三章 洞穴で二人雨に耳を澄ますこと

 一刻ほど歩いて川の渡しに至る頃、ニドが嬉しそうに言った。

「あすこに舟待ちの茶店があるわ」

 葦簀よしずの掛かった小屋に入っていった。

 渡し小屋を兼ねた小屋の中では、親爺が一人、釜の前にしゃがんでいる。湯立てているのは麦茶だろう。茶碗を並べた棚の上に、麦湯、葛湯、滝之水と札が出ている。

「滝之水をちょうだい。砂糖を入れてね」

 ニドが注文した。冷水を甘くして飲ませるのがここの流行りらしい。汗が引くからと不用意に冷たいものを飲むのは旅慣れていない証拠である。ジャッケルは、麦湯に一摘み塩を入れるよう頼んだ。

「ああ、美味しい」

 心の底から幸せそうにニドが呟いて立ち上がった。

 ジャッケルも立ったが、行きかけてふと思いつき、軒に吊るした売り物の竹筒を取った。

「これに麦湯をたっぷり詰めてくれ」


 渡し舟に乗って川を越えた二人は、そこから一里ほど歩いたが、ニドがついに座り込んだ。

「喉が枯れたのか」

 ジャッケルが竹筒を差し出した。

「砂糖水なんか飲むからだ」

 ジャッケルは笑った。

「うう、面目ない」

 ニドが生温くなった麦湯を嬉しそうに飲んだ。

「冷や水で腹痛はらいたを起こさなかっただけまだましと言うものよ」

 慰めるように言ったジャッケルを、顔一面に脂汗を浮かべたニドが涙眼で見上げた。

「どうした」

「あのね、お腹痛いの」


 大枝を広げたえのきの下で、二人は腰を下ろして思わぬひと休みとなった。ニドの息が整ったのをみて、ジャッケルは立ち上がって改めて辺りを見回した。

「今、どの辺りなの」

 ジャッケルは通り過ぎた里程標の数を数えた。

「ナギまで二里程というところだな」

 ニドに向けて背を向けて腰を落とした。

「ちょっと、何してるの」

「ナギには湯治場がある。少し早いが、今日はそこに宿を取ろう。幸い、路銀はたんまり貰ってる」

「妾はまだ大丈夫よ」

「その腹でか、無理をするな。さっさと負ぶされ」


 ニドを背負い、両手に櫃と笈を提げたジャッケルはよたよた往還を進んだ。ニドの背に括られた二人の杖が、歩くたびにゆらゆら揺れた。

 道行く旅人や百姓が二人を見てくすくす笑う。

「ねえ、恥ずかしいから下ろして」

「うるさい、黙って掴まっていろ」

「だって、悪いわ」

「疵の手当の礼だ」

 言い捨ててずんずん歩いた。ニドは暫くジャッケルの横顔を眺めていたが、急に和らいだ顔をして、男の首にかじりついた。

「うふ」

「何を笑ってる」

「ずっとこうしていたいって思ったの」

「宿までだぞ」


 ようようにして二人は転げ込むように湯治場に入った。道沿いに長床几が並べられ、浴衣で寛ぐ老人や、しどけなく浴衣の襟元を開いて山の風にあたる女たちが坐っている。乱世にこの繁盛ぶりはどうだとジャッケルは目を見張った。この地は道が狭く険しく、山ばかりで耕作に適さない。それが戦火を免れている理由なのだろう。


「ねえ、どこに泊まるの」

「どうせ泊まるなら、この辺りが良さそうだな」

 崖っぷちに柱を立て回し、斜面に二階家を造った一角がある。入り口は二階の部分で、これが数軒連なって宿になっている。

「いらっしゃいませ、御泊りでございましょうか」

 二人を待ち構えていたように襷掛けの若い女が道へ出てきた。


 部屋に入り、張り出しの板敷から外を眺めると結構な風景だ。かけひを通る湯が滝のように下の内湯へ流れ落ち、大きな湯舟に男女入り混じって入っている。

「極楽の蓮の池というのも、こういうものなのかもしれぬ」

 ジャッケルは珍しく目を細め、

「御女中、連れが参っているので、湯に入る前にひと眠りさせたい。すぐに布団を延べてくれ」

 茶を運んできた下女に銭を掴ませた。


「儂はひと風呂入ってくる。おぬしはしばらく休んでいろ」

「ごめんね」

 布団の中でニドが甘えたような声を出した。 

「気にするな。飯を食ってからゆっくり湯に浸かればいい」

 そう言って、ジャッケルは部屋を出た。


 ジャッケルは板屋根を差し掛けた小さな湯舟を選んで入った。

 湯舟の三方は岩に囲まれ、一方は川に向いている。羊歯しだの青葉が湯の縁を包み、湯気の間に時折山の冷気が混じる。

「いいものだな」

 ジャッケルは前方の山を見やった。下の内湯から、男女の声が途切れ途切れに聞こえてくる。世間噺の多くは諸式の値上がり、各地で流行る品といったありきたりなものだ。


「まあ、いい景色」

 声に振り向くと、湯舟の縁に湯着を引っ掛けたニドが立っていた。

「もう大丈夫なのか」

「ええ、出すもの出したらすっきりしたわ」

 澄まし顔で尾籠びろうなことを言う。

 ダークエルフの娘は裾が割れるのも構わずしゃがんで二度三度と掛け湯すると、そっと湯舟に入り、ジャッケルに擦り寄るように座った。

「おい、人が来るぞ」

「大丈夫よ、結界を張ったから」

 しがみつくようにジャッケルの腕を取り、肩に頭を預けてにこにこ笑っている。

「なあ、ニド殿」

「殿はやめてよね」

「房中を使って助けてくれたことは感謝している。もう疵はすっかり治った。だが、これは少し心易いのでは。これでは誤解してしまう」

「誤解じゃないわ、妾は決めました」

「何を決めたのだ」

「お前様こそ妾の頼うだる人」

「それはラミレス殿ではないのか」

「あれは銭で雇われてるだけ。あの方は光が強すぎて落ち着かないもの」

「儂ならいいのか」

「お前様は闇の中に生きているくせに、その内面は善人ですもの。だからとても危なっかしい」

「褒められておるのか貶されておるのか」

「褒めてるのよ。だから妾はお前様に憑くことに決めました」

「憑くとはどういうことだ」

「女は男に憑くもの」

「そんなこと言われても困る」

「いいのよ、妾がそう決めたのだから。それとも妾では御不満かしら」

 ジャッケルがニドの貌を凝っと見つめた。

「そんなことはない。まったきそんなことはないぞ」

「まあ、嬉しや」

 ニドが身体を預けてきた。裸身の柔らかい感触が薄い湯着を通して感じられた。

「あ」

 ふいにニドが声を上げた。ニドの臍の穴にジャッケルの指が入ったのだ。

「もう、ここでは他所に聞こえます。部屋に帰ってから」

 そう言ってニドの優しい歯がジャッケルの耳朶を噛んだ。


 旅の疲れのせいだろうか、湯から上がって暫く睦み合った後、ニドは部屋の布団に包まるや、すぴすぴと寝息を立て始めた。

 ジャッケルは、出窓の手摺に体をもたせかけて物思いに耽った。

「お前様に憑くことに決めました」

 ニドはそう言った。時に妖怪変化は人に憑くという。憑かれて栄達する者あり、破滅する者あり、その末路は様々だ。だが、憑かれた者の生き方が大きく変わることは間違いないのだろう。

「吉と出るか凶と出るか」

 ニドの寝顔を眺めながら、自分の顔を撫でた。間違っても女に惚れられる顔でない自覚はある。こんな面相の男を相手にしてくれるのは銭で媚びを売る女だけだ。だからこんな感情は初めてだった。

