「その、どういう手当てを」

「疵口を洗い、薬草を取ってきてくれて、毎日、二度も疵薬を塗ってもろうた。それに精がつくようにと、二日に一度は山に分け入って野の獣や鳥の肉を獲ってきて喰わせてくれた。おかげであの娘に頭が上がらぬ」

 顔を歪めて嬉しそうに苦笑った。

「他に、何か特別なことはしておられぬか」

 食い下がるジャッケルに、シーゲルは怪訝そうな顔をしていたが、ふいに恥ずかしそうに口ごもった。

「最初の頃、足腰が立たず、厠にも立てなかった故に下の世話をしてもろうた」

「はあ」

 ジャッケルは気の抜けた溜息を洩らした。どうやら、房中を施されたのは彼だけらしい。

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