「俺としたことが、埒もない」

 苦笑して川の彼方を見やった。

 講釈の旗が、谷間から吹き上げる風にはためいている。彼は急にその下へ行ってみたくなった。

「寄席の床几でひと眠りするのも風流かもしれぬ」

 娯楽の乏しい時代だ。ジャッケルも、講談をその数少ない娯楽のひとつに数える時代の人間だ。濡れ手拭を下げて部屋を出ようとすると、ニドがむくりと起き上った。

「すまぬ、起こしてしまったか」

「どこに行くお積りなの」

「夜風に当たりながら講談でも洒落込もうと思ってな」

「妾も行きます」

「疲れているのだろ。ゆっくり休まないと熱が出るぞ」

 旅慣れたジャッケルが諭したが、ニドは聞かない。寝乱れた浴衣を整え、そそくさと帯を締め始めた。

「わかった、一席聞いたら帰るぞ」


 温泉地の語り場は、都の町中まちなかに出ている辻講釈とあまり変わらない。葭簀よしずで囲った小屋の中に床几が並べられ、中央に膝の高さの講壇が一つ。

 二人合わせて九十文の木戸銭を払って入っていくと、拍子木を叩きつける音がした。

「運がいいわね。ちょうど始まるところみたい」

 講壇の上には齢経たドワーフ、綺麗に禿げ上がった頭に色褪せた羽織を纏い、右手に拍子木、左手に張扇はりせんを握っている。

 こういう場所の仕来りとして、講談師は入ってきた客の胸元に張扇を突きつけて心付けを要求する。

 ジャッケルも苦笑し、袂の十文銭を二枚、講壇の箱に放り入れた。

 講談師は大袈裟に平伏すると、

「さて、皆様も武張った軍談ばかりで飽いておるようにお見受けします。ちと趣向を変えて演じましょう」

 客席からどよめきが起こった。

 落語の噺屋と違い、講釈師は一段高いところから偉そうに喋る。この老ドワーフも、ぎょろ目を光らせて客席を睥睨へいげいすると、ふんぞり返って講じだした。

「では、『母を訪ねてあと一里』」


 ダグという貧しい村の力自慢の若者が、母一人を残して都に出る話だった。立派な力士になって、故郷に錦を飾りたい。母を楽させてやりたい、と一所懸命に稽古をする。

 しかし、何事も甘くない。いつしか破落戸ごろつきに小遣いを貰い、出入りの助っ人をするうちに、人を何人か殺めてしまう。お上の詮議を受けて兇状持ちとなったダグは、やむなく一人、急ぎの旅に出た。彼を慕って子分が二人ついてくる。

 ダグは追っ手を逃れ、子分とともに西、東。

 だが、お上の追及は厳しく、どんどん追い詰められて、ついに行き場を失ってしまった。斯くなる上は、最後に一目母に会いたいと故郷の村へ。

 勿論そこはお上も合点承知。捕り方が既に十重二十重にも村を囲んで待ち構えている。子分はそれを知って、命懸けで止めようとする。

「親分、逃げておくんなせえ。ここはあっしらが命に代えて」

「ばかやろう」

 ダグは邪険に子分たちを振り払う。顔で怒って心で泣いて。

「手前えらとはとっくに縁を切った。さっさと故郷に帰って百姓になれ。ぐずぐずしやがると叩っ斬るぞ」

「お、親分」

 子分たちが男泣きに泣き出した。


 この辺りで、ニドが鼻をぐずぐずやりだしだ。ちらりと見ると、手拭を口に当てて必死に嗚咽を堪えている。

 講釈師はかなりの腕前だった。張扇で小気味よく調子を取りながら、客を話に引きずり込んで離さない。気がつくと、あっちでもこっちでも啜り泣きの声が聞こえる。

 山賊の親分子分なぞ屁でもない。所詮はただのまやかしものだと思って鼻で笑っていたジャッケルも、いつしか話に引き込まれ、とうとう胸を詰まらせた。


 ダグは野太刀を振りかざし、母恋しさに、何十人という捕り方に突っ込んでいった。

「御用、御用」

 待ち受けていた捕り方がダグに殺到した。人殺しの兇状持ちだから、捕り方は一切手加減しない。ダグの野太刀は弾き飛ばされ、何十本という六尺棒、鉄刀、熊手が四方八方から襲いかかる。体中を叩かれ、斬られ、息絶える寸前、ダグは必死に声を絞り出す。

「おっ母さああん」

 母の住む村は、そこからあとたったの一里。

 だが、ダグの声はか細く、村外れの小屋で草鞋を編んでいる母の耳には届かなかった。


 ジャッケルは必死に奥歯を噛んだ。いかん、泣きそうだ。だが、隣でニドが肩を痙攣させ、とうとう辺り構わず泣き出して、ジャッケルの涙が引っ込んだ。慌ててニドを抱きかかえるように小屋を出る。

 路端の床几に腰かけさせて葛湯を買ってやり、やっとニドは落ち着いた。

(まるでむずかる幼子だ)

 とても幻術を駆使する化生には見えない。

「来てよかったな」

 紙巻をくゆらせながら、ジャッケルが言った。

「ええ、いい話だったわ」

 ニドはまだ鼻を鳴らしている。

「あれって本当のことなのかしら」

「まさか、講釈師、見てきたような嘘を言いだぞ」

「するとみんな嘘だったの。妾は嘘話に騙されて、涙を流して感動したの」

 ニドがまだ潤む眼を見開いた。

「いや、嘘と言っては語弊があるな。創作というものだ。実際にあったことではないが、より本物らしくこの世の実相を語る。『虚実皮膜きょじつひにく』という言葉を聞いたことがあるか。うつろにこそ真実まことが潜むという意味だ」

「なんだ、妾の術と同じね」

「そういうことだ」

 ニドがジャッケルに体をもたせかけた。

「ねえ、まことにダグって人はいなかったのね」

「勿論いたさ。ダグはいつの時代にも、何処にでもいる」

「だったらそれでいいわ」

 ニドが眼を閉じてうんうん頷いた。

「さあ、宿に戻って寝るとしよう。明日も早いからな」


 七つの拍子木が聞こえる頃、二人は起きて身支度を整えた。

 平街道と違ってナギは湯治宿なので、問屋場などない。それでも木戸の前に荷や人を運ぶ馬方が溜まっている。ジャッケルはその中から一里三十二文の安使いの馬を雇った。

 鹿より僅かに大きい荷駄馬だが、足の太さは坂道向きで、二人の荷とニドを乗せて楽々と登っていく。

 だが、ニドは半里もいかないうちに馬を降りてしまった。

「山道の馬は酔うてしまっていけません。それより、自分の足で景色を楽しみたいの」

 関所まで空馬で行く積りのようだ。

「またへたり込んでも知らぬぞ」

「そうなったらまたお前様に背負うてもらいます」

「抜かしおる」

 二人の会話を聞いて、馬子が面白そうに笑った。

「巫女さん、カッシャの往還は初めてらしいな。そんなことじゃ、これから先、苦労するぜ」

 客に難題を吹っ掛けて銭を強請る手合いと見たジャッケルが、太刀の柄に手を乗せて、ひと揺すり肩を動かした。

 馬子が僅かに顔色を変えた。

「いんや、おはつの人を小馬鹿にしようっていうんじゃねえ。俺は見ての通りけちな馬方だあ」

「そうです。無体は許しませんよ」

 ニドに詰られて、ジャッケルは苦笑った。

「これは済まぬことをした」

 どうやらただの話好きらしい。人を運ぶ馬方には、客を飽きさせないためにこういう手合いが多い。それに、このダークエルフの娘なら、行儀の悪い馬方の一人や二人、簡単に片づけてしまうだろう。


「お客さん、ナギの湯はいかがでした」

 心なしか丁寧な口調で馬子が尋いた。

「ええ、まるで浄土の徳池に遊ぶようでした」

 ニドが楽しそうに答えた。

「それに鮎の塩焼き」

「おや、巫女様、美味いもの食いの旅ですかい」

「そんな積りはございませんが、美味しいものは好きですよ」

「なら、こっから先は諦めたほうがいいかもしんねえ」

「あら」

「関所を越えると、途端に美味いものがなくなるんでさ。サマースの米饅頭は、蒸かしたてでも冷めた麦饅頭より不味い。タハルの名物は素麺と、正月でもあるまいに雑煮ときた。そっからユガに行っても焼豆腐と団子だが、喰った奴に言わせりゃ、猫も跨ぐって話でがす」

「まあ、それは気が滅入ること」

 ニドの言葉に馬子が大声で笑いだした。


 関に着いて、馬子は二人に頭を下げた。

「俺っちの行けるのはここまでだ。せいぜい道中お気をつけなさって」

「ええ、道中楽しゅうございました」

「世話になった」

 ジャッケルが馬子に馬賃の他に追銭を三十文渡した。いつの頃からか出来上がった習慣だ。人に銭を払うというより、さいの神に無事を感謝する賽銭のような意味があるのだろう。

「ここから先はカノン様の御領地だ。滅多なことはねえと思いやすが、くれぐれも御注意なすってくだせえ」

 馬子が念を押すように繰り返した。

「お気遣い感謝します。あなたとそのお馬に運命の女神の御加護がありますように」

 ニドが姿勢を正して右の掌を上げ、祝福の印を作った。

 馬子は何度も振り返って頭を下げながら、馬溜りへと去っていった。

 その姿を眺めながら、ジャッケルが呟くように言った。

「旅の巫女の振りも堂に入ったものだな」

「知らなかったの。女は化けるものなのよ」


 ジャッケルは振り返って改めて関を見回した。カノン伯の関守たちが旅人をいちいち呼び止めるため、山中にしては人溜りしている。その人々を横目に関門へ進んだ。

「これ、いずれの行者か」

 六尺棒を手にした雑人が二人、柵から走り出てきた。

「廻国の行者は、関所を素通りしても良いのが諸国の決まりでござる」

 ジャッケルが返した。

「諸国の御決まりがどうであれ、カノン様の御囲いある地には定めがござる。参られよ」

 言葉遣いは礼儀正しいが、すぐにでも六尺棒で打ってかかる態度だ。抗っても仕方ない。二人は人溜りの中へ入った。


 関所といっても山小屋一棟で、矢避けの幕が一張りされているだけだ。関守は荒筵に床几を置いて坐っている。傍らに曲げ物の飯櫃が置かれ、通行人は人態にんていを改められ、関銭を飯櫃に投げ入れて通行を許される。

 木陰に高札が立ち、通行料が書かれていた。荷担ぎ十文、馬匹は三十文。

(都の関でもあるまいに)

 関銭は、皇帝の妃で悪名高いセレネイアが都の四周に設けた関所のそれと同額だった。

 銭を持たぬ者はそこから追い払われる。取替商いが主で現金収入の乏しい山賤の中には、僅か数文の銭もなく、背を丸めて来た道を帰っていく哀れな者もいた。


 関銭を払わずとも通過を許される者もいる。「道々のともがら」と称される諸国巡礼の宗教関係者、諸国巡回の職人、雑芸人は関税免除が通例だった。

 ただし、関守の中には、こうした旅の者にも難癖をつける手合いがいる。関銭のかわりに芸を披露させるのだ。退屈極まりない見張り仕事の、体のいい暇潰しである。


「さて、巫女殿」

 貧相な顔の関守は、二人を小屋の桟敷に引き据えて言った。

「汝らは何れの教会に属する者なりや、先達せんだつは誰なりや、これより何処へ参られるや、申されよ」

 ニドが丁寧に頭を下げた。

「この身はナニュンニの聖堂に属し、この者は妾の従者ハンソン、我が先達と申すは小別当アルサス様」

 そのアルサス様の御指示により、これより国境のネブラス岳に詣で、旦那衆の願文を捧げる旅、身分の証はこの通りと、添状を披露した。

 だが関守は、納得しないようで、

「旧神ナニュンニの巫女なれば、怨敵消除の秘法、剣光天王の法を御存知のはず。この場で御祈祷願いたい」

 と、身を乗り出した。

(おかしい)

 ただの暇潰しとは思えぬ執拗さにジャッケルは訝しんだ。

「さあ、さあ」

 関守は尚も言い募る。

(読めた)

 関守の好色そうな眼差しにジャッケルは納得した。ニドの美貌に岡惚れし、一夜の閨にでもと企んでいるのだ。

 それに気づいているのかいないのか、ニドは柔々やわやわと笑って、

「我らの呪する剣光天法は、善業成就怨敵必滅の妙法。供犠を供え壇上を飾り加護を祈るものなれば、斯様かような座敷下の白洲で行えば、必ずや不敬の罰を受けましょう。なれど関守様は妾の呪に御執心の御様子。ならば、別の呪法をお見せ申し上げます」

 立ち上がって、

「手桶に水を張ってこちらへ。それと、白洲に近き者どもを柵の向こうに退がらせてくだされ」

 関を通る順番を待つ庶人を五間ほど下がらせた。関守は迷惑そうな顔をしたが、己れが言い出したことなので後に引けない。言われた通り、平桶をニドの前に置いた。

「では」

 ニドが右袖を捲り上げて桶に手を入れ、何事か呪を唱えだした。

 暫くして、桶から白い霧のようなものが湧き出し、地面に拡がった。見物している人々の間からどよめきが起こった。

 やがて、霧の切れ目から水面みずもが現れ、そこに舟のような影が並んでいる。よく見ると、小さいながら、帆柱に帆を張り、屋形ととも屋形を備えた立派な軍船のなりをしている。甲板に華やかな甲冑を纏った二寸ばかりの騎士が何人もうごめいていた。


 そうこうしているうちに、船上の騎士たちの動きが慌ただしくなった。何事かと思えば、帆を持たぬ小舟の群れが大舟の船団へ近寄ってきた。それぞれの船に数人の騎士が乗っている。太鼓の響きが聞こえ、小さなときが上がった。小舟の群れは鯨を襲う逆叉さかまたの群のように大舟へ纏わりつき、両者の間で矢の応酬が始まった。矢を受けた騎士がもんどりうって海面に落ちていく。

 人々は息を呑んだ。白洲の間で、さながら海戦絵巻のような光景が現出している。


 やがて、大舟の船団は、火矢を受けて一艘二艘と燃え始めた。小舟の騎士たちが、熊手や薙鎌を使って大舟に乗り込んでいく。舟上でも戦いが始まった。それでも大舟側の騎士たちは絶望的な戦いを続けていたが、屋形の中から華やかな衣装を纏った女官たちが駆け出て、合掌して次々に身投げするのを見て、自らも得物を捨てて我先に海に飛び込んでいった。

 戦は小舟側の勝利に終わった。小舟の騎士たちが凱歌を上げている。

 ふと、最も華やかな武具を纏った騎士が顔を上げ、呆けたように眺めている関守に気づいて何事か叫んだ。

 それを合図に小舟の騎士たちが一斉に関守に目を向けた。

 小舟の群れは関守を取り囲むと、次々に矢を放つ。

「あ痛た、痛たた」

 顔といわず目といわず針のような小さな矢を受けて、関守が悲鳴を上げた。

「助けてくれい」

 床几から転げ落ちた関守に、なおも小人の矢が飛ぶ。

 

 ふいに、耳の後ろを押されてジャッケルは我に返った。目の前にニドの顔があった。ニドが手を伸ばして、ジャッケルの風池ふうち経穴つぼに指を当てている。

「静かに」

 ニドが小声で囁いた。

「こっちよ」

 ジャッケルの腕を引いて、足早に関門を通り抜ける。白洲へ目を転じれば、泣き叫び地を転がる関守を、関の雑人も関待ちの人々も呆然とした顔で眺めている。


 五町ほど歩いて、やっとニドは歩調を緩めた。

「たいしたものだ」

 ジャッケルがようよう口を開いた。

「いらぬ術誇りをしてしまいました」

 ニドは恥ずかしそうに呟いた。

「あのままでいいのか」

「四半刻もすれば術は解けます」

 ニドは俯いたまま答えた。無辜の人々まで術にかけた己れの大人気なさを恥じているだろう。

「あの関守もよい薬になったであろう」

 わざと明るく声をかけた。

 ニドが振り向いて、紅い瞳がまじまじとジャッケルを眺めた。

「妾が嫌になったりしませんので」

 ジャッケルの左手がニドの杖を握った右手を包んだ。

「我に憑きしの頼もしさに感じ入っている」

 ニドの顔にぱっと喜色が浮かんだ。

「腹も減った。どこぞに飯屋でもあればよいが」

「ええ、とってもお腹が空きました」

 ニドが眩しそうに笑った。


 暫く歩いて二人は小さな宿場に入った。茶漬屋の看板ばかりが目立つ貧し気な宿場である。

「休ませてもらうぞ」

 と入った茶漬屋も心得ていて、すぐ二人を桟敷に上げた。

 ニドは名物の山葵漬で飯を食べ、渋茶を飲むだけにとどめた。ここから石畳の道が始まる。峠はまだ上にあり、レッセンという平地を抜けないと楽できないとジャッケルから聞かされていた。そのジャッケルはというと、茶漬屋の親爺から近所の様子を尋ねている。


「この先のワリシにござりました施行所は、貧しい旅の人を助けておりましたが、十五年も前に潰れ、一向に再建が叶いませぬ」

 茶漬屋は路上に撒き水しながら話した。

「人足や峠越えの芸人などは、腹に何も入れず山道を参ります。峠には、ひだる神と申す餓鬼神が獲物を捕まえようと待ち構えておりましてな、取り憑かれた人の慰霊の碑が、無数に建っておりました。往還沿いの心ある人々が銭を出し合って休息所を設けましたが、戦のせいで世知辛うなってしまって、ついに廃屋になりましたので」

 茶漬屋は水桶を置いた。

「旅は憂いものと申しますが、その旅をせねば生きていけぬ者もおります。これは行者殿の人柄を見て申すのでございますが」

 ゆっくりジャッケルを見上げ、

「街道の施行所など、本来は庶人が合力するものではなく、御領主様がなさるものではございませんでしょうか。道を使う上流うえ方は何もせず、ただ関銭を毟ることのみ腐心し、下の者に面倒を押しつける。どこか間違っておるように思えます」

「御主人、実に筋の通ったことを申される」

 ジャッケルは穏やかに言った。

「身の程を弁えぬ申し様でございました」

 口許の硬皺が頑固そうで、とても飯屋の亭主らしくない。桶に掛けた指先に大きな胼胝たこがある。何気に背後の看板を見れば、茶漬の文字の下に細工物、寄木物と書いてある。土産物の細工師が、食えぬために飯屋を開いているらしい。

「こんな世の中は、いずれ変わるような気がいたします」

「そうかな」

「ええ、変わりますとも。こんな世の中、変わらなければ生きてる甲斐がございませぬからな」

「そうでござるな」

 ジャッケルは茶漬屋の言葉に肯いた。


「もう行くぞ」

 ジャッケルは座敷のニドに声を掛けた。

「あい」

 にっこり笑ってニドが答えた。

「空模様が怪しい。これから一息にレッセンまで歩く。大丈夫か」

「あいあい」

 答えながらニドが革草鞋に足を入れた。

「きついようなら遠慮せずに言うのだぞ」

「んもう、妾は子供じゃありませぬ」

「レッセンでは報謝宿に泊まる、料簡してくれ」

「まあ、外の坊を思い出します。妾の言った通り、お前様は妾の枝に止まって鳴くことになりました」

 悪戯っぽい笑みを浮かべ、ジャッケルの腕を取って立ち上がった。

「ふむ、儂のみきにしがみついてむせいたのは誰であったか」

「もう、憎い人」


 それから二人は足早に山道を歩いた。七つ頃に峠を越えた辺りで、空が泣き始めた。雨粒がぽつりぽつりと笠に当たる。雨で早めに店仕舞いする市を抜け、二人は昏くなる前に『モガミン』という名の報謝宿に入った。一夜の宿代の銭を払い、市で買った濁酒の小樽を二つ宿の世話人に託し、

「同宿の方々にこれをまわして下され」

 と頼んだ。これも相宿の者に対する気遣いである。その後、いつものように土間の片隅に寝床を作った。

 ニドは寝藁に横たわると、手甲脚絆を脱ごうともせず、そのまま眠入ってしまった。慣れぬ山行きの上に、術まで使って相当に疲労していたのだろう。寝顔を眺めているうちに、疲れを隠して殊更に健気に振る舞うニドの姿を思い浮かべ、何故か目頭が熱くなった。


 胡坐をかいたまま、眠りこけていたらしかった。

「ほれ、起きなされ。そちらの巫女殿も」

 誰かに揺り起こされた。

「宿の者、打ち揃っての飯じゃ」

 起こしてくれたのはな老ドワーフだった。

 ジャッケルは大きく伸びをした。すっかり夜も更け、室内には幾筋も灯明が灯っている。高価な胡麻油でなく魚油を用いているのか、ひどく臭った。

(眩しい)

 報謝宿で食事刻に灯を出すという贅沢はあまり聞かない。山間やまあいながらそれなりに潤っているのだろう。

「そなた様から頂いた酒で、皆もう酔い始めておりますぞ」

「それは何より」

「さあ、一味に入りなされ」

 と老人はニドの手を取って二人を夕餉の席に誘った。


 ここの食事も他所と変わり映えしない持ち寄りの雑炊鍋だったが、持ち込んだ酒のせいか、皆上機嫌で箸を進めている。

 やがて、どこからともなくうたが出て、手踊りまで始まった。これも相宿の約束事だ。

 ニドも請われもせぬうちに立ち上がって、巫女舞を始めた。可憐なダークエルフの巫女の優雅な舞に、一同から溜息が漏れた。


「巡礼殿はどちらまで行かれる」

 二人を起こしたドワーフの老人が、濁酒の注がれた茶碗を手に、ジャッケルの横に座った。

「ネブラス岳に願文を届ける旅でござる」

「ふむ、貴殿の佩いている太刀もそのためでござるか」

 老人が寝藁に置いたジャッケルの太刀をちらりと見た。

「一介の行者には過ぎたる得物でござるが、これも近頃は街道筋も盗賊夜盗が跳梁すればこそ」

 言い訳めいたジャッケルの言葉を老人が慌てて遮った。

「いや、そういう積りで申した訳ではござらん。これも世知辛い世の中故よ。お許しあれ」

 酒で赤くなった顔をぺしぺしと叩いた。

「実はこう見えて鍛冶をやっていての。金物を見ると、どうしても気になってしもうてのう」

「何の鍛冶を」

「鏃鍛冶じゃ」

 矢の必需品である鏃は並の雑鍛冶より小規模な設備で済む。それ故に軽々と諸国を渡り歩く者も多い。

「御老人、都におられたか」

「応さ。これでも元は禁軍にも鏃を納めておった聖ボルゲーノ教会の神人よ」

 ドワーフは急に砕けた口調になった。

「二年前の兵乱で住まいを畳んだ。まあ、今でも都との連絡つなぎは欠かしておらんが」

「二年前はいずれの側に」

 戦となると、鏃鍛冶は引く手数多あまたであっただろう。

「ムウ大公の下で槌を振るっておった。しかし、鎮西方面軍が進軍してきて都を逃れ、以後はシミュース川の近くに仮小屋を建て、手技で口に糊していた次第」

 ジャッケルがぴくと眉を動かした。

「御老人、その小屋とは、タイル村でござろうか」

「うむ、村と呼ぶのも烏滸がましいが」

 近頃は豊富な木材を用いて炭と鉄を操る人々が住み始めた。刀剣や甲冑を専門とする渡り職人が定着し始めているという。

「しかし、それももう終わりじゃ」

「というと」

「シミュース川の上流を汚す者がおっての。それで儂も小屋を捨てた。南へ流れる積りじゃ」

 軒を並べて暮らしていた炭焼きも同業の鍛冶も次々逃げ出しているという。

「川がそれほどに汚れるとは」

「気になるなら川を遡ればようわかる」

 老人は急に不快そうな口調になり、茶碗酒を啜った。


 ニドの舞が終わった。やんやの喝采に満更でもなさそうな表情で戻ってきたニドは、ジャッケルの酒碗に手を伸ばし、ごくごくと飲んだ。酒が一筋、反った褐色の喉を伝い、思わず見惚れた。

 一息ついて横に坐ると、

「どうでした、妾の舞は」

 ジャッケルに訊いた。

「うむ、見事な舞であった」

「お前様は嘘が下手。御老人と額が触れるほどに話し込んでおられた癖に」

「いや、許されよ。老体の愚痴に付き合わせてしもうた」

「いえいえ、こちらこそ詰まらぬことを申しました」

 ニドは瓶子を取って、頭を下げるドワーフの茶碗に酒を注ぎ足した。

「このような御上臈と道連れとは羨ましい」

「まあ、嬉しいことを」

 ニドは老ドワーフの世辞にころころと笑っていたが、ふいに黙り込んだ。

 ニドの目が細くなった。片膝を立ててドワーフを睨みつける。

 ニドの細い身体から殺気が溢れた。

「ニド」

 ダークエルフの巫女の思いがけぬ動きに、ジャッケルが驚いた。ニドが馬手に差した腰刀をゆっくりと引き抜く。普通の刀身ではなかった。素槍の四角錐の穂を刀拵に仕立てている。

 老人は凍りついたように動けない。ニドは刀身を立ててすっと目の高さに上げた。ジャッケルはそれを見て、腰を浮かせようとした。

「動かないで」

 ニドが、溜息のような細々とした声で言った。二人のうち、どちらに言ったのかわからない。

 が、人を圧するその力に、ジャッケルも老人も指一本動かせない。その頃には宿の面々も異状を察し、何事かと三人に目を向け始めた。

 ニドの腕が撓り、腰刀が宙を跳んだ。

 老人の斜め後ろの薄暗い土間に何かが跳ねた。

 ニドがゆっくりと立ち上がった。

「はい、もう動いて大丈夫でございます」

 人々が土間を見つめた。のたうち回る小さな影がある。

まむしです」

 ニドが葦で葺かれた屋根を指さした。

「あそこから落ちて参りました。山ではよくあること」

 四角錐の穂先が蝮の胴を貫いていた。

 ニドはその尾を持ち上げ、土間に頭を叩きつけて完全にその動きを止めた。


 宿の人々が一斉に歓声を上げた。

「舞姫の大蛇退治じゃ」

「流石は神様の御加護宜しき巫女様よのう」

 ニドが照れくさそうに微笑んで皆に頭を下げた。

「危ないところであった」

 老人が唇を震わせた。

「礼を申し上げねば」

「いいのよ」

 にこりと笑うと、ニドは宿の隅から笹の葉を数枚拾い、蝮を手早く包んだ。

「それをどうするのだ」

 ジャッケルの問いに答えず、ニドは笹の包みを囲炉裏の灰の上に置き、灰均はいならしで丁寧に灰を掛けた。

「薬食いか」

「あい。こうして蒸し焼きにいたします。朝にはいい具合に出来上がっていますから、皆に分けて差し上げましょう」

 そう言ってジャッケルの隣に腰を降ろした。

「お前様、怖うございました。ほら、こんなに震えて」

 ジャッケルの手に乗せた掌は、しかし全然震えていなかった。

「儂のほうが怖かったぞ」

「まあ、酷い言われ様ですこと」

「おぬしという娘は、全く底が見えぬ」

 冷や水を飲んで腹を壊して泣き言を洩らし、講談に感泣かんきゅうすると思えば、外法の術で関の人々を翻弄し、顔色一つ変えずに蝮を仕留める。

「あら、女というものは深遠なものでございますよ」

 ニドが懐から紙巻を取り出して、口にくわえた。

「いや、たいした巫女殿だ」

 老人がにじり寄ると、懐から火打石と竹火縄を取り出し、手慣れた仕草でニドの紙巻に火を点けた。


 次の朝、未だ陽も出ぬ頃、

「囲炉裏の蝮は置いていきます。皆さまで分けて精をつけてくださりませ」

 相宿の者たちに挨拶して二人は宿を辞した。

 幸い雨は上がっていたが、まだ重くたれ込めた鉛色の雲が空を覆い隠している。その曇天の下、二人は往還を外れて古道に入り、濡れた灌木の間を歩いた。タイル村に入る前に、シミュース川の上流を見ておこうと思ったのだ。

 険しい道だが、ジャッケルが宿で仕入れた情報では、まだ戦乱も及んでおらず盗賊の噂も聞かなかった。


 見回せば木々が淡く霞み始めている。新緑の季節だ。山の南側に目を凝らせば、萌黄色の薄い筋が幾層も重なっていた。

「このままこの辺りに姿を隠すのも悪くないか」

 ぼそりと呟いた。ニドが振り向いた。

「いかがなされました」

「うむ、山中に小屋でも掛けて暮らすのも悪くないかと思ったのだ」

「まあ、辛気臭いことを」

「ラミレス殿に奉公の義理はない」

 だが、道を歩きながら、ラミレスの古狐めいた面相を思い出し、肩を竦めた。

「いや、ただの戯言よ。忘れてくれい。あれでも一度はこちらから頼んだ主人だ」

「やはりお前様は根が善人でございますね」

 くくっと笑ったニドの手がジャッケルの袖に触れた。

「でも、妾も、それも悪くないと思いました」

「ほう」

「お前様と妾とスウの三人で暮らすのも、きっと楽しうございましょう」

「スウか」

 小麦色の肌の大柄な娘の顔を思い出した。

「おぬしの妹のように振る舞っていたが、何か所縁ゆかりがあるのか」

「あの子は元はフスイの山中で猟師をしておりました。杣人そまびとと諍いを起こし、御公儀に訴えられたのを妾が匿うたのです」

「ふむ、それ以来、妹のように慕われているわけか」

「ええ、とてもいい子よ」

「姉を儂に取られたと気分を害さねばいいが」

「大丈夫ですよ。そういうことは弁えている娘です」

「だが、三人で暮らすとなれば、かなり大きな小屋を掛けねばならぬな」

「あら、どうして」

「毎晩、おぬしの伽の声がうるそうては、スウ殿も迷惑する」

「もう」

 ニドがジャッケルの手をつねった。


 八つの頃、再び雨が降り始めた。

「悪い雲でございますこと」

 ジャッケルが空気の匂いを嗅いだ。

「この雨は当分止まぬ。この先にシミュース川とミカサネ川の分かれ目がある。少し早いがそこで寝場所を探そう」

「あい」

 ジャッケルはニドを手を引いて足早に急いだ。

 シミュース川とミカサネ川の分岐は、太古の昔、旧き民と呼ばれた穴居民が住んでいた場所だ。川の北側の岸肌に、彼らが穿ったと伝えられる洞穴が、今も無数に口を開けている。ほとんどは内部が崩れ落ちていたが、それでも幾つかはまだ奥まで続いている。

 その一つに二人は潜り込んだ。

 里の者か旅の者か、先に来た誰かが置いて行ったらしい荒筵が散乱している。それらを並べて寝床を作り、仲良く並んで坐った。

「濡れておらぬか」

「ええ、左程には」

「なら、飯にして今日はもう寝るか」

 二人して呆けたように穴の外を見つめながら、干飯を齧り、竹筒の水を飲んだ。こうして穴の底から空を見上げていると、何故か笑いがこみ上げてきた。

「お前様、どうなさいました」

 ジャッケルの笑い声に気づいたニドが訊いた。

「いや、何やら自分がまるで往古の民になった気がしてのう」

「この穴を掘った人たちも、こうして坐って雨の音を聞いていたのでしょうね」

「うむ、そう思えば風流なものよ」


「ねえ」

 暫くして、独り言のようにか細い声でニドが聞いた。

「どうした」

「猿轡したほうがいいのかしら」

「何の話だ」

「ほら、お前様が煩いって」

 何のことかわからず、ジャッケルが怪訝な顔でニドを見つめた。

「妾の閨の声が大きいって」

 やっと察したジャッケルが破顔した。

 ひとしきり笑って、やっとジャッケルは息を整えた。

「いや、済まん。それほどに気にしていたとは」

「気にします。妾とて女です」

 上目遣いに凝っと見つめられた。

「ニドの声は好きだ。もっと鳴いて欲しいくらいよ」

 ニドが顔を赤くして目を伏せ、上体を傾けて頭をジャッケルの胸に押しつけた。

「まことですか」

「まあ、口を塞がれて喘ぐ姿も見てみたい気もするがな」

 銀髪を撫でながら、

「幸いなことに、今夜は我らの他に誰もおらぬ」

 空いた手で筵を巻いて、優しく押し倒した。

「存分に鳴かれよ」


 翌朝は日の出とともに起き、濁った川面で顔を洗った。昨日までの天気が嘘のように綺麗に晴れ上がっている。干飯を齧りながら、今日の行動を思案していると、穴から肌着を引っ掛けただけのニドが寝惚け眼でよたよた出てきた。

「具合はどうだ」

「ええ、すっかり疲れも取れました。少し寒うございますが」

「春とはいえ山の中だからな。そんな恰好では風邪をひく」

 ジャッケルから干飯を受け取って一口齧った。

「でも、この冷たさが気持ちいい。心が浄められる気がいたします」

「この川を下ればタイル村だ」

 目の前の川の流れを指さした。

「上れば、ドワーフの鏃鍛冶が言った川を汚す何者かがいる」

「どちらへ行かれますので」

「上流に向かう」

「スウとシーゲルの待つタイル村へ行かないので」

「村へ向かうのはその後だ。仕事柄、知れることは知っておきたい」

 間諜働きしていた頃に仕込まれた癖と言っていい。

「ただ、何があるかわからぬ。ニドはここで待っていてくれ。明日の朝までに戻らなければ、おぬし一人で下流に向かってくれ。半日とかからぬはずだ」

「いえ、妾も行きます」

「本当に何があるのかわからぬのだ。それにここからは道なき道を行く。女子おなごの脚では無理というもの」

 ニドがジャッケルの顔をきっと見上げた。

「お前様、想い人に待てと言われて大人しく待つ女がいましょうや」

「わかった。だが、決して無理はするなよ」

「大丈夫です。これでも海千山千弥勒三千の古狐でございます故」

 ニドはにっと笑って、身支度するために洞へと戻っていった。


 二人は川沿いを注意深く進んだ。

 岸辺の岩についた水垢を見ると、上流部の水流に随分と変化が起きていることがわかる。春だというのに水量が少ない。少々異常であった。

「上流に堰ができているな」

 要所要所に、武装した男たちが見張っている。二人は山に分け入り大きく迂回して進んだ。

 やがて、川が大きく蛇行する辺りの小丘に、小屋の群れが見えた。周囲には柵が並び、貧弱ながら砦の形を取っている。

 川舟が何艘も岸辺を行き来し、河原には貧し気な格好の男女が出ている。小さな堰の周囲に無数の掛け樋が通り、虫干しでもするように粗筵が広げられていた。

 ジャッケルがしばらく観察していると、河原の人々は手に筵を持ち、水際に運んでは川に漬けだした。鍬で川砂を筵にかけている。上流部の流水が汚れたのはこれが原因だろう。

「砂金ですね」

 ニドが小さく呟いた。

「うむ、砂金を集めているのだ。これではあの鍛冶師が愚痴るのも無理はない」

「どうなさいます」

「西の口に見張りが見えない。そこから潜り込む。おぬしはここで待て」

「もう、何回言わせるのです」

「おぬしは後詰だ。何かあれば得意の術で助けてくれ。それに、中ではおぬしのような美形は目立つ。料簡せよ」

 言われてニドは恥ずかしそうに微笑むと、こくりと頷いた。

「頼んだぞ」

「あい」

 櫃を置くと、ジャッケルは身を低くして草叢を分け入った。


 ジャッケルは西側の切通を登った。古びた柵が一重に、崩れかけた物見台が一つ。中は荒れ果てて廃村のようだった。それでも、曲輪のような広場では、百人近い人々が筵編みや荷造りに働いていた。

 笞を手にした武者が作業人たちに命じている。

「急げ、日暮れまでにイスの城への荷を造らねばならぬ」

「気を抜けば怪我人死人が出る。作業場の隅々にまで目を光らせよ」

(砂金を出荷しているのだ)

 イスの城はミドラント州に隣接するトスカル州を治めるソルダート伯の要衝である。

(つまり、越境して砂金をし取っているのか)

 ジャッケルは、素早く目を走らせ、木戸口や武者溜りの位置などを覚え込むと、その場を離れた。


「戻ったぞ」

「お前様」

 ニドがぱっと顔を明るくした。その顔に口を寄せ、小声で言った。

「見るべきものは見た。このまま夜通しで来た道を戻り、あの洞で休んだ後に村へ向かおう」

「それなのですが」

 ニドが怪訝に眉を寄せた。

「あの城は不穏でございます」

 ニドはあの集落を城と呼んだ。

(この娘、城の縄張りに心得があるのか)

 野戦土木術に詳しいとは。改めてジャッケルは、このダークエルフの娘に底の見えぬものを感じた。

「ただの砂金取りの集落だぞ」

「それにしては、剣呑な気が立っております。ただの見張りにしては戦気横溢」

「確かに、言われれば武装した兵の数が多過ぎる気がした」

「妾は望見もいたします」

 戦場で彼我の気を見て卦を読む術だ。

「我がは軍配師の術も修めておったか」

「からかわないで。あれは出陣の卦です。急ぎ村へ向かい、スウとシーゲル殿へ知らせたほうがよいと思います」

「しかし、どうやって」

「ほれ、あそこを」

 ニドが指さす数町先に、小舟が数艘浮かんでいる。廃舟同然の古い渡し舟ばかりだ。

「夜を待って、あの舟で川を下れば、明日の朝には村に着けましょう」

「夜中に舟で川下りか」

 暫く考えるふうであったが、ニドの眼を見て決心した。

「わかった。そなたの卦を信じよう」


 日が落ちて、二人は闇の中に忍び出た。

 一番具合の良さそうな舟を見つけ、近寄ろうとしたジャッケルは、ふいに立ち止まって周囲を見回した。

「お前様、どうしました」

 ニドが小声で訊いてきた。

「まずいことに、今宵は十六夜だ。月の光が川面に反射している」

 身を屈め、枯れた葦の茂みに這い寄った。ニドが素直にジャッケルの真似をした。これが彼女の命を救った。

 背後から音を立てて飛来した矢が、ニドの背負った笈に斜めに立った。

「きゃん」

 その勢いでニドがもんどり打って河原に転がる。


「手応えあり」

 暗がりに声が上がった。

「止めを刺せ」

「首を獲らずば無駄働きぞ、伯爵様から銭を貰えぬ」

 声が聞こえてくる。相手は三人らしい。

 ジャッケルは素早く櫃を外し、太刀を抜いて草陰に這った。三人が通り過ぎるのを待って、一番後ろの敵の背に斬りつける。

「あっ」

 残った二人のうち、弓を持った敵が振り返り様に矢を放とうとしたが、刃先を逆さに向けたジャッケルは、弓の弦ごと相手の脇腹を斬り上げた。残った一人は闇の中に数歩逃れたが、河原にどさりと倒れた。いつの間にか回り込んでいたニドが、その腹に槍穂の腰刀を打ち込んでいた。

「大事ないか」

「あい。でも笈が壊れてしまいました」

「舟を出すぞ」

 幸い、渡し舟の底に穴は開けられていない。

「向こう岸にも敵がいるはずだ。一気に下るぞ」

 闇の中に白く泡立つ瀬を見極めながら、二人は櫓を操った。どこからか一筋、二筋、矢が飛んできたが、いずれも当たらない。

 暫く漕ぎ続けていると、

「しませんこと」

 ニドが何事か言った。

「どうした。聞こえぬ」

「お前様と一緒だと、退屈しませんと申しました」

 ニドが破れかぶれに叫んだ。

「抜かしおる。それはこちらの台詞よ」

 ジャッケルの返事に、ニドが声を立てて笑った。その笑い声は、闇の中をいつまでも川面に響いた。


 翌朝未明、舟先で川面を見張るニドが小さく声をかけた。

「お前様、止めてください」

 ジャッケルは静かに櫓を漕ぐのをやめた。返事するのも億劫なほど疲れていた。

 ニドが身を乗り出し、水面に顔を漬けるように身を屈めた。

「おい、危ない」

 流石に声を掛けたが、ニドに手で制された。近寄ろうとしたが、小舟が均衡を崩して転覆する恐れがあるので近寄れない。仕方なく、黙ってニドのすることを見ていた。

 やがてニドは身を起こして、振り向いて言った。

「お前様、この先に人里が」

「タイル村か」

「わかりません。でも人の皮脂ひしと炭、金気かなけの臭いがします」

「タイル村は炭焼きと鍛冶が多く住むというが」

「なら、当たりでございましょう」

「ソルダートの息のかかった者どもかもしれぬ。油断すまい」


 二人は岸に船を寄せ、岸に上がると、林に入った。矢で壊れたニドの笈を埋め、中の荷はジャッケルの櫃に移した。

「おぬしが射られたときはぞっとしたものよ」

「まあ、嬉しや」

「怪我なくて何よりであった」

「それが少し」

「なに」

 目を剥いたジャッケルにニドが恥じ入るように顔を伏せた。

「転がったとき、鼻の先を」

 擦りむいてしまいましたと小声で言う。

「どれ」

 顔を寄せ、暁の日の光を頼りにニドの顔をまじまじと見つめた。

「お前様、そんなに寄られては恥ずかしい」

 ニドが身を捩った。

「今更恥ずかしがる間柄ではあるまい。見せてみよ」

 確かに形の良い鼻先が僅かに赤く剥けている。舌先で触れると、もう疵は乾いていた。

「これなら大事無い。跡も残らぬ」

「まあ、殿方と違い、向こう疵は女の一大事なのですよ。もそっと心配してくださいませ」

「案ずるな。疵だらけでも汝は美しい」

「知れたこと故、嬉しくありません」

 ニドが嬉しそうに微笑んだ。


 二人は村へ向かった歩き始めた。従者ということになっているので、ジャッケルはニドの二歩後ろについている。前方を眺めると、シミュース川に流れ込む渓流に沿って板葺いたぶき小屋が並んでいる。

 もう人々は起き始めているのだろう。エルフの男が一人、水辺で竹の棒を洗っている。籌木ちゅうぼくと呼ばれる便箆べんへらのことだ。

「お頼み申す」

 ジャッケルが男に声をかけた。

 男が立ち上がり、胡散臭げに頭を下げた。

「これはネブラス岳に向かう行者にて候。道に迷って夜通し歩き詰めで難儀してござる。暫時この村で休息させていただきたい」

「まことに行者殿か」

 男が錆々さびさびとした声で答えた。そうであろう。朝靄あさもやの中から突然現れたのだ。警戒しないほうがおかしい。

暮露ぼろではなかろうな」

 暮露とは虚無僧こむそうの俗称である。俗体で諸国を徘徊する巡礼僧だが、実態はほとんど乞食と変わらず、徒党を組んで喧嘩押し込みをする輩も多い。

「ほほ、女の暮露などございましょうや」

 ニドが口に手を当てて笑った。

 それでも男は疑い深そうに眺めている。虚無僧の中には、道々の宗教修行者でありながら女性を連れ歩く者もいるのだ。

「ここは火床を使う小屋が多く候えば、巫女殿におかれては火伏せの御祭文を唱え給え」

 試しているのだ。だが、ニドはやわと笑って、

「火床は女人禁制。そこで妾が呪を捧げるなど、必ず不浄の罰を受けましょうぞ」

「う、うむ」

 男が口籠った。

「かわりに、火難除けの呪を捧げましょう」

 ニドがえいえいと宙に印を結んだ。

「おんまりしえいそわか、おんさんまいえいそわか」

 と呪を唱え、最後に、

「わがいえはかなんのやまのつちつくりはしらはやしろのかわがわのいし」

 と唱えた。

「ありがたや」

 ようやく納得した男が深々と頭を下げた。

「ここは空き家が多い。好きな屋に入って休まれよ」

「かたじけない」


 二人は手近な小屋に入った。元は鍛冶小屋だったのだろう。中央に炉が切られている。

「元は鍛冶場でござった故、炉に火を入れるのは御遠慮願いたい」

 後から入ってきた男が言った。

 改めて見回すと、鍛冶の仕事場にしては、妙に整っている。炭の粉や煤で汚れてはいるが、土間には貴人が用いるような薄縁まで敷かれていた。

「巫女殿はこちらに坐られよ」

 男は薄縁にニドを坐らせ、平桶に水を張って持ってきてくれた。

「後で粥など進ぜよう」

 先ほどまでの態度と違い、エルフの男は親切だった。

 出ていこうとする男にニドが声をかけた。

「この村はなんと申しますので」

「タイル村でござる。まあ、近頃はめっきり人も少なくなってしもうたが」

 力無く自嘲するように男が答えた。


 ジャッケルは身を屈めてニドの足を取り、脚絆と革草鞋を脱がせて足袋を取った。馥郁ふくいくとした香りが小屋に漂った。

「まじまじ見ないでください。恥ずかしい」

 ニドが楽しそうに身を捩るのも構わず、ニドの足を取って平桶に漬けた。水の冷たさにニドが心地良さそうに目を細める。

「ああ、気持ちいい。お前様にすすいでもらえるなんて夢のよう」

 だがジャッケルは相手にしない。

「ふむ、足袋擦れなどできておらぬな。痛いところなどないか」

 確かめるように、ニドの足指の股を丁寧に洗っていく。その度にニドの足がぴくりと痙攣した。

「お前様、もう少し」

 ニドの言葉を遮るように、ジャッケルは小声で言った。

「やはりタイル村であったな」

「あい」

「シーゲル殿とスウ殿を探さねばならぬ」

「小さな村です。わざわざ探さなくても向こうから来ましょう。それより、お腹が空きました」


「おう、いたいた」

 戸口から声がした。振り返ると、オークのシーゲルとスウが立っていた。

「シーゲル殿、スウ殿」

 ジャッケルが立ち上がった。

「ラミレス殿の御指図により罷り越した」

「それは大儀なことでござる。ああ、殿はやめてくれ。我らは同輩ゆえ」

 オークが手にした鍋を置き、のっそりと胡坐をかいた。

「先程、そこで鍋を持ったエムデと会っての。巫女と従者の二人連れと聞き、そなたらと思って代わりに持ってきたのだ。酒はないが許されよ」

 エムデというのがあのエルフの男の名なのだろう。

 スウが欠けた碗と箸を四人分並べていく。

「まずは飯にしよう」


 四人は、鍋を囲んでそれぞれ情報を交換し合った。

「ふむ、カノンの殿はカッシャの往還にまで関を広げたか」

 シーゲルは呻くように言った。

「あのようなひなな道まで関を設けるとは、よほど銭が欲しいと見える」

 ジャッケルが薄い麦粥を啜った。

「皇帝は老齢で何時死んでもおかしくない。それに備えて軍費を集めておるのだろう」

 皇帝が崩御すれば、後継問題が表面化する。必ず再び戦が始まる。

「だから、ソルダートの伯爵様も砂金を集めてたのでしょう」

 ジャッケルの言葉にニドが返した。

「ああ、あの砂金場のことか、あれも軍資金集めであろうな」

 シーゲルが、懐から紙巻を取り出した。

「気づいていたか」

「まあな。最初は知らなんだが」

「どういうわけだ」

「はじめはね、山賊退治のはずだったの。ラミレス殿の御指図もそうだったし」

 スウが紙巻をくわえて言った。

「うむ、しかし出てきたのは山賊野伏ではなかった。騎馬に長柄を揃えた徒歩かち衆、弓の衆まで、あわせてざっと百は押し出てきおった」

「この人、それでも逃げようとしなかったんだよ」

 スウがシーゲルを見て呆れるように言った。

「我が部族には敵を前に逃げる法はないからの」

「いい鎧を着てたから良かったものの、受けた矢疵が八に刀疵二、おまけに槍疵三つだよ、この人。あたしに担がれて逃げてる時も、返せ返せってうるさかったんだから」

「その折りは悪かったと何度も詫びたではないか」

 面目なさそうに緑色の巨人が俯いた。

「流石はオーク。それだけの疵を受けて、よく無事でござったな」

「いや、十日も寝込んでおった。歩けるようになったのも二日前のこと」

 ほれこの通りと言って小袖を捲った。僅かに薬草の臭いがする。槍穂で抉られたらしい痛々しい痕が見えた。まだ新しい。

「これは酷い。よく助かってござった」

「うむ、このスウが熱心に看病してくれてのう」

「うん、薬草集めたり熱を取ったり大変だったよ」

 スウが得意げに胸を張った。

「その金漉きの連中、良からぬことを企んでおるようです」

 ニドが昨日の物見の件を詳しく話した。


「それは三日前の件であろうな」

 シーゲルが腕を組んだ。

「何かあったのか」

「三日前、気の荒いのが数人、刀を佩き長柄を持って談判に行ったが、誰も帰って来なんだ。この屋の主もその内の一人よ」

 シーゲルが首を巡らせて悲し気に小屋の中を見回した。

「恐らく、これを機に目障りなこの村を焼き滅ぼそうとしておるのであろう」

「いつ頃寄せてくるかな」

「あの隠し砦からこの村まで、川沿いの道を歩いて丸一日かかる。早ければ今夜にも寄せてくるであろう」

 シーゲルが髭の剃り残しを計るように太い指で顎を撫でた。

「なら、村の人に早く逃げるように言わないと駄目なんじゃない」

 事態を理解しているのかしていないのか、スウがまるで世間話するような口調で言う。

「そうだな。儂とスウで村人に説いて回ろう」

 シーゲルがぽんと軽く膝を叩いた。

「それで、あたしたちはどうするの。帰ってラミレス様に報告すればいいのかな」

「そういう訳にもいくまい。我らの役目は、この村を脅かす連中を追い払うこと」

 シーゲルが僅かに憮然とした。戦場で死ぬことに重きを置くオークの戦士にとって、敵を背に逃げ帰るなど論外なのだろう。敵わぬまでもせめて一矢報いて帰りたいと考えているのだ。

「だが、百の軍勢相手にいかがいたす」

 ジャッケルが尋ねた。

「ここは無事に帰って復命するのが料簡でござろう」

「むう」

 緑肌の巨人が腕を組んで唸った。


「手はありまする」

 ニドの声に、一同が振り向いた。

「ニドよ、何か良い手があるのか」

 ジャッケルの問いに、ニドが澄まし顔で答えた。

「あい、お前様。ここに寄せてくるならかえって好都合。一網打尽して差し上げましょうぞ」

「そのような手が」

 シーゲルが巨きな体を乗り出した。

「この鼻の仇も討たねばなりませぬ故」

 鼻に手を当てたダークエルフ娘の唇がいびつに歪んだ。笑ったのだ。


 山の日の入りは早い。無人の村は黄昏に包まれようとしている。

「来るであろうか」

 小屋の陰に身を潜めたジャッケルがぼそりと呟いた。

「ニドの望見観相の腕は確かだ。今夜来なくてもいずれ寄せてくるであろう」

 シーゲルが答えた。七尺の巨体に、鎖の上に鉄甲の小札でおどした腹巻を重ねて着用し、頭はしころの広い筋兜、黒鉄造りの面甲を首に提げ、足元は草摺くさずり深く、膝鎧に大立挙おおたちあげの膝当、手には柄が六尺、身は四尺の大薙刀という物々しい出で立ちだ。

 前に着けていた鎧が壊れ、これは村の鎧師が仕立ててくれたものと、シーゲルは嬉しそうに言った。

 ジャッケルも鉄札の腹巻に鎖籠手と鉄の脛当、頭は三段の鉢金に半首、愛用の二尺五寸を佩き、手に刃渡り三尺の大長巻と合戦支度だ。


「ところで」

 暇を持て余したのか、シーゲルが呟くように言った。

「何か」

「わぬし、ニドと懇ろになったであろう」

「はて」

 何の気なしにジャッケルは答えた。暗がりのおかげで顔色がわからないのを感謝した。

「何を烏滸なことを」

「隠さずともよい。あのニドのわぬしに対する立ち居振る舞い。儂でもわかったわいな」

 喉を鳴らしてオークが笑った。

「儂でもということは、スウも」

「勘のいい娘だ。口には出さぬとも、気づいておろうよ。兄様と呼んでくれるかもしれぬぞ」

「むう」

「どうした、照れるような齢でもなかろうに」

 面白そうにシーゲルが続けた。

「あのダークエルフの娘はの、誰が袖を引いても靡こうとせなんだ。それをわぬしがあっさりと物にした。むしろ感服しておる」

「はあ」

 感服されても困る。

「ダークエルフの女は情が深い。精々応えてやることだ」

 にたにた笑いながらシーゲルが忠告する。どう答えていいのかわからず、話題を変えようとジャッケルは言った。

「おぬしはニドとも付き合いが長そうでござるが」

「儂がラミレス殿に雇われた頃には、既にニドは殿に使われておった。我ら一党の中で一番の古株で、聞くところによると、殿の先代から仕えておったらしい」

「まさか」

「わからぬ、そういう噂を聞いただけだ。我らは特に身の上話をする間柄でもなければ、本人に確かめたこともない」

 シーゲルが腕を組んで答えた。

「少なくとも、儂が一党に入ったころ、かのニドは殿の廻国御用を勤めて西へ東へ諸国を忙しく巡っておった」

 廻国御用を勤められるような旅慣れた娘には見えない。ジャッケルは、ニドが冷や水で腹痛を起こし、ナギの湯治場で一泊した話をした。

 話を聞いたシーゲルは、下世話な笑みを浮かべた。

「それは、わぬしと湯に入りたかったのであろう。想い人と湯浴みせんがために己れの腹を壊すとは、何という深慮遠謀」

「まさか」

 だが、言われてみれば、健脚のジャッケルに、あの細脚で遅れもせず弱音も吐かずに付いてこれたのも納得がいく。

「そこまで惚れられるとは男冥利よな」

「儂は男女の機微にはとんと疎くてわからぬが、そういうものでござるか」

「そういうものでござるよ」

 と答えたシーゲルの顔から、ふいと笑いが消えた。

「来たぞ」

 小屋の陰から窺うと、川筋に松明の列が見えた。

「やはり、ニドの見立てが当たったか」

 ジャッケルは長巻の柄を握り締めた。


 夜討の軍勢は、タイル村から一里の場所で足を止め、最後の休息を取った。騎乗の兵たちが、鎧の大袖を外して杏葉の金具に代えた。夜戦で働きやすくするためだ。

 徒歩の者どもも手慣れたもので、馬沓や草鞋を新しいものに代えている。

(ここから一気に走る積りだ)

 林の陰から見ていたスウは、一行の頭数を数えた。騎兵六名を含めて八十余。残りは砦の警備に残したのだろう。村とも呼べぬ小さな集落を襲うには強力すぎる陣容である。

(今宵の合戦は、結構骨が折れそう)

 スウは合戦と言ったが、滑稽なことにこちらはたったの四人しかいない。スウは口の中で小さく呪を唱えた。最後に眼を閉じて、

(八十の兵、悉く討ち果たすよ)

 と強く念じた。

 やがて、一行が隊列を組んで走り出した。金具の音が小さく響く。スウは河原を忍び出て、走る軍勢の後を追った。


「静か過ぎる」

 隠し砦の主で、夜討の大将であるユール・ヒューゴは訝しげに言った。

 剛勇で鳴るマクレイが馬を寄せてきた。

「我らの夜討を知って逃げ散ったのでは」

 だが、慎重なユールは同意しなかった。

「油断しているように装い、その実、罠かもしれぬ。彼奴きゃつらは軍に参陣し、時に得物を手に戦場働きする野鍛冶、武具師であるぞ」

 ここは定跡通りにとユーリは大きく手を上げた。

 それを合図に道沿いに兵が動き出した。四半刻ほど時間をかけて道沿いに展開が終わると、

「火」

 楯の内で、弓兵が布を巻きつけた鏃の先を松明につけた。

 マクレイが、狩俣鏃かりまたやじり付きの鏑矢かぶらやをユールに手渡す。

 焼働きなのでいちいち口上を述べることもせず、きりきりと弓を引き絞ると、さっと放った。

 鏑矢は鋭い音を発して宙を翔んだ。

 続いて、弓兵の火矢が、弧を描いて村へ落下する。

「足りぬ」

 マクレイが悔し気に呟いた。小屋の屋根に火矢が立っても、紙のように燃え上がるわけではない。

「火勢が不足じゃ」

 弓兵もそう感じたのだろう。待つまでもなく、二度目の斉射があった。今度は初矢の火を目標にしているので無駄矢が少ない。悉く板葺の屋根に立った。


 ようやく、人々の立ち騒ぐ声が聞こえてきた。だが、不思議にも人影は全く見えない。

打物うちもの衆を」

 ユールの言葉にマクレイは一礼すると、薙刀や太刀を担ぐ雑兵どもを率いて馬側を離れた。

 者ども、討ち入れと叫んでマクレイは真っ先に突入した。

 一度火が回ると、後は早い。あちこちで小屋が火を吹いている。

鏖殺おうさつせよ。一人も逃すべからず」

 夜討の勢は燃える小屋の間を駆け回り、杉戸を蹴倒した。

「誰もおらぬ」

「やはり逃げたか」

 その時、

「マクレイ様」

 兵の一人が彼を呼んだ。

「何だ、見つけたのか」

「あれを」

 燃える小屋を背に、女が一人立っていた。

「誰か」

 マクレイが怒鳴った。銀髪のダークエルフの娘だった。袖無しの黒い小袖をまとい、素足に木沓を引っ掛けている。

「この村の者か」

 火の粉が足許で円を描いた。

 ダークエルフの娘がほほと笑った。

「相変わらず、焼働きが得意よな、マクレイ」

「何を」

 熱風がマクレイの頬を撫でた。

「不審な奴、名乗れ」

「この顔、見忘れたか」

 女の顔がゆらゆらと変化し、違う若い女の貌が現れた。明るい銅色の髪を靡かせた白い肌の女だった。

「あっ」

 マクレイは絶句した。

「忘れたとは言わさぬぞえ。ルインの城で汝に責め殺された、メリル・レム・レイナスじゃ」

 マクレイは太刀を取り落としかけた。

 おおと、そこにいる誰もが声を上げた。女の体が黒々と膨れて、道一杯に広がったのだ。

 巨大な体がふわりと飛び上がり、一直線にマクレイに迫る。

「物怪」

 マクレイは太刀を取り直し、化物に向かって斬り掛かった。怪物がマクレイの頭上を掠めるように飛び過ぎる。その時は既に、馬上のマクレイの首は皮一枚残して鎧の押付にぶら下がっていた。


 怪物は身を翻して、まだ燃えていない小屋の屋根に止まると、巨大な身体を揺すった。その体から無数の刃が突き出てぎらりと光る。

「ひっ」

 夜討の兵たちが同士討ちを始めたのは、この瞬間だった。

 マクレイの側にいた兵が、気味の悪い声を上げて仲間に打ってかかった。これを合図にして、全軍に同士討ちが伝染した。

 雑兵たちに引き摺り降ろされた騎兵が滅多刺しされ、弓兵は楯を挟んで矢を放ち合う。

「己れら、何を血迷うたか。弓を降ろせ、太刀を降ろさぬか」

 ユールが叫ぶ。その時、雑兵の一人がユールの鞍にしがみついてきた。鐙を上げてそ奴の面を蹴った。が、巧みに避けられた。

 雑兵どもがユールの草摺を握って持ち上げ、幾つもの白刃が鞍壺くらつぼを襲った。

 即死であった。

 馬は死骸を乗せたまま、砦に向かって駆け去っていった。



「何が起きた」

 ジャッケルとシーゲルは呆けたように立ち尽くしていた。

「これがニドの術か」

「話には聞いていたが、これほどとは」

 シーゲルすら顔を強張らせた。

 辺り一面に敵兵の死骸が転がり、彼らの他に生きている者はいない。


 始め、ニドが騎兵と何事か言葉を交わしていたかと思うと、ふいにスウが薙刀を振るって騎兵の首を斬り落とした。それを合図に敵兵が一斉に同士討ちを始めた。ジャッケルとシーゲルがやったことは、取り乱した敵を後ろから斬ったくらいだ。

 目にしていながら、何が起こったのか理解できなかった。

(ガランの長者一家もこうして皆殺しにしたのか)

 改めて、心の底でニドの底知れなさに慄然とした。


 やがて、蹄の音が聞こえ、ニドとスウが敵から奪った馬に乗って現れた。スウの鞍に兜首が二つ下がっている。

「お前様」

 ニドが馬上から声をかけた。

「ニド、一体何をした」

「話は後。妾とスウは、敵の城に物見に行って参ります。ここの後始末を頼みました」

 ジャッケルの返事も聞かず、二人は駆けていった。

「後始末と言われても、一体何をすればいいのだ」

 ジャッケルとシーゲルは改めて惨状を見回して、茫然と呟いた。


 太陽が中天を過ぎ、小具足姿のジャッケルとシーゲルが、ようよう火が消えた小屋から焼け材を引き出し終えた頃、ニドとスウが戻ってきた。

「無事だったか」

 消し炭の山に腰掛けたジャッケルが煤だらけの顔を上げた。

「あい。案外手早く片づきました」

「どうだった」

 馬から降りながら、ニドが答えた。

「敵将の死骸を乗せた馬が帰ったことで、敵城は大童おおわらわでございました。そこにスウが兜首を放り込んだものですから」

 残っていた兵も人足も瞬く間に逃げ散ったという。

「怪我はないか」

 ニドの頬に触れようとして伸ばした手を、煤で汚れていると思い出し、そっと引いた。

 それに気づいたニドが素早くジャッケルを手を捕まえて、自分の頬に押しつけた。

「おい、汚れる」

 しかし、ニドが仔猫のように目を細める様を見て、続く言葉を呑み込んだ。


「堰は切っておいたから、また川の水も綺麗になるよ」

 馬を繋ぎながらスウが言った。

「そうか、これで終わったか」

 シーゲルが深く嘆息し、

「それでは飯にするか」

 まだ路上に死体が散乱し、腐敗臭と血の臭いが立ち込めている中で、平然と干飯を齧りだした。

「死体はどうする」

 ニドに手を取られながら、ジャッケルが見回した。

「これだけの数だ、埋めるわけにもいくまい」

 既に、死体を漁りに集まった鳥たちが、樹上で不気味な鳴き声を上げている。

「鳥獣に任せるしかあるまいな」

 シーゲルが干飯を嚥下しながらぼそりと言う。

「村の者どもは帰ってくるか」

「まあ、無理じゃないの。昨夜の火を見て帰ってこいってほうが無理だね」

 スウがぶっきら棒に答えた。

「つまり、もうここにいる理由はないのか」

「そのようで」

 ニドが紅い眼を開けて答えた。

「妾たちも早くこの地を離れましょう。カノン伯の者どもに見つかると厄介でございます」

「では都に帰るか」

「あい」

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